崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

ソ連軍のレイプ

2015年05月13日 05時25分40秒 | 旅行
 ソ連軍のレイプに関する資料は多いが、世界的に大きい問題になっていなかった。戦後70周年を期してBBCが日記を通してソ連軍がドイツでレイプした事例を紹介した。慰安婦問題は韓国だけのことではなく、戦争と性を考える問題に広げるべきであろう。私は準備中の拙著でソ連軍が行った日本の女性への性暴行を引用した。ソ連軍の横暴をどう考えるべきであろうか。大阪府大阪市在住の中谷藤市氏の証言を一例として挙げてみよう。

 ソ連兵六名に囲まれているではないか、その中の一名は拳銃の銃口を私の胸に当てて、引き金に指が掛かっている。強烈な「ウォッカ」の臭いがする。銃弾が飛び出しかねない。恐怖の余り、どうしようもないまま突っ立っていると、盛んにロシア語で何かを口走っている。どうやら雰囲気から「女はいないか」と言っているらしい。そのうち彼ら六名は土足のまま、裏木戸から部屋にどやどやと、なだれ込んでしまい、結果としてソ連兵六名を私が案内して連れてきた形となってしまった。部屋に上がり込んだ彼らソ連兵も、男ばかりのわたしども十八人には驚いたらしく、盛んに部屋の隅にかたまって「座れ、立ったら射つ」と拳銃で威嚇している。
 中略
その内一名のソ連兵が、この家の家族の寝ている四畳半の襖をあけてしまった。部屋には親子五人が声を殺して、布団を頭から被って、兵隊が部屋に入ってくるのを今か今かと恐怖におののきながら震えていた。襖を開けた兵隊は、土足の軍靴のまま布団の上に突つ立ち、部屋の家族の様子をうかがっている。じっとたっていても、ウォッカの影響か足元がかなりぐらついている。予期していたとはいえ、親子は恐怖の余り顔をひきつらせて震えている。長女の娘さんは、前日に黒髪をはさみで切り落として「虎がり」ながら坊主となって男性の服を着て寝ていた。
 男性の服をまとっていても虎がりの坊主頭髪の地肌は、同士が見た場合どう見ても、男性と見間違うことはないが、彼らには判別できないらしい。幸いにも彼女は見破られることなく難を逃げることができた。しかし、この家族の母親は、「私みたいなお婆さんにそんな心配はいりません」と頭髪を落とさなかったため、残酷な結果を招くこととなった。部屋に踏み込んだ兵隊は、恐怖に震え、布団にくるまっている子供たちに、四畳半から出るよう手真似をしている。長女には幸い女性と気付いていないらしい。
私共は娘さんに「早くこっちに来て、真ん中に入って座りなさい」と、一団なっている中に彼女を入れ、膝を組ませて座らせた。長男は、恐怖に顔を引きつらせて母親にしがみついている四歳の弟を、ひったくるようにして抱きかかえ、姉と同様私共の中に座らせた。
ことの成り行きを、固唾を飲んで見守っていた私どもは、拳銃を構えたソ連兵の監視を受けていては、手を下す術もなくただ見守るのであった。やがて部屋に踏み込んだ兵隊は、頭髪の長いこの子供たちの母親を女性と判断したらしく母親の着物の襟首を掴んで立たせ、部屋から一旦出てきた。普通の人より小柄なこの母親は、大柄なソ連兵の半分程度の背たけしかない。母親はこの後何が起こるのか。完全に抵抗を失って不安と恐怖顔を引きつらせている。どうやら部屋から連れ出して、襟首を掴んで便所の方に引きずっていく様子だ。「どこにつれていくんやろ!」と私共が不安がっている空気を察して、監視役の別の兵隊が、ロシヤ語で、手真似で何か説明している。言葉では理解できないがどうやら便所に連れて行って身体検査をすると言う意味らしい。
中略
 この時母親は、悲痛な叫び声で「皆さん助けてください」と二度も三度もしきりに、私どもに哀願するけれども、私はあの時ほど敗戦国の惨めさを感じたことはない。私はあの部屋の一番近く座っておりながら、どうにも手の施しようがなかった。自分の子供たちと我々の見ている前で、兵隊の毒牙にかからんとしている。組み伏せられた、母親を救ってやりたいという。義侠心のような義憤にかられながらもほんの少し前に、偶発的な拳銃の発射であったとしても、至近距離での轟音に完全に度胆を抜かれていた。
あの場合、部屋に飛び込めば射殺されるかもしれないという、自分の身の危険を考えると、母親を救う勇気を持てなかったことをただ恥じ入るのみである。当時十八歳を過ぎたばかりの私には、それはあまりにも悲惨で残酷な光景であった。拳を握り締め目をつむって、その残酷な現実から「視線を反らす」だけが、自分の母親が皆の眼前で犠牲となっているのを、じっと唇を噛み締めて耐えている、子供達に対する、せめてもの申し訳的な心情だった。
この母親の側には、まだ一番末っ子の一才になったばかりの男の子がもう一人残っていたのである。兵隊の腕力に、ついに観念したのか母親は最後に「皆さん、私はどうなってもかましませんが、この子だけは助けてください。兵隊に踏み殺されそうです」幼児を抱きすくめて悲痛な叫びをあげた。この時、今まで私どもの間に座って、両耳を両手で覆うようにして、下をうつむいて、じっと耐えていた十五歳の長男が母親の悲痛な叫び声を聞いた途端、憤然と立ち上がるなり部屋に飛び込み、組み敷かれて必死にもがく母親の上に馬乗りになった兵隊の一瞬の隙を見計って、母親の手から幼児をひったくるようにして弟を救った。
長男の行動は、肉親愛から出た。咄嗟の勇気なのであろうが、この少年の行動にじっと座って成り行きを見守っていた私共の一同は只々唖然とするのみで、大人の自分たちの不甲斐なさを、お互い顔を見合わせて心の中でひたすら恥じ入るのみであった。母親は、犠牲になったが、この少年が父親不在の時、長男としての自覚で咄嗟の機転により、兵隊に踏み殺されるかもしれなかった弟の命を救ったことが、せめてもの「不幸中の幸い」であった。
 あれから五十年の歳月が流れ去ったがあの時、あの少年の勇気を持ちえなかった私共は、さぞかし苦難道を乗り越えられた親子のこと、堅実に生き抜いていられることを心より願うしかない 。(長門市編『歴史の証言―海外引上げ50周年記念手記集』1995:234-240)