崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

カント哲学

2016年04月07日 05時42分06秒 | 旅行
 日本全国花見の話にあきることなく昨日桜が満開した功山寺の庭に入った。櫛田学長の車で同行させていただき、東亜大学新入生たちの恒例の座禅の模様を見た(今朝の毎日新聞下関版)。堂内では東亜大学客員教授の住持有福孝岳先生の説法と喝を入れる儀式が行われており、庭で交代を待っている新入生たちがいっぱい、引率の教員、学生に言葉を掛けながら回った。渡辺君はカナダトロントに半年間、英語語学研修を終えてきて明るい表情であった。彼の留学体験を聞いた。私はその体験が人生にとって如何にプラスなるかは後に分かるだろうと話した。
有福先生には久しぶりに会って、「説法は難しくならない」ようにと冗談混じりに言った。彼は京都大学教授を退官したカント研究者であり、功山寺の住職となった方である。カント哲学専門の住職の説法が注目されるのは当然。彼自身は難しくないというが聞き手にとって難しく感ずるという。それはどうしてだろう。カントという名前を聞くだけで「難しい」と思う人が多い。カント自身の考え方、あるいは表現の下手さにあるかもしれない。単純明快な真理が難文になっているのかもしれない。聖書、特に新約聖書は手紙や伝記、旅行記などで例をあげながら分かりやすく書かれている。その聖句一節をもって長々しく難しく語る牧師が多い。そして「人に説教する」「野壇法席の説法」などの皮肉なことばができている。言葉の難解性より実行実践が難しい。「愛」ということばは単純明快であるが、実行は難しい。