アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

インド夜想曲(その3)

2015-05-18 22:45:26 | 
(前回からの続き)

 旅行記であることのもう一つのメリットは、無論エキゾチズムである。この物語の舞台であるインドは、当然ながら西洋人である「僕」にとって異文化の国であり、そこに暮らす人々とは世界観そのものが異なっている。「僕」の出会いはすなわち異なる世界観との出会いである。このような旅行記の中では、いわば自分の世界観を外側から見つめ直す作業が自然と行われ、自分が考える世界のありようが実は思ったほど確かなものではない、という揺さぶりを、常にかけ続けられることになる。そしてもちろん、それは見慣れない世界に驚異と美を発見していく旅となる。

 シャヴィエルを探索をする「僕」はさまざまな人と出会い、さまざまな会話を交わすが、肝心の探索はなかなか進展しない。進展しないまま最終章に至り、果たしてどういう結末を迎えるのかと思っていると、先ほど書いたように虚構のレベルが唐突に変化し、世界がメビウスの輪のようにくるりと裏返ってそのまま終わってしまう。肩透かしというか人を喰っているというか、つかみどころのない奇妙な終わり方である。具体的に言うと、「僕」はそれまでの本書の内容を自分が書いている(あるいは書こうとしている)小説の話として、通りすがりの女性に説明する。つまり、私たちがこれまで読んでいた小説は実は「僕」が書いていた小説であった、という解釈ができる。おまけにその小説の中で「僕」は探索される側、つまり、シャヴィエルの立場にいる。ここで「僕」=「シャヴィエル」の等式が成立する。

 だから最初にこの章を読んだ時、私は語り手が変化したと思った。つまりこの章に登場する「僕」はそれまでの「僕」とは別人で、それまで物語の外側にいた作者が登場したのかと思ったのだ。しかし、この章の中の「僕」も名前は同じルゥだし、「ホテル・マンドヴィの給仕長が礼賛した豪華さは……」の文章から、同じ物語がまだ続いていることが分かる。とすれば、これまでシャヴィエルを探していた「僕」と、自分が誰かに探索される小説を書こうとしている「僕」とは同一人物である。しかも、その探索の模様はこれまでの探索の旅とまったく同じ経緯を辿るようである。更に、「僕」は「どうしても見つかりたくないから……」と、シャヴィエルの心理の絵解きまでしてしまう。

 ここでこの小説の構造に曖昧さが、もっと正確に言うなら矛盾が入り込んでくる。ここまで来るともう明らかにこの旅自体が「僕」の創作であり、「僕」の小説なのだが、「僕」自身もその中の登場人物なのである。私が本書をメビウスの輪と呼ぶ理由はこれだ。おまけに小説の中では「僕」とシャヴィエルの立場は逆転しているが、この特殊なよじれの中では、これは二者が同一人物であることに等しい。

 そしてとうとう、「僕」は小説の結末を説明しさえする。レストランの中で、鏡像なような二組のカップルが視線を交わし合う場面のことだ。これは「僕」の小説内の挿話でありながらも、同時に、本書『インド夜想曲』の結末であることも明白である。ルゥとクリスティーヌが会話している虚構のレベル(つまり私たちが読んでいる小説の中)では、もはやシャヴィエルは忘れ去られたかのように登場しないままとなってしまうが、本書の中にあたかもチャイニーズ・ボックスのように入れ子になっているルゥの小説の結末という形で、決着がつけられるのである。そこで「僕」は、「彼はずっと僕を探していたが、見つけてしまった今となってはもう探す気がなくなった。僕にしても見つかりたくない」と、双方の心理の解説までしてみせる。

 この離れ業のような結末に加えて、「僕」はクリスティーヌとの会話の中で、ルゥとシャヴィエルの過去の絆が物語の枠外であること、登場するふたりの女性もまた枠外であること、までも説明する。それを聞いたクリスティーヌは「それならこの本にとっては、すべてが枠外じゃない」と不満をもらし、加えて終わりが弱い、なにか納得がいかないところがある、と批判する。これはつまり、本書『インド夜想曲』に対する作中内人物からの批判である。すると「僕」は言う。「あなたの写真に似たようなことかも知れない。引伸ばすと、コンテクストが本物でなくなる。なにごとも距離をおいて見なくてはいけない。抜粋集(アンソロジー)にはご用心」

 枠の内外、コンテクスクト、抜粋の危険性。タブッキは他にも『レクイエム』『遠い水平線』など本書と同じような、主人公が遍歴するタイプの小説を書いているが、ここまで自分の方法論を(多少煙に巻きながらだが)読者に向かって説明したことはない。そういう意味でも、本書『インド夜想曲』は特別な作品だし、この小説によってタブッキをタブッキたらしめるユニークな手法が完成し、方法論としてはっきりと意識化されたのではないだろうか。

 タブッキは物語内ですべてを語りつくし、完結させることをせず、枠の外と内で共鳴する作用をこそむしろ重視した。また、テキストの意味よりもむしろ、コンテクストをこそ重視した。つまり、同じプロットであってもエピソードであっても、あるいは同じ文章であっても、引伸ばしたり抜粋したりするともう別物になってしまうのである。これは小説が、そして言葉が持つ魔法のような特性だけれども、タブッキはこのことを誰よりも知悉していた。本書のラストは、これらのすべてを作者タブッキが読者に向かってほのめかしながら、同時に実践してみせた離れ業的結末である。プロットより、構造より、ロジックより、コンテクスト。タブッキが、何を書いて何を書かないかという点に最重要といっていいほどのこだわりを見せたのも、これが理由だと思う。これらの、小説というもののきわめてデリケートな特性を理解し、それを最大限に活かしたという意味で、アントニオ・タブッキは実に特殊な方法論を持った、そして稀有な小説家だった。

 言ってみれば、架空の世界を一から創り出すという言葉の「生産力」に他の作家が注目し、もっぱらそれを利用して小説を書くとするならば、タブッキは言葉が現実や、読者の想像力や、あるいは他の言葉と共鳴することによって生じるデリケートな「揺らぎ」をもっとも重視し、それを小説の中核とした。彼の小説の不思議な断片性、未完性、そして驚くほどの多義性は、それによって初めて説明が可能となるように思えるし、またそれらは単なるテクニックなどではなく、彼の本質であり、作家としての資質だったと思えてならない。

 『インド夜想曲』ではまた、タブッキを読むことの大きな魅力の一つである優美かつ音楽的な文体も存分に堪能できる。作品によって自在に文体を変化させるタブッキは、本書では長い作品の常で淡々とした平易な文体を基調としているが、『レクイエム』や『ペレイラ』よりも多少バロック的な趣きがある。彼の小説にしては珍しく会話文がカッコに入っているが、これは原文がこうなのか、須賀敦子さんが意図的にこうしたのかは分からない。

 長々と書いてきたが、アントニオ・タブッキは私にとって特別な思い入れがある作家であり、かつ、『インド夜想曲』はそのタブッキの小説の中でも(私が初めてタブッキと出会った作品であることも含め)特別な意味を持つ作品であるので、諒とせられたい。これはおそらく万人向けの大傑作という小説ではないし、すらすらと読めばただ水のように流れ去る、淡い感触の小説であることもまた間違いない。しかしタブッキという作家の瞑想性にいささかなりとも共鳴するところのある読者にとっては、たとえようもなく美しい書物であり、また、他の何物にも変えがたいほどの魅惑に溢れた小説なのである。



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