アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

白痴

2016-02-15 23:56:17 | 映画
『白痴』 黒澤明監督   ☆☆

 Criterionのクロサワ・ボックスでもともとのお目当てだった『白痴』を再見。これも前に観たのは確か大学生の頃で、しかも途中で眠ってしまったのであまり覚えていない。ラスト、暗い部屋の中で森雅之と三船敏郎が蒼白な顔で狂気的演技をする場面の陰鬱さが印象に残っているぐらいだ。一般には失敗作と言われているが、中にはこれこそ最高傑作などという黒澤ファンをいたりするので、ちゃんと見直してみようと思って観てみた。

 映画が始まっていきなり、長文の字幕による説明が連発されてテンションがだだ下がりとなる。もともと4時間半の大長編だった本作が映画会社の意向で無残にカットされた顛末は有名だけれども、しかしこりゃひどい。ズタズタである。カットされた部分のストーリーはとってつけたようなナレーションと字幕によって説明される。やはり一部カットされた『姿三四郎』も似たような部分があるが、こっちの方がはるかに多い。結果、映画全体の構成が歪んでしまっている。これがまず致命的。

 ドストエフスキーの小説が大抵そうであるように、この物語も人々の劇的な交錯が凝縮されたいくつかの場面がキーとなっている。中でももっとも重要なのは香山家のパーティーの場面で、分量的にも異常に長く、その中に亀田の妙子への告白、赤間の乱入、改心した大間による亀田が資産家であることの公表、百万円を燃やすことで香山を試す妙子、など不自然なほど多くのエピソードが詰め込まれている。私はドストエフスキーの原作は未読だが、どれも人間の精神性を大っぴらに云々するという非常にドストエフスキー的なエピソードばかりだ。私はこの「人間とは思想なり」とでもいうべきドストエフスキー的人間観とダイアログがあまり好きではないのだが、映画全体がズタズタに短くカットされたことによってこの場面の不自然な長さが更に強調される結果となり、映画全体のバランスが著しく悪くなっている。

 そしてまた、役者たちの演技が救いがたいまでに芝居がかっている。一体なんでこうなってしまったのか。ドストエフスキーのダイアログが持つ大仰な演劇性と黒澤のドラマツルギー志向が組み合わさった結果だろうか。すべてのセリフ回しが映画というより舞台演劇のようで、少なくとも映画としては明らかに過剰だ。観ていて辟易させられる。抑制というものがまるでないし、役者たちの喜怒哀楽表現はほとんど空回りしている。

 ストーリーの帰結も全然しっくり来ない。原作がもともとそうなのかズタズタにカットされた結果なのかは分からないが、善であるがゆえに滅びた、とされる亀田の悲劇がまったくそのような実感をもたらさないし、妙子の末路もなんだか中途半端でよく分からない。あれの一体どこが世の中の欺瞞のせいなのか? 単に赤間の情熱が暴走しただけじゃないだろうか。よくある痴話喧嘩の果ての殺人のように思える。

 まあそんなこんなで、全体としては惨憺たる出来だ。もともとの4時間半バージョンがどうだったのか今となっては知る由もないが、少なくともこの映画は観るに耐えない。今回再見して、それがよく分かった。

 ところでこの映画の2人のヒロイン、陰の妙子と陽の綾子を演じるのは原節子と久我美子だが、小津映画とはまったく違う妖婦を演じる原節子は意外と似合っている。顔立ちが実は派手で大作りなせいだろうか。それから舞台となる北海道はロシアっぽくてドストエフスキー文学の感じがよく出ている。画面から寒さが伝わってくるようだ。



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