アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

新選組 幕末の青嵐

2017-07-19 21:18:07 | 
『新選組 幕末の青嵐』 木内昇   ☆☆☆☆☆

 昔は新選組なんて全然興味がなく、三谷幸喜脚本の大河ドラマも観なかったが、浅田次郎の『壬生義士伝』『輪違屋糸里』、そして司馬遼太郎の『燃えよ剣』『新選組血風録』と読むうちにだんだんハマってきた。この『新選組 幕末の青嵐』もアマゾンのカスタマーレビューで好評だったので読んでみたが、当たりだった。やっぱり面白い。

 過去読んだ新選組関係の小説では短篇集『新選組血風録』が一番のお気に入りだが、本書は司馬遼太郎の描く新選組よりも爽やかで、いい意味で抒情的な甘さがある。そこが物足りないと思うか、いいと思うかは趣味の問題だが、私はこれも気に入った。抒情的な甘さといってもあくまで司馬遼太郎と比較した上での話で、本書で描かれる土方歳三や斎藤一も十分な凄みとしたたかさがある。

 本書最大の特徴は、章ごとに語り手が交代する趣向である。語り手は新選組の一員か、またはその周辺の誰か。語り手が変わるというので私は『新選組血風録』みたいな短篇集、または連作短篇集的な小説を予想していたのだが、読んでみるとちゃんと長篇であり、物語は時系列にずっと続いていく。ただ、語り手だけがどんどん交代していく。

 なかなか変わっている。フィリップ・K・ディックの読者は、あの多視点的叙述が徹底したものを想像すればよい。そんな書き方で長篇としてまとまるのか思うかも知れないが、ちゃんとまとまっている。そしてこの手法の大きなメリットは、キャラクターを複数の視線で描写できるので複合的、重層的人物描写ができるということだ。たとえば近藤勇に心酔している語り手は彼の美点を挙げて褒めたたえ、逆に近藤が嫌いな語り手は色々と理由を挙げて批判する。時には同じ理由によって好かれたり嫌われたりする。この手法によって、一人の人物像が見方によって色々な見え方をすることが分かり、また各人の行動や視点がそれぞれに違った動機、信念、状況判断の結果であることがよく理解できる。これがえらく面白い。たとえば新選組ものの中では大抵典型的な悪役として扱われる芹沢鴨だが、本書では彼自身が語り手になる章や芹沢配下の人間が語り手になる章があり、それを読むと、彼には彼の考えがあることが分かる。

 しかし、語り手が変わることでめまぐるしく人物像が変化していくのはやはり新選組の中心人物である近藤、土方である。近藤はとても大きな人徳を持った人物として語られることもあれば、権威に弱いバカ者と語られる時もある。土方は厳しい中に情を秘めた高貴な人物として語られる時もあれば、冷酷で陰険な卑劣漢として語られることもある。人間の評価って難しいものだなあ。人間の真の姿って、一体何だろうか。そんなことを考えさせられる。

 さて、物語は土方や近藤が出会う前、土方が絶望的な気分で、先の見えない薬売りの仕事をしている頃から始まる。ひねくれ者で、何をやってもうまくいかない、周りからも匙を投げられている扱いにくい若者。一生自分はこのままなのか、と暗澹たる思いで悶々としている青年。あの土方歳三にこんな時期があったのかと驚くが、この後土方は、百姓のくせに「武士になりたい」と夢見る近藤勇、剣技をきわめることにしか興味がない沖田総司らと出会い、一緒に京にのぼることになる。

 その先は、『燃えよ剣』を読んだことがある人は知っているように新選組の誕生、芹沢鴨の暗殺、池田屋事件、伊東甲子太郎一派の脱退、伊東を暗殺する油小路事件、と有名なエピソード群を織り交ぜて進んでいく。事件の表層は同じでも人間心理の描写が違うので、やはり司馬遼太郎の『燃えよ剣』とは違うドラマになっていて愉しめる。物語の最初のハイライトとなるのは伊東甲子太郎の脱退から油小路事件に至る流れで、近藤や土方を侮っている伊東観点の章、その伊藤に心酔してついていく藤堂平助観点の章、そして土方の指令でスパイとなる斎藤一観点の章と視点が切り替わることで、物事の表面と裏面がくっきりと浮き彫りにされる。人格者にして知恵者と言われる伊東が実は上辺だけの卑怯者で、愚かで残忍と非難された土方が優秀な指揮官だったことが分かる仕掛けになっている。ここの展開は非常に面白い。スパイとなる凄腕の剣客・斎藤一の立ち振る舞いも味がある。

 そしてクライマックスは、伊東が暗殺される油小路事件。伊東の死はあっさり記述されるだけだが、この場面で、試衛館以来の仲間だったにもかかわらず近藤・土方への疑念から伊東一派についた藤堂平助と、新選組の永倉・原田が闘う羽目になる。「藤堂は斬らずに逃がせ」という近藤の指示で永倉は藤堂を逃がそうとするが、闘いの混乱の中で斬られた藤堂は、永倉の腕の中で死んでいく。木内版新選組特有のみずみずしい情感が一気に溢れ出す、泣かせる場面となっている。
 
 それにしても、思想家であり弁舌爽やかな伊東は見た目も立派だが、斎藤一はその行動のダメさ加減を一目で見抜く。いかに弁舌爽やかに語っても全然回りが見えておらず、自分で責任を持って何かをやる覚悟も、部下を守る甲斐性もない。忙しく動いているようで実は何もやっていない。会社にもこんな奴いるよなあ、としみじみ思うが、藤堂平助はその伊東の思想と弁舌にたちまち感化され、心酔するようになってしまう。人を見る目というのも難しいなあ、と思う。

 そういう意味で非常に面白かったのは永倉である。本書に登場する新選組キャラクターの中で、一番面白かった。永倉自身が語り手の章では、個性的な新選組メンバーの中で自分は普通過ぎて取柄がない、どうすればいいのか、などと悩んで斎藤一に相談したりするが、他者視点の章では、実は全然普通じゃないのである。斎藤一が永倉の行動に驚愕する場面があるが、どんな修羅場でもまったく平常心なのだ。あの斎藤一を驚愕させるほどの達人でありながら、自分は普通だと悩んでいる。なんともおかしい。永倉は他のエピソードでも色々おいしいところに絡んできて、最後まで愛すべきキャラクターだった。

 一方で、沖田総司の天才剣士ぶりはそれほど目立っていない。それが残念といえば残念だ。沖田で印象的だったのは、そのあっけらかんとした思想的こだわりのなさと、他人には理解できない独特の感性である。特に、難しい時代ゆえに他の隊士が色々悩むのに対し、彼にはまったく迷いというものがない。そこが凄い。考えなしのように見えて、実は本質を掴んでいる。そもそもこの木村版新選組では剣豪色、チャンバラ色はかなり控えめで、隊士たちの悩みや心理描写、性格描写が主となっている。時代小説的、歴史小説的というより青春小説的なのである。

 物語は終盤、新選組が散り散りになり、沖田、近藤、そして土方とそれぞれの最期が描かれて終わることになるが、読み終えて思うのは、やはり本書の主人公は土方歳三だったなということだ。この点は司馬版新選組と同じだ。イデオロギーの嵐が吹き荒れた時代に、イデオロギーではない他の価値観で生き、最後までそれを貫いた男。伊東甲子太郎のような人間の目から見ると、思想がなく時代を読む目がない、ということになるのだろうが、土方にはイデオロギーの空虚さが見えていたという気がしてならない。だからこそ、彼はイデオロギーではない他の価値のために生きた。時代の趨勢や、幕府が滅ぶかも知れない、などということは、おそらく彼にとって些末なことだったに違いない。

 では他の価値とは何か、と聞かれて答えるのはなかなか難しいが、たとえばそれは仲間との絆や、自らの矜持を守ることや、大切な人との約束をたがえないこと、そんなことの数々だったのだと思う。そしてそんな男だからこそ、この小説で描かれる土方歳三はとても魅力的なのである。



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