『燃えよ剣(上・下)』 司馬遼太郎 ☆☆☆☆
メチャメチャ面白いと定評のある、司馬遼太郎の新撰組本を読んでみた。大体司馬遼太郎という人はビジネスマンや中年男性好みの作家と言われるが、その万人受けしそうな健全さ、格調の高さ、適度な薀蓄、現代社会にも活かせる「いかに生くべきか」的人生訓、などの印象は逆に私に一歩引かせてしまう要因となっている。とはいえ、まあ面白ければ異存はない。ということで手を出した。
確かに面白い。が、アマゾンのカスタマーレビューに吹き荒れる賛辞の嵐ほどの感銘は受けなかった。想定の範囲内である。本書は土方歳三という男の生き様を描いている。田舎の不良少年として育ち、剣客として名を上げ、やがて近藤勇とともに京へ行き、新撰組を旗揚げする。最初は芹沢鴨の下にいたが剣の力で実権を握り、新撰組をサムライの集団として鍛え上げていく。
面白かったのは、土方はあくまで剣の人であり、喧嘩屋であるということだ。決してイデオロギーの人ではない。理論には疎く、弁舌は粗雑。幕末という動乱の時代に名を残した人々の多くが論客であり、時代を読む眼力と先見の明で名を上げたのに対し、土方はむしろイデオロギーを否定する。時代が変わっても変わらないものがあるはずだ、大事なのはそれだ、土方はいつもそう考えて行動する。近藤勇が「政治好き」だったことを批判し、時には「近藤さん、あんたには垢を落としてもらいたい。垢とは政治のことだ」と進言する。それでいて、本書を読んでいると、むしろどんな論客よりも賢明だったのではないかと思える。
それからまた、彼の美学は煎じ詰めれば「潔さ」に尽きるのではないかと思う。自分を飾らない、余計な欲を出さない。全力で生き、その結果は従容として受け入れる。喧嘩する時、彼は常に「ここで死ぬかもしれない」と思いながら戦ったという。そして、命を惜しいと思わなければ喧嘩には負けない、とも言う(ちなみにここで言う喧嘩とは斬り合いのことだ)。時代の趨勢に背を向けられてしまった後も絶対に幕府を見捨てなかったのも、そして函館での最期も、すべては彼の「潔さ」のなせるわざであり、それこそがあらゆることに潔くない私達現代人を驚かせ、感動させる所以である。
物語は大雑把にいうと前半が剣客の話、後半が戦争の話である。活劇として華やかで面白いのはやはり前半だが、土方という男の真価が発揮されるのは後半である。また剣の立会いの描写はやはり凄みがあり、あまり言葉をたくさん連ねないのに斬りあいの臨場感をたっぷり味わわせてくれる。さすが国民的作家である。また新撰組時代は沖田総司との絡みも多いが、この天才少年剣士にはやはり華がある。特に、初めて人を斬った時に自分の着物にはまったく返り血を浴びておらず、土方を「こやつ、鬼神か」と驚愕させる場面が印象的だった。そしてまた、そのあまりに寂しい最期も。
寂しいといえば、全篇これ土方の男の美学を追求する本書であるが、何度か出てくるヒロイン・お雪と土方の逢瀬の場面、これが泣かせる。あまりにも切ない。潔さの美学に殉じる土方と、それに耐える控えめな女、お雪。これが切なくないわけがないのだが、特にクるのは、夕陽が見える宿での水入らずの二日間である。期限付きの蜜月。しかし昨日美しかった夕陽を今日また見ようとしても、もう見ることはできない。土方は言う、人の世とは、そうしたものであるらしい。この、運命に抗わない、しかし自分の力の及ぶ限り最善を尽くす生き方が、何とも美しい。
私は別に新撰組ファンではないが、本書を読むとちょっとだけファンの気持ちが分かった。新撰組とは、その思想といい体制といい運営方法といい、相当に特異な集団だったらしい。その無骨さ、古武士の精神、掟破りはすべて切腹という過剰なまでの厳しさ。彗星のように現れ、時代を駆け抜けて滅びていった徒花のような彼らこそ、最後のサムライ達だったのかも知れない。
メチャメチャ面白いと定評のある、司馬遼太郎の新撰組本を読んでみた。大体司馬遼太郎という人はビジネスマンや中年男性好みの作家と言われるが、その万人受けしそうな健全さ、格調の高さ、適度な薀蓄、現代社会にも活かせる「いかに生くべきか」的人生訓、などの印象は逆に私に一歩引かせてしまう要因となっている。とはいえ、まあ面白ければ異存はない。ということで手を出した。
確かに面白い。が、アマゾンのカスタマーレビューに吹き荒れる賛辞の嵐ほどの感銘は受けなかった。想定の範囲内である。本書は土方歳三という男の生き様を描いている。田舎の不良少年として育ち、剣客として名を上げ、やがて近藤勇とともに京へ行き、新撰組を旗揚げする。最初は芹沢鴨の下にいたが剣の力で実権を握り、新撰組をサムライの集団として鍛え上げていく。
面白かったのは、土方はあくまで剣の人であり、喧嘩屋であるということだ。決してイデオロギーの人ではない。理論には疎く、弁舌は粗雑。幕末という動乱の時代に名を残した人々の多くが論客であり、時代を読む眼力と先見の明で名を上げたのに対し、土方はむしろイデオロギーを否定する。時代が変わっても変わらないものがあるはずだ、大事なのはそれだ、土方はいつもそう考えて行動する。近藤勇が「政治好き」だったことを批判し、時には「近藤さん、あんたには垢を落としてもらいたい。垢とは政治のことだ」と進言する。それでいて、本書を読んでいると、むしろどんな論客よりも賢明だったのではないかと思える。
それからまた、彼の美学は煎じ詰めれば「潔さ」に尽きるのではないかと思う。自分を飾らない、余計な欲を出さない。全力で生き、その結果は従容として受け入れる。喧嘩する時、彼は常に「ここで死ぬかもしれない」と思いながら戦ったという。そして、命を惜しいと思わなければ喧嘩には負けない、とも言う(ちなみにここで言う喧嘩とは斬り合いのことだ)。時代の趨勢に背を向けられてしまった後も絶対に幕府を見捨てなかったのも、そして函館での最期も、すべては彼の「潔さ」のなせるわざであり、それこそがあらゆることに潔くない私達現代人を驚かせ、感動させる所以である。
物語は大雑把にいうと前半が剣客の話、後半が戦争の話である。活劇として華やかで面白いのはやはり前半だが、土方という男の真価が発揮されるのは後半である。また剣の立会いの描写はやはり凄みがあり、あまり言葉をたくさん連ねないのに斬りあいの臨場感をたっぷり味わわせてくれる。さすが国民的作家である。また新撰組時代は沖田総司との絡みも多いが、この天才少年剣士にはやはり華がある。特に、初めて人を斬った時に自分の着物にはまったく返り血を浴びておらず、土方を「こやつ、鬼神か」と驚愕させる場面が印象的だった。そしてまた、そのあまりに寂しい最期も。
寂しいといえば、全篇これ土方の男の美学を追求する本書であるが、何度か出てくるヒロイン・お雪と土方の逢瀬の場面、これが泣かせる。あまりにも切ない。潔さの美学に殉じる土方と、それに耐える控えめな女、お雪。これが切なくないわけがないのだが、特にクるのは、夕陽が見える宿での水入らずの二日間である。期限付きの蜜月。しかし昨日美しかった夕陽を今日また見ようとしても、もう見ることはできない。土方は言う、人の世とは、そうしたものであるらしい。この、運命に抗わない、しかし自分の力の及ぶ限り最善を尽くす生き方が、何とも美しい。
私は別に新撰組ファンではないが、本書を読むとちょっとだけファンの気持ちが分かった。新撰組とは、その思想といい体制といい運営方法といい、相当に特異な集団だったらしい。その無骨さ、古武士の精神、掟破りはすべて切腹という過剰なまでの厳しさ。彗星のように現れ、時代を駆け抜けて滅びていった徒花のような彼らこそ、最後のサムライ達だったのかも知れない。
多くの作家が取り上げ、ヒーロー化する、ある作家はまことしやかに
"彼らは京都人に随分愛されていましたからね"と、これはNOでしょう!
政権争いがある度戦火の舞台となる京都、たまったもんじゃない。だから京都人は生き抜くすべとして変わり身もはやい(その時々強そうな方につく)、冷ややかだって言われますね! 今の時代でも(笑)
京都においては新撰組を語ることはタプーみたいなこと
昔からの言い伝え