『横道世之介』を渋谷のHumaxシネマで見ました。
(1)出演している俳優陣に興味を惹かれて見てきました。
映画は、主役の横道世之介(高良健吾)が、法政大学に入学すべく、長崎から上京して新宿駅前に現れるところから始まります。
その後世之介は、入学式で知り合った倉持(池松壮亮)とサンバサークル(「ラテンアメリカ研究会」)に入ったり、パーティーーガールの千春(伊藤歩)にのぼせたり、はては友達の加藤(綾野剛)との関係で祥子(吉高由里子)と知り合いとなります。
はたして世之介の大学生活はどのように展開するのでしょうか、……?
劇場用パンフレットで「観客全員にとって世之介は、思い出すたびにニヤニヤと微笑んでしまう大切で愛しい存在」とされているものの、映画を見る限り(注1)、世之介は、祥子が言うように「普通だよ」、「普通すぎて笑っちゃう」と言うべき人物としか思えないところです。
それでも、彼を取り巻く人物がなかなか興味深く描かれていたり、どきっとする出来事があったりして、160分の長尺ながら飽きさせませんでした。
高良健吾は、最近では『苦役列車』を見ましたが、本作では人の良い世之介を誠に巧みに演じています。
吉高由里子は、『婚前特急』や『ロボジー』と同じように、持ち前の明るさをふんだんに振りまいて、これからも大いに期待されます。
綾野剛は、『その夜の侍』『新しい靴を買わなくちゃ』などで見ましたが、脇役ながらなくてはならない存在となっています。
(2)本作の話の大部分が1987年の学生生活を巡っており、それ自体は何の問題もないものの、それをなぜ2013年の「今」ではなく(注2)、10年も前の2003年の時点で昔のことを回想するという作りになっているのか、なんだか不思議な気がしました(注3)。
おそらく映画では、世之介が事故に遭遇するが35歳の2003年とされているため、その年に彼の友人たちが彼のことを回想するという構成にしたのでしょう。
でも、友人たちが世之介を思い出すのに、彼の事故を知ることが契機とされているわけでもないように思われます(注4)。
だったら、映画における「今」をわざわざ10年前としなくともという感じにもなります。
そこで、原作本〔吉田修一著『横道世之介』(毎日新聞社刊、2009年)〕にあたってみました。
すると同書では、事故当時の世之介の年齢は40歳となっているではありませんか(文春文庫版P.299)!
もう少し調べてみると、原作は、当初毎日新聞に連載され、連載期間が2008年4月1日~2009年3月31日ですから、1987年に18歳だった世之介がちょうど40歳になる頃です〔尤も、原作小説においては、年代が明示的に記載されているわけではありませんが(注5)!〕。
すなわち、世之介が事故に遭遇するのは、小説が連載されている「今」においてなのです。
これなら、違和感は持ち得ないでしょう。
なぜ映画の方は回想する時点を、2013年の現在時点ではなく、小説が書かれていた2008年でもなく、今から10年も前の2003年に遡らせたのでしょうか?
わざわざそんなことをせずとも、例えば、世之介が事故に遭ったのを45歳としてみても、何ら問題はないのではとも思えます(注6)。
考えられるのは、回想する友人たちの事情でしょう。
特に、友人の倉持については、35歳(注7)の2003年に、中学生の娘が警察に補導されてしまうという問題が起きています(注8)。映画の中で倉持は、18歳の男に娘と付き合うなと言い渡します。
これを45歳時の出来事とすると、娘の年齢は20歳を越えており、変な男と付き合っているからといって警察に補導などされないでしょうし、そんな男と別れろと頭ごなしに親が言うことも難しいでしょう。
それなら原作では?
そこでも映画と同じような場面が出てきます。
しかしながら、原作小説においては、倉持が世之介のことを回想する時点が、2008年ではなく2003年頃とされているようなのです(注9)。
それで、さらに他の回想場面を小説に当たってみると、友人の加藤がベランダでワインを飲みながら思い出し笑いをするのは、いつのことか特定されませんが、常識的には小説の「今」、すなわち2008年夏でしょう。
また、祥子が世之介のことを思い出すのも、小説の「今」の時点だと考えられます(注10)。
おそらく、本作の制作者は、回想の時点を原作小説のようにばらばらにすると錯綜してしまい観客の混乱を招きかねないとして、映画の「今」の時点を、世之介の事故と一緒に2003年に統一してしまったのではないかと想像されます。
でもそうすると、逆に、同じ年に2つも事件(世之介の事故と智世の補導)が起きるような作り方はご都合主義とも見られてしまうおそれもでてくるのではないでしょうか?
映画と原作とは全く別物ですから、何も本作においても原作のような時間の流れにすべきだとは思いません。ただ、2003年が特別な年であるのならともかく、わざわざ映画の「今」をその時点に合わせる必要もないのかなと思いました。
(3)渡まち子氏は、「160分の長尺が本当に必要か?!との疑問は残るが、見終われば、皆を笑顔にした横道世之介の存在がたまらなく愛おしかった。クセのある役が多い高良健吾が、珍しく、天然の好青年を演じていて新鮮だ」として60点を付けています。
また、前田有一氏は、「意外と映画にすると難しいのが青春小説で、『パレード』『悪人』の原作者・吉田修一による「横道世之介」を映画化した本作もその一つ。平均以上の出来栄えなのに、どこかもやっとした印象なのはなぜなのか」云々として55点を付けています。
(注1)原作では、例えば世之介は、入学式が行われた武道館で場所が分からなくなり、あるドアを開けたところ壇上で挨拶をする総長の頭の上に出てしまうというヘマをやらかしますが(文庫版P.21)、映画では取り上げられません。
(注2)2、3年のズレならともかく(制作から公開までに時間がかかることもあるでしょう)。
(注3)ここでの年号表記は、劇場用パンフレットの「SRORY」に記載されているものを使っています。ただし、映画において年号は一切表示されませんし、かつまた、同じパンフレットの「PRODUCTION NOTES」なかで、「西ヶ谷プロデューサーと沖田監督は明確には数字を打ち出さないことにこだわった」とも書かれていますから、以下で述べることは余り意味がないのかもしれません。
(注4)特に、世之介の事故のニュースをラジオで読み上げるDJの千春は、以前、大学生の世之介を知っていたにもかかわらず、何の思い出も浮かんでは来ないようです。
また、世之介の友人だった倉持とその妻・唯は、たまたま通りかかった法政大学の校舎が高層ビルになっていたことから世之介を思い出したりします。
(注5)原作者の吉田修一氏の生まれが1968年であり、実際にも法政大学経営学部を卒業していることなどから、横道世之介が1987年に18歳だと想定することもそんなに行き過ぎだとは言えないでしょう。
ちなみに、原作の「8月 帰省」の章にでてくるポート・ピープル(映画でも描かれます)ですが、このサイトの記事によれば、「我が国に到着するボート・ピープルも漸減したが、1987年を底に再び増加し、1989年にはいわゆる偽装難民を除いても10隻694人が到着して第2のピークを示した」とのことですから、原作は様々の社会的背景を描き込んでいるものと思われます。
(注6)世之介が遭遇する事故は、2001年1月26日に起きた「新大久保駅乗客転落事故」を踏まえており、このサイトの記事によれば、「JR山手線の新大久保駅で、ホームから転落した男性を助けようとした韓国人留学生のイ・スヒョンさん(当時26)と、 カメラマンの関根史郎さん(当時47)の2人が線路に降り、3人とも電車にはねられて死亡し」たとのこと。
ですから、事故に遭遇する世之介の歳を45とする方がむしろうってつけなのではないでしょうか?
(注7)原作では、倉持は1年浪人して入学したために世之介より1年歳上とされていますが(文庫版P.24)。
(注8)倉持は大学1年で子持ちとなりますが、その娘・智世が産院の育児室にいるときに、世之介はその様子をカメラに収めています。それで、16歳の智世の事件がここでわざわざ取り上げられているのでしょう。
(注9)原作(文庫版)のP.70に「この4月から」とあり、それは智世が中学を卒業した年のことだと思われますから2003年頃であり、小説の「今」である2008年とは違っているように思われます。
(注10)細かいことを言えば、原作小説では、世之介の事故は2008年の11月に起きていて、祥子が思い出すのは翌年の2月ですが。
★★★☆☆
象のロケット:横道世之介
(1)出演している俳優陣に興味を惹かれて見てきました。
映画は、主役の横道世之介(高良健吾)が、法政大学に入学すべく、長崎から上京して新宿駅前に現れるところから始まります。
その後世之介は、入学式で知り合った倉持(池松壮亮)とサンバサークル(「ラテンアメリカ研究会」)に入ったり、パーティーーガールの千春(伊藤歩)にのぼせたり、はては友達の加藤(綾野剛)との関係で祥子(吉高由里子)と知り合いとなります。
はたして世之介の大学生活はどのように展開するのでしょうか、……?
劇場用パンフレットで「観客全員にとって世之介は、思い出すたびにニヤニヤと微笑んでしまう大切で愛しい存在」とされているものの、映画を見る限り(注1)、世之介は、祥子が言うように「普通だよ」、「普通すぎて笑っちゃう」と言うべき人物としか思えないところです。
それでも、彼を取り巻く人物がなかなか興味深く描かれていたり、どきっとする出来事があったりして、160分の長尺ながら飽きさせませんでした。
高良健吾は、最近では『苦役列車』を見ましたが、本作では人の良い世之介を誠に巧みに演じています。
吉高由里子は、『婚前特急』や『ロボジー』と同じように、持ち前の明るさをふんだんに振りまいて、これからも大いに期待されます。
綾野剛は、『その夜の侍』『新しい靴を買わなくちゃ』などで見ましたが、脇役ながらなくてはならない存在となっています。
(2)本作の話の大部分が1987年の学生生活を巡っており、それ自体は何の問題もないものの、それをなぜ2013年の「今」ではなく(注2)、10年も前の2003年の時点で昔のことを回想するという作りになっているのか、なんだか不思議な気がしました(注3)。
おそらく映画では、世之介が事故に遭遇するが35歳の2003年とされているため、その年に彼の友人たちが彼のことを回想するという構成にしたのでしょう。
でも、友人たちが世之介を思い出すのに、彼の事故を知ることが契機とされているわけでもないように思われます(注4)。
だったら、映画における「今」をわざわざ10年前としなくともという感じにもなります。
そこで、原作本〔吉田修一著『横道世之介』(毎日新聞社刊、2009年)〕にあたってみました。
すると同書では、事故当時の世之介の年齢は40歳となっているではありませんか(文春文庫版P.299)!
もう少し調べてみると、原作は、当初毎日新聞に連載され、連載期間が2008年4月1日~2009年3月31日ですから、1987年に18歳だった世之介がちょうど40歳になる頃です〔尤も、原作小説においては、年代が明示的に記載されているわけではありませんが(注5)!〕。
すなわち、世之介が事故に遭遇するのは、小説が連載されている「今」においてなのです。
これなら、違和感は持ち得ないでしょう。
なぜ映画の方は回想する時点を、2013年の現在時点ではなく、小説が書かれていた2008年でもなく、今から10年も前の2003年に遡らせたのでしょうか?
わざわざそんなことをせずとも、例えば、世之介が事故に遭ったのを45歳としてみても、何ら問題はないのではとも思えます(注6)。
考えられるのは、回想する友人たちの事情でしょう。
特に、友人の倉持については、35歳(注7)の2003年に、中学生の娘が警察に補導されてしまうという問題が起きています(注8)。映画の中で倉持は、18歳の男に娘と付き合うなと言い渡します。
これを45歳時の出来事とすると、娘の年齢は20歳を越えており、変な男と付き合っているからといって警察に補導などされないでしょうし、そんな男と別れろと頭ごなしに親が言うことも難しいでしょう。
それなら原作では?
そこでも映画と同じような場面が出てきます。
しかしながら、原作小説においては、倉持が世之介のことを回想する時点が、2008年ではなく2003年頃とされているようなのです(注9)。
それで、さらに他の回想場面を小説に当たってみると、友人の加藤がベランダでワインを飲みながら思い出し笑いをするのは、いつのことか特定されませんが、常識的には小説の「今」、すなわち2008年夏でしょう。
また、祥子が世之介のことを思い出すのも、小説の「今」の時点だと考えられます(注10)。
おそらく、本作の制作者は、回想の時点を原作小説のようにばらばらにすると錯綜してしまい観客の混乱を招きかねないとして、映画の「今」の時点を、世之介の事故と一緒に2003年に統一してしまったのではないかと想像されます。
でもそうすると、逆に、同じ年に2つも事件(世之介の事故と智世の補導)が起きるような作り方はご都合主義とも見られてしまうおそれもでてくるのではないでしょうか?
映画と原作とは全く別物ですから、何も本作においても原作のような時間の流れにすべきだとは思いません。ただ、2003年が特別な年であるのならともかく、わざわざ映画の「今」をその時点に合わせる必要もないのかなと思いました。
(3)渡まち子氏は、「160分の長尺が本当に必要か?!との疑問は残るが、見終われば、皆を笑顔にした横道世之介の存在がたまらなく愛おしかった。クセのある役が多い高良健吾が、珍しく、天然の好青年を演じていて新鮮だ」として60点を付けています。
また、前田有一氏は、「意外と映画にすると難しいのが青春小説で、『パレード』『悪人』の原作者・吉田修一による「横道世之介」を映画化した本作もその一つ。平均以上の出来栄えなのに、どこかもやっとした印象なのはなぜなのか」云々として55点を付けています。
(注1)原作では、例えば世之介は、入学式が行われた武道館で場所が分からなくなり、あるドアを開けたところ壇上で挨拶をする総長の頭の上に出てしまうというヘマをやらかしますが(文庫版P.21)、映画では取り上げられません。
(注2)2、3年のズレならともかく(制作から公開までに時間がかかることもあるでしょう)。
(注3)ここでの年号表記は、劇場用パンフレットの「SRORY」に記載されているものを使っています。ただし、映画において年号は一切表示されませんし、かつまた、同じパンフレットの「PRODUCTION NOTES」なかで、「西ヶ谷プロデューサーと沖田監督は明確には数字を打ち出さないことにこだわった」とも書かれていますから、以下で述べることは余り意味がないのかもしれません。
(注4)特に、世之介の事故のニュースをラジオで読み上げるDJの千春は、以前、大学生の世之介を知っていたにもかかわらず、何の思い出も浮かんでは来ないようです。
また、世之介の友人だった倉持とその妻・唯は、たまたま通りかかった法政大学の校舎が高層ビルになっていたことから世之介を思い出したりします。
(注5)原作者の吉田修一氏の生まれが1968年であり、実際にも法政大学経営学部を卒業していることなどから、横道世之介が1987年に18歳だと想定することもそんなに行き過ぎだとは言えないでしょう。
ちなみに、原作の「8月 帰省」の章にでてくるポート・ピープル(映画でも描かれます)ですが、このサイトの記事によれば、「我が国に到着するボート・ピープルも漸減したが、1987年を底に再び増加し、1989年にはいわゆる偽装難民を除いても10隻694人が到着して第2のピークを示した」とのことですから、原作は様々の社会的背景を描き込んでいるものと思われます。
(注6)世之介が遭遇する事故は、2001年1月26日に起きた「新大久保駅乗客転落事故」を踏まえており、このサイトの記事によれば、「JR山手線の新大久保駅で、ホームから転落した男性を助けようとした韓国人留学生のイ・スヒョンさん(当時26)と、 カメラマンの関根史郎さん(当時47)の2人が線路に降り、3人とも電車にはねられて死亡し」たとのこと。
ですから、事故に遭遇する世之介の歳を45とする方がむしろうってつけなのではないでしょうか?
(注7)原作では、倉持は1年浪人して入学したために世之介より1年歳上とされていますが(文庫版P.24)。
(注8)倉持は大学1年で子持ちとなりますが、その娘・智世が産院の育児室にいるときに、世之介はその様子をカメラに収めています。それで、16歳の智世の事件がここでわざわざ取り上げられているのでしょう。
(注9)原作(文庫版)のP.70に「この4月から」とあり、それは智世が中学を卒業した年のことだと思われますから2003年頃であり、小説の「今」である2008年とは違っているように思われます。
(注10)細かいことを言えば、原作小説では、世之介の事故は2008年の11月に起きていて、祥子が思い出すのは翌年の2月ですが。
★★★☆☆
象のロケット:横道世之介
そのきっかけは、それぞれ違う訳ですから
同じ時期にと言うのがちょっと無理があったかも知れませんね。
でも、旬の役者さん揃いで「その後」お同じ方が演じてるのは私は、とてもうれしかったです。
す。
何もそうかっちっと時期を合わせなくトモという気がしま
した。
ただ、おっしゃるように「旬の役者さん揃い」で長さを感
じさせませんでした。
何となく大体、今、というくらいで観てたのですが、映画の中の最後の年が公開年と10年もずれてるんですか。
相変わらず何の証拠もなく気分でこうでねえのと思う事を書くなら、同じ役者であと10年老けさせるのは酷だなってとこじゃないですかね。メイク技術が発達してるので機械的に10才老けさせるのは大丈夫だけど、
①似つかわしくなさそう
②あえて、まだ老いが見えづらい年に設定して、いなくなった世之介と、世之介のいない世界をまだしばらく生きる人々とを対比したかったんじゃないですかね。みんな着実に年は取ってるけど「引き返せない」感じの年の取り方じゃなかったから。
クマネズミは、「回想の時点を原作小説のようにばらばらにすると錯綜してしまい観客の混乱を招きかねない」からではないかと思ったのですが、「ふじき78」さんがおっしゃるような事情もあるいは考えられるのかも知れませんね(特に、吉高由里子の場合は!)。