アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

日本幻想文学集成 (1) 化鳥

2005-07-12 08:45:00 | 
『日本幻想文学集成 (1) 化鳥』 泉鏡花   ☆☆☆☆★

 先日読了。
 鏡花の短篇集は初めてだった。国書刊行会の日本幻想文学集成ということでバリバリの幻想譚を期待したが、中にはそうでもない、普通小説に近いものもあった。もちろんそういう短篇にも幻想風味はある。ちなみに、私は鏡花のいわゆる人情物といわれる小説をまったく読んだことがないので、鏡花に対する見方はかなり偏っていると思う。私にとって鏡花は幻想作家以外の何者でもない。収録短篇は以下の通り。

化鳥
蠅を憎む記
処方秘箋
二世の契
貴婦人
印度更紗
伯爵の釵
妖魔の辻占
雨ばけ
光籃
紅玉

 鏡花の物語は奥が深い上に、細かい部分を理解するのに骨が折れる。文章が妙だからだ。従って何度か読み返してようやく、「あ、そうだったのか」となる場合もある。だから一回読んだぐらいでレビューするのは危険、というか無謀なのだが、そういうことを気にしていては何もレビューできなくなってしまうので、第一印象ということで書かせていただきます。

 とりあえず私の一押しは『化鳥』、『光藍』、『紅玉』の三篇。

 『化鳥』は鏡花初の口語体小説ということになっている。少年の独白である。少年は母と一緒に住んでいて、橋の通行料を取ることで生活している。この話は物語が非常に説明しづらい。少年の独白という形式に隠れ、本当は何なのかということを意図的に曖昧にしてあるからだ。この母子は本当に人間なのか、というところからしてよく分からない。おそらく人間だと思う。母は昔裕福だったが、何やらものすごく過酷な経験を潜り抜けて今に至っているらしい。少年は溺れそうになった時に誰かに助けられ、母はそれを「翼の生えた美しいお姉さん」だという。少年はそのお姉さんにまた会いたいと思って過ごすが、最後にお姉さんはお母さんではないかと思う。「翼の生えた美しいお姉さん」とは何なのか、それは母なのか違うのか、そういうこと一切が謎のままにこの話は終わる。その他にも、猿を人間と思って扱うだの、動物と人間が同じか違うかと先生と議論する話などが出てくる。
 深読みしようと思えばいくらでも深読みできる不思議な話である。これが鏡花23歳の作である。参った。

 『光藍』はばりばりの幻想譚。水辺で月の光を掬い取る少女の話である。安来節一座の座長が少女をかどわかそうとして舟に乗せる。雨が振って来て小屋に避難する。小屋は闇の中。少女は月の光を持ってきて、小さな斧のかんざしでそれを削り、月輪を作る・・・。鏡花印全開。ゆったりと始まり、あれよあれよという間に超現実の世界に突入していく。月の光を斧で削るというアイデアがいい。月光の削りかけ=光る柳の葉が飛び散る描写などディテールがたまらない。

 『紅玉』は戯曲である。これも不思議で良く分からない話だが、「異界」ものということになるのだろうか。ユーモラスなところもあり、不気味でもあり、どことなくナンセンス性さえ感じられる凄みのある一篇である。
 鬱屈した画家が登場する。子供達が輪になって歌い、輪の中にいる人間は意志に反して踊りだすという。画家が中に入り、踊りだす。そこへ烏に変装した女がやってきて一緒に歌う。更に人間サイズの烏三羽がやってきて一緒に踊る。子供がおびえて逃げる。画家は倒れて寝る。烏の格好をした女がテーブルを用意し、酒を並べる。烏三羽は黙ってそれを手伝う。紳士が現れ、女を叱る。女は小間使いなのだ。紳士は妻の浮気を疑っていて、小間使いをピストルで脅し、妻と男のことを聞き出す。妻の紅玉を烏が盗み、それを男が拾って二人は知り合ったらしい。妻は烏の格好をして男にあい、紅玉をその口で受け取ったという。紳士は激怒して小間使いとともに去る。残った烏三羽が会話を交わす…。という風に続く。
 戯曲になっているので、数々の妖しいイメージがあの分かりづらい鏡花の文体を通さずダイレクトに伝わってくる。不気味な三羽の烏の存在が効いている。あれはやっぱり魔の物なのだろう。

 『伯爵の釵』も割と面白かった。女優が雨乞いをする話である。『妖魔の辻占』は予想に反してユーモラスな話だった。天狗が出てくる。『雨ばけ』は物語を読んでいる鏡花のコメントが顔を出す面白い趣向。『印度更紗』は珍しくインドが舞台のエキゾチックな話で、ストーリーも他の作家が書いてそうな因縁話。鏡花らしさが薄い。『貴婦人』はシンプルな物語だが、幻想たんとしても普通小説としても読めるその曖昧性が面白い。

 前述したように、鏡花を読むのは骨が折れる。文章を何度も読み返しながら読まないと意味がはっきり掴めない。ところが戯曲を読むと、あの延々と続く晦渋な文章がないのが物足りなく感じられたりもする。最初『高野聖』を読んだ時は何度か挫折したものだが、私も進歩したものだ。ということで、昔の文語体の文章もスラスラ読みこなせるようになったと勘違いして、滝沢馬琴「南総里美八犬伝」を読み始めたことがあった。即座に挫折した。物理的に不可能だった。

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