崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

スピーチ

2015年05月27日 05時02分34秒 | 旅行
私が講演したテープ起しの文を校正した。普通書いたものを読むのが一般的であるが、それとは逆に話したものを文にするのに戸惑った。まず話す時には現場感がある。「こんばんは」という挨拶は必要であろうか。この講演録の読者には必要ではない。現場感とは参加者の人数、雰囲気などが反映されている。それはレコードを鑑賞する時と生演奏を聞くときとの差に似ている。話したことを文章化すると生きた現場感が無く、乾燥しているようように思われる。話し言葉は文法などが作文とは異なる。作文では正しい文法的な言葉が話し言葉では乱れることが多い。話し言葉には非言語的な表現によって伝えることができるからである。つまり表情、イントネーション、アクセント、ジェスチャーなどで多く伝わるものがあり、言語の力に増し加わって表れる。また同じ文であっても発言者によって影響力は千差万別である。時には暴言、妄言、失言になる。話と文には差がある。
 昨日の安保に関する国会質疑はあらかじめ質問を提出して準備された文を朗読するように進行された。ただアクセント、抑揚、表情を入れたに過ぎない、現場感の薄い場面であった。権威ある人のスピーチは自分の話ではなく、読みに近くなる。さらに場合によっては代読されることも多い。選挙演説では話す能力を発揮して当選したはずなのに小学生のように文を読むようになるのはなぜだろう。話し言葉の危険性を意識しすぎ、拙話小経になる。オバマ大統領は名演説家である。彼は常に話言葉と文章の言葉を区別する。アメリカの教育によるものと言える。日本でもスピーチ教育をすべきであろう。