アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

ある夢想者の肖像

2016-02-12 23:35:14 | 
『ある夢想者の肖像』 スティーヴン・ミルハウザー   ☆☆☆★

 ミルハウザー初期の長編が柴田元幸の翻訳で出た。ということでさっそく取り寄せてみると、ミルハウザーらしからぬ分厚さである。柴田元幸はあとがきで、本書をミルハウザーらしさとミルハウザーらしくなさが混在した小説と書いている。ミルハウザーらしさとは玩具や人形などのミルハウザー的モチーフの原型が散見されることで、らしくなさとは緊密な構成とは程遠いこと、つまりストーリーテリングが散漫に思える点である。ミルハウザーといえば精密な時計の如き物語を組み立てるイメージがあるが、少年時代のとりとめのない回想記といった趣きの本書は、確かにそのイメージにはそぐわない。そういう意味で、ミルハウザーらしさとらしくなさが混在しているという柴田氏の指摘は正しい。

 しかし実際に読み通してみると、やはりこれはミルハウザー以外なにものでもない世界だと感じる。他の作家が書く「少年期回想もの」とは確実に一線を画しているのである。多分最大の違いは、おとなが懐かしく回想しているという懐旧の念がきれいさっぱりなく、徹底して子供目線であり、世界が子供の目に映るそのままの驚異の念に満ち溢れていることだろう。ミルハウザーは少年の世界を構成するさまざまな要素を一つ一つ取り上げ、魅入られたような視線で丁寧に描写していく。庭、ゲーム、夜、学校、クラスメートたち。そしてもちろん、人形、玩具、書物などの夢想者向けのアイテムたち。主人公が女の子の部屋を訪れた時に見るたくさんの人形のきめ細かな描写は、まぎれもなく「アウグスト・エッシェンブルク」の作者のものである。文学への言及も多く、特にポーについては特別な思い入れを感じる。

 このように少年目線の輝かしい驚異についての描写がある一方で、少年期特有の倦怠感も繰り返し描写される。子供が常に楽しくはしゃいでると思うのは子供時代を忘れてしまったおとなだけである。主人公アーサーは何度も、ぼくは死ぬほど退屈していたと書く。しかしそうした倦怠は突発的な熱狂の発作と表裏一体のものであり、また熱狂的な高揚感・幸福感はふとした拍子に底なしの絶望感や、死んでしまいたいと思うほどの虚しさへと変化する。何の理由もなく、アーサーにはこうした劇的な気分の変化が訪れる。私の子供時代もこんな感じだったので、とてもよく分かる。もちろん、私はロシアン・ルーレットはしなかったけれども。

 で、ロシアン・ルーレットのエピソードで明白な通り、本書にはまた、死の匂いが濃厚に立ち込めている。少年期の回想になぜ死の匂いがあるのだと思うかも知れないが、これこそミルハウザーの真骨頂なのだ。『ミツバチのささやき』を引き合いに出すまでもなく、子供とは抗いがたく死に魅惑されるものである。本書には死との不穏な戯れの数々が登場する。アーサーはどこか悪魔的なクラスメートと一緒にロシアン・ルーレットに熱中し、「自殺クラブ」を作る。少年期がテーマだからといって爽やかな小説だと思ったら大間違いで、本書にはミルハウザーのダークサイドがたっぷり発揮されている。

 そしてもう一つのダークサイドはもちろん、性である。ミルハウザーが描く少年の性は明るくもなく、あっけらかんともしていない。ひらすら淫靡で、やましさに満ち、暗い。初恋らしきエピソードも出てくるが、柴田元幸があとがきで指摘している通り、「恋」というイメージからはおよそかけ離れた奇怪な関係である。おとながなつかしく回想する類の甘酸っぱさなど微塵もなく、不安で、魔法的で、どこか不気味でさえある。

 このように本書では少年期の驚異、高揚、倦怠、不安、淫靡、暗黒が混沌と描かれるが、基本的にミルハウザーのミニアチュール職人的な精密描写の連続であり、ストーリー性をもったエピソードはそれほど多くない。もちろん友人関係の発展や変化、ガールフレンドとの交渉など物語性もないわけじゃないが、それらも起承転結があるというよりは情景描写の連なりで、唐突に、理不尽に状況が変化する。読者には詳しい説明はなされない。

 その意味で、本書は少年を主人公にした青春物語というよりも、思春期の震えるセンシビリティをまるで自動人形を分解するかのように紙上で分解してみせた小説、という方が正確かも知れない。結局、実にミルハウザーらしい小説ということになるのだろう。



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