アブソリュート・エゴ・レビュー

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おもいでの夏

2015-10-09 20:50:12 | 映画
『おもいでの夏』 ロバート・マリガン監督   ☆☆☆☆

 日本版DVDで鑑賞。少年が年上の女性に憧れる、というありがちなパターンのストーリーだが、夏、小さな島の浜辺、海辺に立つ瀟洒なコテージ、そこに一人で暮らす美しい女性、甘酸っぱい音楽にソフトフォーカスの映像と、この手の映画の必須アイテムをまんべんなく取り揃え、かつ大仰にならないようさらっと小品にまとめたことが功を奏し、なかなか忘れがたいフィルムになっている。いってみれば、映画史に残るような名作ではないがそっと心の片隅に残る名もない佳作、という趣きである。

 映画はおとなの男性のナレーションで始まる。この映画全体が彼の少年時代の回想という「枠」に入っており、これもまた定石ながらツボを押さえている。原題は「Summer of '42」で、つまり1942年の夏の物語だ。古い。男性のナレーションの中でも「当時島には家も少なく、海や浜辺の様子さえ今とは全然違っていた…」と懐古の念を込めて語られる。ノスタルジー全開である。アヴァンタイトルでは色あせた写真の数々のスライドショー、そしていやが上にも甘酸っぱい感傷を盛り上げるストリングスの映画音楽。この曲はミシェル・ルグランの手によるもので、アカデミー音楽賞を受賞している。この感傷的だがリリカルなメロディこそが、この映画のエッセンスを表現し尽しているといっていいだろう。関心がある方はためしにYuotubeで聴いてみて下さい。涙がちょちょぎれます。

 さて、夏になると両親に連れられてこの島に滞在していた15歳ぐらいの「私」ことハーミーには、当時2人の親友がいて、いつも三人で海辺で遊びまわっていた。当然、頭の中はエロでいっぱい。親が持っていた家庭の医学書などをこっそり盗み読みしては大騒ぎする毎日。さて、ハーミーの関心は浜辺の家に住んでいる新婚夫婦らしきカップルに向けられる。夫は戦争へ行き、若い女性が一人残される。ある日、ハーミーは買い物袋を持ちきれずに困っている彼女を見かけ、「手伝いましょうか」と声をかける。雑貨を彼女の家まで運び、コーヒーをご馳走になる。こうして、二人は友達になる。それがたったひと夏だけの、生涯忘れられない思い出の始まりだった…。

 この手の「少年とおとなの女性のイケナイ関係」映画にありがちなポルノっぽい雰囲気は全然なく、非常にきれいな、淡い感傷をたたえた映画に仕上がっている。映画は約90分と短いが、内容はエロではちきれそうな少年3人の『グローイング・アップ』的コミカル・エピソード群と、ハーミーのドロシーへの淡い恋情を描写するきわめて抒情的なエピソード群の二種類で構成されている。もちろん映画の核心は後者だが、前者も微笑ましくて楽しい。時代が時代ということもあり、「今時の子供ってこんなだぜ」と煽ってくるようないやらしさがない。ハーミーがドラッグストアにゴムを買いに行き、緊張のあまりアイスクリームを買ってしまう場面には笑った。

 そして肝心のドロシーとのエピソードだが、やはり見事なのはドロシーとの一夜のエピソードに何の説明も、エクスキューズも、理由すらつけていないことだ。おとなになったハーミーは、あれほど自分に自信を持たせたと同時に、不安にさせ、どうしようもなく混乱させた体験は後にも先にもない、と語る。表面的には、ドロシーが夫を亡くした悲しみのあまり衝動的にハーミーと寝た、ということになるだろう。大人の女性が悲しみをまぎらわすために自分を慕う少年を利用するなんて、と眉をひそめる人もいるかも知れない。けしからん、不道徳なことだと。

 しかし、ドロシーは置手紙の中でそのことを説明せず、謝罪もしない。「私はこのことを思い出にとどめます。そして、このことがあなたを苦しめないことを祈ります」と書くだけだ。彼女はおとなである。愛というものの複雑さを知っている。愛の行為が人を癒す時、そこに理由づけや動機を探すことなど無粋であるばかりでなく、無意味である。確かにドロシーとハーミーはいわゆる「愛し合っている」関係ではなかったかも知れない。しかしこの一夜のことは、間違いなく、どちらにとっても生涯忘れられない思い出となったはずだ。そして少年ハーミーはこのことで、愛というものの優しさと、深さと、哀しみと、そしておそらくは矛盾をも知ったに違いない。

 ドロシー役のジェニファー・オニールははまり役である。理知的でおとなっぽい、清潔な感じの女性であり、この物語においてドロシーはこうでなくてはならない。ハーミー役のゲイリー・グライムズも、性格が良さそうでしかも笑顔に愛嬌があり、好感がもてる。

 ところで、この作品はロバート・マリガン監督の経験をほぼ忠実に映画化したもの、という噂があるようだが、本当かも知れないなと思わせるのは、ドロシーとの経験が何かしら不可思議な、喜びと恐れを同時にもたらすものとして、リアルな少年のセンシビリティをもって撮られているからだ。おとなが頭で考え出したようないやらしさがない。しかもそれをあとづけで理由づけしたり正当化したりせず、自分の大切な思い出をそっと掌で包むようにして、そのまま描き出したという風情がある。そこがいい。

 それにしても、こんな思い出が一つあるだけで男の人生はどれだけ豊かになることだろうか。いや、決していやらしい意味ではなく。ほんと、私は素直にそう思ってしまいました。



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