『二重生活』を渋谷Humaxシネマで見ました。
(1)『太陽』で見た門脇麦の主演作というので、映画館に行きました。
本作(注1)の冒頭では、ソフィ・カルの『本当の話』から引用された文章が映し出された後、電気のついていない部屋に入ってきた男がコートを脱いで机に向かい、それからパソコンの周辺機器につながっているコードを抜いて、その一方をドアノブに巻きつけ、他方を自分の首にかけ、そしてドスンという音がします。
そしてドアをノックする音が(注2)。
次の場面では、ベッドで主人公の珠(哲学科大学院に通う:門脇麦)と卓也(ゲームデザイナー:菅田将暉)が寝ているところ、目覚ましの音で目を覚ました卓也が、隣で寝ている珠にかぶさっていきます。
しばらくして、二人は「お早う」といって起き出し、ベランダに出てタバコを吸ったりしますが、ふと下を見ると、珠たちが住むマンションの前に建つ大きな家の家族が、自家用車の置かれている前庭に出ていて、両親が子どもに自転車を教えています。
夫の石坂史郎(長谷川博己)は大手出版会社の部長で、妻・美保子(河井青葉)との間に娘がいます。
哲学科修士論文作成計画を立てて勉強している珠に、卓也が「うまいもの食いに行こうか?7時に待ち合わせで。何がいい?」と尋ねます。珠が「卓也は?」と聞き返すと、卓也は「焼き肉」と答え、珠も「いいね」と応じます。
マンションの外に出ると、管理人(注3)の治江(烏丸せつこ)が、「最近、ゴミの出し方が酷いので、監視カメラをつけた。とにかく、行儀を守って」と言います。適当に相槌を打って、卓也はゴミ置き場にゴミを出して出かけ、珠も大学に向かいます。
教室では、篠原教授(リリー・フランキー)が、「新しい哲学者が出てきて、新しい流れを生み出した。それは、「存在とは何か」という言葉の定義です」などと話しています。
授業が終わってから、珠は篠原教授の修士論文のことで相談します。
珠が、「どうして人間は存在するのか、自分がなぜここにいるかの答えは出なくて、胸の中がもやもやするばかり。それで、100人の街の人にアンケートをとってみようかと」と言うと、教授は、「100人ではなく1人の生活を追いかけ、その行動を見て、人間とは何かを洞察するのはどう?理由なき尾行です。やってみませんか?これまでにない面白い論文になると思うが」と言うので、珠は「少し時間を」と答えてその場を後にします。
珠は尾行の対象者を向かいの家の石坂と定めて尾行を開始するのですが、さあどうなるのでしょう、………?
本作は、大学院で勉強する女子の大学院生が主人公。担当の教授の勧めで、自分の家のベランダから向かい側に見える豪壮な家に住む中年男性を尾行し、その行動を詳細にメモ書きし、それを元に修士論文を作成しようとします。映画の視点はなかなか興味深いとはいえ、尾行して覗き見られるのはどこにでも転がっているような二重生活であり、はたしてこんな尾行から意味のある哲学論文が書けるものなのか、酷く疑問に思えてしまいます。
(2)本作については、リリー・フランキーが扮する哲学科教授が大層胡散臭く思えて、クマネズミとしてはまったく乗り切れませんでした。
といっても、あのような題材で哲学科の教授が大学院生に修士論文の作成を求めることは、常識的には考えられないように思えるからにすぎませんが。
単なる素人の想像ながら、普通は、哲学科というのは哲学研究科であって、過去の名の通った哲学者が書いた哲学書を巡るテーマ(注4)を教授は学生に与えるのではないか、あのように身近なレベルの題材について哲学的な思索を求めても、一般の大学院生では答えられないのではなかろうか、と思ってしまいます(注5)。
それに元々、小池真理子の小説では、リリー・フランキーが扮する篠原教授は仏文科に所属しているように思われます(注6)。映画でも、篠原教授はネタ本としてソフィ・カルの『本当の話』を挙げていましたが、日本ではその本は仏文学者(注7)によって翻訳されています。ともかく、クマネズミには、この題材は文学的にすぎるように思えます(注8)。
加えて、大学の教授が、対象者と決してコンタクトを持つなといくら注意するにしても、そんな危険な行為を自分の学生(特に、女子学生に)に求めることなどは考えられないのではないでしょうか?
それに、主人公の珠が書いた論文に自分が登場することがわかっているにもかかわらず、篠原教授は自ら珠と面談をするばかりか、自分のことについての誤った記述の訂正までも求めるのです。これでは、自分が敷いたルールを自ら破ってしまっているように思えます。
(3)もちろん、こうしたことは本作にとり2次的・周縁的なことであり(珠が修士論文を書けるかどうかは、本作にとって本質的なことではないでしょうから)、基本的なところが面白ければそれで構わないはずです。
それに、映画と原作とは別物ですから、何も原作にとらわれて映画化する必要もありません(注9)。
でも、こうした2次的なことに注意が向いてしまって、石坂の不倫行動や、それを垣間見たことによって珠と卓也との関係がその影響を受けることなども、なんだか常識的な感じがしてしまいました。
ひょっとしたら、本作は、様々なレベルの二重生活を描くことによって、その普遍性(哲学的な命題!)を見る者に気付かせるといったことを一つの狙いとしているのかもしれません。
すぐさま分かるのは石坂と珠のそれぞれの二重生活ですが、本作ではさらに篠原教授のそれも描かれているように思われます(注10)。
でも、そこまでやるのであれば、原作のように卓也についても(注11)、その二重生活ぶりを描き出してみる必要があるのではないでしょうか(注12)?
それにしても、篠原教授はどうして自殺をするのでしょう?そして、自殺したのだとしたら、ラストシーンでの指の映像は何を意味するのでしょうか(注13)?
(4)渡まち子氏は、「この底の浅い尾行行為に、哲学や文学の意義はまったく感じない。思わせぶりな小道具や場面が伏線として回収されておらず、消化不良に陥る点もモヤモヤが残ってしまう」などとして50点をつけています。
社会学者の宮台真司氏は、「この映画が描く「尾行が与える体験」というモチーフは、僕たちの大規模定住社会がどういうものなのか、言語的に構成された社会システム(とパーソンシステム)がどういうものなのか、を、かなり的確に描き出してい」て、「その点で『二重生活』は鋭い作品だと言える」ものの、「惜しいのは、「関係の偶発性の海に浮かぶ、<なりすまし>が辛うじて支える奇蹟の島」の演出的な強調が足りないこと」であり、「隣人だけでなく、「誰もが」、<なりすまし>を通じて「書割の中の影絵」として振る舞っていることに、主人公が気付く衝撃。それがもっと描かれていなければな」らず、「主人公に尾行を勧めた指導教授の、母の看取りを巡る<なりすまし>の演出も不完全だと言え」、「僕が脚本を書くなら、これを打開する鍵はリリー・フランキー演じる指導教授にある、と見」る、などと大層興味深い分析を行っています。
安部偲氏は、「この映画は、そうしたのぞき見的なドキドキ感から始まり、観客を引きつけながらも、次第に嘘や隠し事によって二重生活を送るようになる人間という存在や、あるいは尾行をしたことによってトラブルに巻き込まれながらも、少し成長する主人公の姿を描いた人間ドラマとしての姿を露わにしていく。日常生活とはほんの少し異なる、知的好奇心を刺激する2時間6分となっている」などと述べています。
(注1)監督・脚本は岸善幸。
原作は小池真理子著『二重生活』(角川文庫)。
なお、出演者の内、最近では、門脇麦は『太陽』、長谷川博己は『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』、菅田将暉は『ピース オブ ケイク』、リリー・フランキーは『海よりもまだ深く』、西田尚美は 『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』、篠原ゆき子は『残穢―住んではいけない部屋―』(久保の隣室に住む家族の妻)、河井青葉は『お盆の弟』、烏丸せつこは『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』で、それぞれ見ました。
また、小池真理子氏の原作小説を映画化したものとしては『無伴奏』を見ました。
さらに、哲学に携わる人を描いた作品としては、最近、『教授のおかしな妄想殺人』とか、『森のカフェ』、『ハンナ・アーレント』とかを見ました〔『娚の一生』に登場する主人公(豊川悦司)も哲学の教授ですが、そのことの意味はほとんどありません〕。
(注2)ラストの、珠が篠原教授の部屋のドアを叩こうとする場面に繋がるのでしょう。
(注3)原作では「珠の住むマンションの大家は、春日治江、という名で、古くからこの土地に住んでいる」とされていますが(文庫版P.16)、本作では、治江が石坂のことを「ここらへんの地主さん」と言っているところからしたら、治江はマンションの管理人なのではと思います(その方が、石坂が珠の携帯番号を知るのに都合がいいのかもしれません)。
(注4)例えば、サルトルの『存在と無』に伺える時間の概念を論じた論文について検討する、などといったものではないかと思われます。
普通は、大学院生レベルになれば、研究する対象はほぼ特定されているのではないでしょうか(例えば、サルトルを研究するなど)?
ただ、本作の主人公のように、なんとなく大学院生になった感じがする場合には、あるいはそうした研究対象を絞り込めていないかもしれません。尤も、その場合には、本作のような題材を取り扱う能力など到底持ちあわせてはいないように思えます。
(注5)原作では、この題材で、主人公の珠は「報告書」を密かに作成しているにしても、大学に提出する論文などは作成しておりません。原作で珠が石坂の尾行を始めるのは、本作のように教授に明示的に勧められたからではなく、3年ほど前に篠原教授の授業で聞いた「尾行」の話を思い出したところに(文庫版の「序章」)、たまたま駅で石坂を見かけたこと(文庫版P.18)によるものです。本作と違うこういう設定であれば、まだ受け入れ可能ではないかと思います。
(注6)文庫版のP.29では、篠原教授について、「(珠の)大学時代のゼミの教授」であり、「専門はフランス文学だが、絵画や音楽、写真や演劇などにも詳しく、シュールレアリスムと呼ばれる種類のサブカルチャー全般にわたって、独自の見解を示すことを好んだ」と述べられています。
(注7)『本当の話』は、フランス文学者の野崎歓氏が翻訳しています(平凡社刊)。
Amazonの「商品の説明」によれば、同書には、ソフィ・カルの作品と、哲学者・思想家のボードリヤール氏によるソフィ論が収録されているとのこと。後者を検討するのであればまだしも(といって、ボードリヤール氏は、そのソフィ論を書くにあたって誰かの「尾行」をしたのでしょうか?)、前者によって「尾行」をして、それで哲学的思索を行うというのは、珠のような大学院生にとり大層困難な作業のように思えます。
ちなみに、ソフィ・カルは、この記事によれば、「現在国際的にもっとも注目されている現代美術作家のひとり」とされているようです。
(注8)原作小説では、「文学的・哲学的尾行」という言葉が頻出しています(文庫版のP.29以外にもP.45とかP.71など)。
ただ、常識的には、「文学的」というのは“特殊的・具体的”であり、「哲学的」というのは“普遍的・抽象的”でしょう。仮にそうであるとしたら「文学的・哲学的」という形容は矛盾しているように思われるのですが(篠原教授が言うように「100人ではなく1人」について「尾行」をするということは、まさに“特殊的・具体的”であり、したがって「文学的」なことのように思えます)。
(注9)原作と本作とでは、かなり違っている部分があります。例えば、本作では、篠原教授の母親が直腸癌で余命2ヶ月とされ、母親を安心させるべく篠原教授は、劇団の女優の桃子(西田尚美)に擬似家族を演じてもらいますが、原作においては、桃子は女優にしても、卓也がアルバイト的に務める専属運転手の雇い主なのです。
なお、原作においても、教授の身内にスキルス性の胃癌にかかっている者がいるとされていますが、それは教授の妻の弟なのです。さらに、スキルス性胃癌は、珠の別れた彼氏の武田もかかっていたのです(本作では、高2の時に好きだった人が癌で死んだと珠が石坂に話します)!
こうした原作のプロットは、タイトルの「二重生活」を目立たせるために必要なのかもしれませんが、あまりにもわざとらしさを感じさせます(「スキルス性胃癌」は、登場人物を舞台から消すための都合のいい装置のように思えます)。
さらに言えば、原作においては、珠が石坂を尾行し出すとともに、卓也の桃子との関係に珠が疑問を抱くように書かれていますが、これもわざとらしい感じがします。
加えて原作では、石坂の尾行を珠が始めると、すぐに澤村しのぶとの密会の場面(表参道のカフェ)となり、二人の会話の内容が長々と書き込まれています(文庫版P.46~P.57)。確かに、「隣りにいる石坂との距離は、わずか五十センチにも満たない」(P.42)席に珠が座っているのであれば、石坂としのぶの会話を聞き取ることもできるでしょう。でも、尾行の初心者がそんなに大胆な行動をとるとは、常識的には考えられないのではないでしょうか?
元々、尾行というのは対象者の行動を一定の距離をおいて密かに見守ることであって、盗聴までは求められていないように思われますし、そんな詳細な場面を描きたいのであれば、原作のように珠の視点から小説を書くのではなく、小説の語り手を“神”として、珠についてもその第3者からの視点で描き出せばいいのではと思います。
もっと言うと、珠が、卓也とその雇い主の桃子との関係を疑ったことに対し、卓也は「そういう話は、桃子さんに失礼だよ」と言って、「桃子さんには恋人がいるんだよ」と打ち明けるのですが、それは小説のラスト寸前になってからというのも(文庫版P.382)、酷くあざとい感じがします(常識的には、自分が珠に疑いの目をもって見られていることに卓也がすぐに気がついて、ずっと早い段階で打ち明けているのではないでしょうか?)。
原作の小説については、文庫版で400ページ近くの長編でありながらも、総じてご都合主義が目立ち、リアリティに欠ける感じがして仕方がありませんでした。
(注10)本作における篠原教授の二重生活ぶりについては、上記「注9」の冒頭部分に書きました(加えて、本作の桃子も、舞台俳優であるとともに、擬似家族も演じているのですから二重生活をしているといえるでしょう。代行業による擬似家族につては、『リップヴァンウィンクルの花嫁』で2回も描かれていました)。
さらに、下記「注12」でも触れますが、本作の篠原教授自身が「尾行」という行為に嵌っているのかもしれません。
(注11)卓也と桃子との関係は上記「注9」の中で触れています。
さらに言えば、石坂の妻の美保子についても、石坂の愛人の澤村しのぶ(篠原ゆき子)についても、何かその感じを出す必要があるように思われます(でも、映画作品として収拾がつかなくなってしまうかもしれませんが)。
(注12)ただ、この「二重生活」というのは、人は様々のペルソナを持っていて、場面場面によって使い分けるのだ、というよく知られている考え方と、実際のところどう違うのかよくわからないところです。
(注13)篠原教授は自殺に失敗したのかもしれませんし(しかし、本作の冒頭とラスト近くで自殺シーンを映し出しているにもかかわらず、失敗してしまうとは?)、あるいは「尾行」に執念を抱く篠原教授の亡霊が出現したのかもしれません!でも、どうして自殺など?
★★☆☆☆☆
象のロケット:二重生活
(1)『太陽』で見た門脇麦の主演作というので、映画館に行きました。
本作(注1)の冒頭では、ソフィ・カルの『本当の話』から引用された文章が映し出された後、電気のついていない部屋に入ってきた男がコートを脱いで机に向かい、それからパソコンの周辺機器につながっているコードを抜いて、その一方をドアノブに巻きつけ、他方を自分の首にかけ、そしてドスンという音がします。
そしてドアをノックする音が(注2)。
次の場面では、ベッドで主人公の珠(哲学科大学院に通う:門脇麦)と卓也(ゲームデザイナー:菅田将暉)が寝ているところ、目覚ましの音で目を覚ました卓也が、隣で寝ている珠にかぶさっていきます。
しばらくして、二人は「お早う」といって起き出し、ベランダに出てタバコを吸ったりしますが、ふと下を見ると、珠たちが住むマンションの前に建つ大きな家の家族が、自家用車の置かれている前庭に出ていて、両親が子どもに自転車を教えています。
夫の石坂史郎(長谷川博己)は大手出版会社の部長で、妻・美保子(河井青葉)との間に娘がいます。
哲学科修士論文作成計画を立てて勉強している珠に、卓也が「うまいもの食いに行こうか?7時に待ち合わせで。何がいい?」と尋ねます。珠が「卓也は?」と聞き返すと、卓也は「焼き肉」と答え、珠も「いいね」と応じます。
マンションの外に出ると、管理人(注3)の治江(烏丸せつこ)が、「最近、ゴミの出し方が酷いので、監視カメラをつけた。とにかく、行儀を守って」と言います。適当に相槌を打って、卓也はゴミ置き場にゴミを出して出かけ、珠も大学に向かいます。
教室では、篠原教授(リリー・フランキー)が、「新しい哲学者が出てきて、新しい流れを生み出した。それは、「存在とは何か」という言葉の定義です」などと話しています。
授業が終わってから、珠は篠原教授の修士論文のことで相談します。
珠が、「どうして人間は存在するのか、自分がなぜここにいるかの答えは出なくて、胸の中がもやもやするばかり。それで、100人の街の人にアンケートをとってみようかと」と言うと、教授は、「100人ではなく1人の生活を追いかけ、その行動を見て、人間とは何かを洞察するのはどう?理由なき尾行です。やってみませんか?これまでにない面白い論文になると思うが」と言うので、珠は「少し時間を」と答えてその場を後にします。
珠は尾行の対象者を向かいの家の石坂と定めて尾行を開始するのですが、さあどうなるのでしょう、………?
本作は、大学院で勉強する女子の大学院生が主人公。担当の教授の勧めで、自分の家のベランダから向かい側に見える豪壮な家に住む中年男性を尾行し、その行動を詳細にメモ書きし、それを元に修士論文を作成しようとします。映画の視点はなかなか興味深いとはいえ、尾行して覗き見られるのはどこにでも転がっているような二重生活であり、はたしてこんな尾行から意味のある哲学論文が書けるものなのか、酷く疑問に思えてしまいます。
(2)本作については、リリー・フランキーが扮する哲学科教授が大層胡散臭く思えて、クマネズミとしてはまったく乗り切れませんでした。
といっても、あのような題材で哲学科の教授が大学院生に修士論文の作成を求めることは、常識的には考えられないように思えるからにすぎませんが。
単なる素人の想像ながら、普通は、哲学科というのは哲学研究科であって、過去の名の通った哲学者が書いた哲学書を巡るテーマ(注4)を教授は学生に与えるのではないか、あのように身近なレベルの題材について哲学的な思索を求めても、一般の大学院生では答えられないのではなかろうか、と思ってしまいます(注5)。
それに元々、小池真理子の小説では、リリー・フランキーが扮する篠原教授は仏文科に所属しているように思われます(注6)。映画でも、篠原教授はネタ本としてソフィ・カルの『本当の話』を挙げていましたが、日本ではその本は仏文学者(注7)によって翻訳されています。ともかく、クマネズミには、この題材は文学的にすぎるように思えます(注8)。
加えて、大学の教授が、対象者と決してコンタクトを持つなといくら注意するにしても、そんな危険な行為を自分の学生(特に、女子学生に)に求めることなどは考えられないのではないでしょうか?
それに、主人公の珠が書いた論文に自分が登場することがわかっているにもかかわらず、篠原教授は自ら珠と面談をするばかりか、自分のことについての誤った記述の訂正までも求めるのです。これでは、自分が敷いたルールを自ら破ってしまっているように思えます。
(3)もちろん、こうしたことは本作にとり2次的・周縁的なことであり(珠が修士論文を書けるかどうかは、本作にとって本質的なことではないでしょうから)、基本的なところが面白ければそれで構わないはずです。
それに、映画と原作とは別物ですから、何も原作にとらわれて映画化する必要もありません(注9)。
でも、こうした2次的なことに注意が向いてしまって、石坂の不倫行動や、それを垣間見たことによって珠と卓也との関係がその影響を受けることなども、なんだか常識的な感じがしてしまいました。
ひょっとしたら、本作は、様々なレベルの二重生活を描くことによって、その普遍性(哲学的な命題!)を見る者に気付かせるといったことを一つの狙いとしているのかもしれません。
すぐさま分かるのは石坂と珠のそれぞれの二重生活ですが、本作ではさらに篠原教授のそれも描かれているように思われます(注10)。
でも、そこまでやるのであれば、原作のように卓也についても(注11)、その二重生活ぶりを描き出してみる必要があるのではないでしょうか(注12)?
それにしても、篠原教授はどうして自殺をするのでしょう?そして、自殺したのだとしたら、ラストシーンでの指の映像は何を意味するのでしょうか(注13)?
(4)渡まち子氏は、「この底の浅い尾行行為に、哲学や文学の意義はまったく感じない。思わせぶりな小道具や場面が伏線として回収されておらず、消化不良に陥る点もモヤモヤが残ってしまう」などとして50点をつけています。
社会学者の宮台真司氏は、「この映画が描く「尾行が与える体験」というモチーフは、僕たちの大規模定住社会がどういうものなのか、言語的に構成された社会システム(とパーソンシステム)がどういうものなのか、を、かなり的確に描き出してい」て、「その点で『二重生活』は鋭い作品だと言える」ものの、「惜しいのは、「関係の偶発性の海に浮かぶ、<なりすまし>が辛うじて支える奇蹟の島」の演出的な強調が足りないこと」であり、「隣人だけでなく、「誰もが」、<なりすまし>を通じて「書割の中の影絵」として振る舞っていることに、主人公が気付く衝撃。それがもっと描かれていなければな」らず、「主人公に尾行を勧めた指導教授の、母の看取りを巡る<なりすまし>の演出も不完全だと言え」、「僕が脚本を書くなら、これを打開する鍵はリリー・フランキー演じる指導教授にある、と見」る、などと大層興味深い分析を行っています。
安部偲氏は、「この映画は、そうしたのぞき見的なドキドキ感から始まり、観客を引きつけながらも、次第に嘘や隠し事によって二重生活を送るようになる人間という存在や、あるいは尾行をしたことによってトラブルに巻き込まれながらも、少し成長する主人公の姿を描いた人間ドラマとしての姿を露わにしていく。日常生活とはほんの少し異なる、知的好奇心を刺激する2時間6分となっている」などと述べています。
(注1)監督・脚本は岸善幸。
原作は小池真理子著『二重生活』(角川文庫)。
なお、出演者の内、最近では、門脇麦は『太陽』、長谷川博己は『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』、菅田将暉は『ピース オブ ケイク』、リリー・フランキーは『海よりもまだ深く』、西田尚美は 『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』、篠原ゆき子は『残穢―住んではいけない部屋―』(久保の隣室に住む家族の妻)、河井青葉は『お盆の弟』、烏丸せつこは『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』で、それぞれ見ました。
また、小池真理子氏の原作小説を映画化したものとしては『無伴奏』を見ました。
さらに、哲学に携わる人を描いた作品としては、最近、『教授のおかしな妄想殺人』とか、『森のカフェ』、『ハンナ・アーレント』とかを見ました〔『娚の一生』に登場する主人公(豊川悦司)も哲学の教授ですが、そのことの意味はほとんどありません〕。
(注2)ラストの、珠が篠原教授の部屋のドアを叩こうとする場面に繋がるのでしょう。
(注3)原作では「珠の住むマンションの大家は、春日治江、という名で、古くからこの土地に住んでいる」とされていますが(文庫版P.16)、本作では、治江が石坂のことを「ここらへんの地主さん」と言っているところからしたら、治江はマンションの管理人なのではと思います(その方が、石坂が珠の携帯番号を知るのに都合がいいのかもしれません)。
(注4)例えば、サルトルの『存在と無』に伺える時間の概念を論じた論文について検討する、などといったものではないかと思われます。
普通は、大学院生レベルになれば、研究する対象はほぼ特定されているのではないでしょうか(例えば、サルトルを研究するなど)?
ただ、本作の主人公のように、なんとなく大学院生になった感じがする場合には、あるいはそうした研究対象を絞り込めていないかもしれません。尤も、その場合には、本作のような題材を取り扱う能力など到底持ちあわせてはいないように思えます。
(注5)原作では、この題材で、主人公の珠は「報告書」を密かに作成しているにしても、大学に提出する論文などは作成しておりません。原作で珠が石坂の尾行を始めるのは、本作のように教授に明示的に勧められたからではなく、3年ほど前に篠原教授の授業で聞いた「尾行」の話を思い出したところに(文庫版の「序章」)、たまたま駅で石坂を見かけたこと(文庫版P.18)によるものです。本作と違うこういう設定であれば、まだ受け入れ可能ではないかと思います。
(注6)文庫版のP.29では、篠原教授について、「(珠の)大学時代のゼミの教授」であり、「専門はフランス文学だが、絵画や音楽、写真や演劇などにも詳しく、シュールレアリスムと呼ばれる種類のサブカルチャー全般にわたって、独自の見解を示すことを好んだ」と述べられています。
(注7)『本当の話』は、フランス文学者の野崎歓氏が翻訳しています(平凡社刊)。
Amazonの「商品の説明」によれば、同書には、ソフィ・カルの作品と、哲学者・思想家のボードリヤール氏によるソフィ論が収録されているとのこと。後者を検討するのであればまだしも(といって、ボードリヤール氏は、そのソフィ論を書くにあたって誰かの「尾行」をしたのでしょうか?)、前者によって「尾行」をして、それで哲学的思索を行うというのは、珠のような大学院生にとり大層困難な作業のように思えます。
ちなみに、ソフィ・カルは、この記事によれば、「現在国際的にもっとも注目されている現代美術作家のひとり」とされているようです。
(注8)原作小説では、「文学的・哲学的尾行」という言葉が頻出しています(文庫版のP.29以外にもP.45とかP.71など)。
ただ、常識的には、「文学的」というのは“特殊的・具体的”であり、「哲学的」というのは“普遍的・抽象的”でしょう。仮にそうであるとしたら「文学的・哲学的」という形容は矛盾しているように思われるのですが(篠原教授が言うように「100人ではなく1人」について「尾行」をするということは、まさに“特殊的・具体的”であり、したがって「文学的」なことのように思えます)。
(注9)原作と本作とでは、かなり違っている部分があります。例えば、本作では、篠原教授の母親が直腸癌で余命2ヶ月とされ、母親を安心させるべく篠原教授は、劇団の女優の桃子(西田尚美)に擬似家族を演じてもらいますが、原作においては、桃子は女優にしても、卓也がアルバイト的に務める専属運転手の雇い主なのです。
なお、原作においても、教授の身内にスキルス性の胃癌にかかっている者がいるとされていますが、それは教授の妻の弟なのです。さらに、スキルス性胃癌は、珠の別れた彼氏の武田もかかっていたのです(本作では、高2の時に好きだった人が癌で死んだと珠が石坂に話します)!
こうした原作のプロットは、タイトルの「二重生活」を目立たせるために必要なのかもしれませんが、あまりにもわざとらしさを感じさせます(「スキルス性胃癌」は、登場人物を舞台から消すための都合のいい装置のように思えます)。
さらに言えば、原作においては、珠が石坂を尾行し出すとともに、卓也の桃子との関係に珠が疑問を抱くように書かれていますが、これもわざとらしい感じがします。
加えて原作では、石坂の尾行を珠が始めると、すぐに澤村しのぶとの密会の場面(表参道のカフェ)となり、二人の会話の内容が長々と書き込まれています(文庫版P.46~P.57)。確かに、「隣りにいる石坂との距離は、わずか五十センチにも満たない」(P.42)席に珠が座っているのであれば、石坂としのぶの会話を聞き取ることもできるでしょう。でも、尾行の初心者がそんなに大胆な行動をとるとは、常識的には考えられないのではないでしょうか?
元々、尾行というのは対象者の行動を一定の距離をおいて密かに見守ることであって、盗聴までは求められていないように思われますし、そんな詳細な場面を描きたいのであれば、原作のように珠の視点から小説を書くのではなく、小説の語り手を“神”として、珠についてもその第3者からの視点で描き出せばいいのではと思います。
もっと言うと、珠が、卓也とその雇い主の桃子との関係を疑ったことに対し、卓也は「そういう話は、桃子さんに失礼だよ」と言って、「桃子さんには恋人がいるんだよ」と打ち明けるのですが、それは小説のラスト寸前になってからというのも(文庫版P.382)、酷くあざとい感じがします(常識的には、自分が珠に疑いの目をもって見られていることに卓也がすぐに気がついて、ずっと早い段階で打ち明けているのではないでしょうか?)。
原作の小説については、文庫版で400ページ近くの長編でありながらも、総じてご都合主義が目立ち、リアリティに欠ける感じがして仕方がありませんでした。
(注10)本作における篠原教授の二重生活ぶりについては、上記「注9」の冒頭部分に書きました(加えて、本作の桃子も、舞台俳優であるとともに、擬似家族も演じているのですから二重生活をしているといえるでしょう。代行業による擬似家族につては、『リップヴァンウィンクルの花嫁』で2回も描かれていました)。
さらに、下記「注12」でも触れますが、本作の篠原教授自身が「尾行」という行為に嵌っているのかもしれません。
(注11)卓也と桃子との関係は上記「注9」の中で触れています。
さらに言えば、石坂の妻の美保子についても、石坂の愛人の澤村しのぶ(篠原ゆき子)についても、何かその感じを出す必要があるように思われます(でも、映画作品として収拾がつかなくなってしまうかもしれませんが)。
(注12)ただ、この「二重生活」というのは、人は様々のペルソナを持っていて、場面場面によって使い分けるのだ、というよく知られている考え方と、実際のところどう違うのかよくわからないところです。
(注13)篠原教授は自殺に失敗したのかもしれませんし(しかし、本作の冒頭とラスト近くで自殺シーンを映し出しているにもかかわらず、失敗してしまうとは?)、あるいは「尾行」に執念を抱く篠原教授の亡霊が出現したのかもしれません!でも、どうして自殺など?
★★☆☆☆☆
象のロケット:二重生活
尾行によって主人公の彼女が何を得たのか?ちょっと虚しさが残ったのでは?そう感じてしまう作品でした。
こちらからもTBお願いします。
原作ではフランス文学者の篠原教授を、本作でなぜ哲学科の教授にわざわざ変更したのか理解し難い感じでした。ここは原作通りにする方が、見る方にとっては受け入れやすいものと思われます。
それに、あのような珠の尾行の仕方では、おっしゃるように、「彼女が何を得たのか」曖昧で、とても意味のある修士論文など書けなかったように思えますし。