崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

花魁の姿が寂しい

2015年05月04日 05時00分03秒 | 旅行
イギリスでは王女が生まれる前からの期待感が熱く大騒ぎ、誕生のニュースに世界が祝福。生老病死は公のこと、互いに祝い、慰め合うことである。しかしいつのまにかプライバシーが優先され、生老病死も孤人(個人)化されている。葬式さえ密葬が多い。もともと西洋では結婚や葬式などが神様との神事であり、神と伴うことで孤独にはならないということである。しかし東洋ではそれらは社会的関係によるものであり、社会的な関心事で儀式や儀礼が行われた。今出産などは大変なプライバシーとなっているが、もともと他人の関心を引くことである。日本では過剰は迷惑倫理があるように私には感じられる。先日ある新聞の読者投稿欄に携帯電話のバイブルが迷惑だと載った。迷惑をかけないということが過剰だと思った。隣家の水滴、隣り人のささやきも迷惑という人がいては社会は窒息し、社会は成り立たない。お互いに気をつけるが迷惑を強調するより、我慢する心が必要である。
 何にも「言わない、しない」という消極的な生活が強調されては静かな生活ができるかもしれないが、呼吸の音や人がそばにいることさえ迷惑になりそうな圧迫感の社会、幸福度の低い日本社会は住み難いと思われる。欝病者の多い社会になっている。安倍氏の演説では「言っていない」ことが非難されている。「言っていない」「話していない」のを非難するのは喧嘩の始まりである。山についての話を聞いて、海の話がないと非難するのと同じ。昨日は教会で礼拝後、赤間神宮へ、激しい雨で先帝祭はほぼ簡略していた。傘姿の芸者を観るチャンスだと思って雨の中、階段を上ったのにガラス越しに内側に立っている華麗なおいらんの姿が寂しい。壇ノ浦観光名所に住みながら毎年楽しんでいたが、初めての寂しい祭りになった。この日のために練習、準備した方々にとっては心に残念の雨、県外から来られた方は上臈参拝を見るために前日から隣に泊りがけだったのにと気を落としていた。昨日の激しい雨は大変な迷惑(?)であった。