『散歩する侵略者』を渋谷シネパレスで見ました。
(1)黒沢清監督の作品ということで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、金魚が沢山泳いでいます。その金魚が一匹、網で掬われて、容器に移されます。
次いで、女高生のあきら(恒松祐里)が、金魚の入ったビニールを手にぶら下げて、道を歩いています。
そして、1軒の家に差し掛かると、「只今」と言って家の中に入っていきます。
しばらくして、「ワーッ」と言って女が出てきますが、また中に引きずり込まれます。
家の中はメチャクチャになっていて、壁に血が飛び散っています。
よく見ると、家人が何人か倒れていて、金魚は床の上に。
あきらの顔や手には血が付いていますが、そのまま家を出て、車の行き交う道路の真ん中を、血の付いたセーラー服を着て歩きます。
病院で。
主人公の鳴海(長澤まさみ)が、夫の真治(松田龍平)を見ると、雑誌を逆さまに読んでいて、「なるほど」と呟いたりしています。
鳴海は、「冗談はやめて」「何があったの?」と尋ねますが、はかばかしい答えは返ってきません。
医者は、「ご主人、こんな状態で道を歩いていました」、「あまり深刻にならない方が」、「奥様の支えがあれば、そのうちに正常に戻りますよ」と言うだけです。
2人は病院の外に出ます。
真治は歩き出しますが、すぐに倒れてしまいます。
鳴海は、「立てないの?面倒くさいわね!」と怒ります。
しばらくして、鳴海は「真ちゃんが私を裏切ったの」、「この間の出張、会社の女の子と行ったんだよね」、「今更ごまかせると思ったら大間違い」と詰め寄りますが、真治は「へー、なるほど」と受け流します。
次いで、2人は車の中。
真治が「でも、俺たち夫婦だよね」、「鳴海、俺のガイドになってくれよ、いろいろわからないところがあるから」と言い出します。
2人は自宅に戻ります。
TVで気象予報官が「日本は概ね晴れ」と言いながら天気図を説明すると、真治は、予報官の仕草を真似します。
他方で、鳴海は真治に、「会社どうするの?休むなら、自分で連絡してよ」と言います。
こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?
本作は、主人公の夫を含めて3人の日本人が、宇宙からの侵略者に乗っ取られてしまうというところから始まります。主人公は、なかなか夫の異変を飲み込めず、何とかして夫を元の姿に戻そうと努めます。残りの2人に取り付いた宇宙人は、ジャーナリストをガイドとして使って、侵略する宇宙人の本隊と連絡しようとします。さあどうなるかというところですが、興味深いのは、3人に取り付いた宇宙人が、人間から「概念」を吸い出して人間というものを理解しようとする点です。この「概念」の使い方に少々違和感を覚えましたが、まずまず面白い着想に基づいた作品と言えるでしょう。
(2)本作においては、宇宙人による地球侵略が描かれますが、その際の事前調査にあたって重要な手段となっているのが、人間から「概念」を奪い取りそれを吸収して、宇宙人が人間を理解しようとすることです。
クマネズミには、いろいろな意味で、この点が一番興味を惹かれました。
例えば、家を飛び出してきた鳴海の妹の明日美(前田敦子)は、真治に侵入している宇宙人によって、「家族」の概念を奪われてしまいます(注2)。そうなると、明日美は、姉の鳴海に対し急に他人行儀になってしまいます。
また、あきらを病院で監視している刑事の車田(児嶋一哉)は、天野という青年(高杉真宙)と女高生・あきらに侵入している宇宙人によって、「自分」と「他人」という概念を抜き取られてしまいます(注3)。すると、車田は、自他の区別がつかなくなってしまい、あきらが外に出ていくのを簡単に認めてしまいます(注4)。
それに、鳴海に仕事を依頼する鈴木社長(光石研)は、会社に現れた真治から「仕事」の概念を取り去ると(注5)、会社で仕事をしなくなり、子供のように紙ヒコーキを作って飛ばしたり、机の上に乗っかったりして遊び回ります。
でも、こうした反応はうまく理解できるでしょうか?
例えば、「家族」という概念を奪われても、それが「名辞」だけであり、まだ「姉妹」とか「親子」などの低位の概念が明日美に残されているのであれば、急激に鳴海によそよそしくなることもないかもしれません。
ただ、「家族」という概念を構成する下位の概念までもごそっと宇宙人によって持って行かれてしまえば、あるいは冷淡になるかもしれません。
でも、一体、どこまでの下位の概念までが「家族」に含まれているというのでしょうか(注6)?
それに、例えば、「家族」という概念が、「婚姻によって結びつけられている夫婦、およびその夫婦と血縁関係のある人々で、ひとつのまとまりを形成した集団のこと」であり(注7)、その全体がごそっと宇宙人によって奪われてしまうとしても、その家族の概念に付着しているはずの“家族というものは親密に交際するものである”といったイメージまでも取り去られない限り(注8)、明日美が鳴海に冷淡になることもないように思われます。
もっと言えば、「概念」によっては、その内実をはっきりと示すことが難しいものもあるように思われます。
例えば、「自分」と「他人」という概念ですが、Wikipediaで「自分」と「他人」を調べてみると、内容がない書き方になっています(注9)。そんな場合に宇宙人は、単なる「名辞」ではないとしたら、一体どんなものを奪うというのでしょうか?
「仕事」という概念にしても随分漠然としていて、一体どのような内実を持ったものを宇宙人は奪い取るのでしょうか?
それだけでなく、「仕事」の概念ならば、宇宙人が乗っ取った真治も、会社員ですから、その概念を持っていたはずです。宇宙人は、どうしてその概念を真治自身から抜き取らなかったのでしょう?そして、宇宙人が鈴木社長から奪い取った「仕事」の概念は、真治が元々持っている「仕事」の概念とどのような関係に置かれるのでしょう(注10)?
ところで、黒沢清監督は、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事の中で、「この映画の中で使っている概念は、自分たちにとっていちばん大切にしているもの、なんとなくその人がその人として社会の中で自分らしさを保ち続けていけるものというふうに位置づけました」「概念って知らないうちに自分自身を縛り付けている何か、なのかもしれないと、今回は想定しています」「人間の数だけ概念はあるんだと思いますね」と述べています(注11)。
となると、ここでアレコレ取り扱ってきました「概念」と、黒沢監督の考えている「概念」とは、どうも概念がまるで違っている感じもしてきます。
こんな「概念」に関するとりとめもなく中途半端な議論は、冗談話としてサテおくこととしましょう。
すると本作は、二つの物語から構成されていることが見えてきます。一つは、真治と鳴海の夫婦の物語であり、もう一つは、ジャーナリストの桜井(長谷川博己)を「ガイド」役として使う天野とあきらの物語です。
勿論、二つの物語は交錯するところもありますが、比較的独立した物語として作られているように思います。
前者では、冷え切った夫婦関係でありながらも、どうも言うことがはっきりせず、すぐに足元がふらついてしまう夫・真治を見て、放っておけないと思うようになってきたのでしょうか、鳴海は真治をなんとかして守ろうとし出します。
後者では、天野とあきらに取り付いた宇宙人は、地球を侵略しようとする宇宙人と、通信機器を組み立てて連絡をとろうとします。
こうした二つの物語は、それぞれなかなか面白い展開をした後、なんと「愛」という概念が絡んできて終盤を迎えます。
ただ、「愛」という概念によって様々なことに解決がついてしまう、という本作の描き方には、なんだか違和感を覚えてしまいます。何しろ、日本においては(注12)、「愛」という概念は、まだまだそれほど身近なものにはなっていないように感じられるからですが(注13)。
尤も、黒沢監督もそんなことは百も承知で、真治と鳴海は教会に行って、合唱団の少年・少女とか牧師(東出昌大)に「愛とは何か?」と尋ねますが、はかばかしい答えが返ってこないシーンを描いています(注14)。
そうなると、やっぱり、このエントリで取り上げてきた「概念」に纏わるクマネズミの議論は、どうやらお門違いだったということになるのかもしれません。
(3)渡まち子氏は、「絶望を描くかに見えて、今までにない“前向き”なメッセージを感じさせる内容に、黒沢清監督の新たな挑戦を感じる作品だった」として75点を付けています。
村山匡一郎氏は、「人間の顔をした侵略者。映画はSFサスペンスの外観を見せているとはいえ、演出はあくまで人間ドラマとしてある。この点にこそ黒沢映画の魅力がある」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
北小路隆志氏は、「他人から全てを奪うことを欲し、それが同時に奪われることでもある情動が「愛」であるとして、宇宙人が地球人から「愛」の概念を奪うとき、そこで何が生じるのか……。驚くべき結末を見届けてほしい」と述べています。
毎日新聞の高橋諭治氏は、「家族、仕事、愛といった人間の“概念”を奪う侵略者の暗躍は、いささか回りくどい印象を受けるが、黒沢監督はそこに深入りすることなく、映画的な快楽を優先」と述べています。
(注1)監督は、『クリーピー 偽りの隣人』の黒沢清。
脚本は田中幸子と黒沢清。
原作は、前川知大著『散歩する侵略者』(角川文庫:同作は、同じ前川氏の戯曲の小説化)。
(前川知大氏は、『太陽』の原作者でもあります)
なお、出演者の内、最近では、長澤まさみは『銀魂』、松田龍平は『夜空はいつでも最高密度の青色だ』、高杉真宙は『カルテット!』、恒松祐里は『くちびるに歌を』、長谷川博己は『シン・ゴジラ』、前田敦子は『モヒカン故郷に帰る』、満島真之介は『三度目の殺人』、児嶋一哉は『恋の罪』、光石研は『彼女の人生は間違いじゃない』、東出昌大は『関ヶ原』、小泉今日子は『ふきげんな過去』、笹野高史は『新宿スワンⅡ』で、それぞれ見ました。
(注2)ここらあたりの経緯は、概略次のようです。
両親に結婚のことをうるさく言われ、その家を飛び出してきた明日美が、真治に「義理の妹」と自己紹介すると、真治は「こんがらがってきたぞ」と困惑します。明日美が、さらに「皆、家族」と言うと、真治は「家族って?」と訊いてきます。明日美が、「真治さんは、義理の兄」、「鳴海は、私のお姉ちゃん」と答えると、真治は「なるほど。それもらうよ」と言って、明日美の額を指で突く真似をします。すると、明日美はその場に崩折れます。
ですが、このシーンの描き方では、真治に入り込んでいる宇宙人が、明日美が使った様々の「概念」の中で、いったいどれを抜き取ったのかよくわかりません!
(注3)ここらあたりの経緯は、概略次のようです。
あきらの病室を監視している車田が、電話で「自分はそう聞いています」と言っているのを耳にしたあきらが「刑事さん、「自分」って何?」と尋ねます。刑事は、「質問には応じられない」と答えますが、あきらは「「自分」のことわかっているのは「自分」だよね」と言うので、車田は「これ以上言うと、麻酔を使うぞ」と威嚇します。
次いで、あきらの病室にやってきた桜井と天野が病室に入ろうとするので、車田が「あんたは誰だ?」と尋ねます。それに対して、天野が「そう言うあんたは?」と聞き返すと、車田は「自分は自分だ」と答えます。
そして、あきらが再度「ちゃんと「自分」について教えてよ」と言うと、車田は「自分は自分で他人じゃない」「高卒のヒラの刑事で、大卒のエリートとは違う」と答えます。
すると、天野は「もらうよ」といって天野の額を指差すと、車田はその場に崩折れます。
(注4)天野とあきらが「行きますよ」と言って病室を出ようとすると、車田は「どうぞ。あなたたちは私なんだから」と応じて、彼らが出るのを認めてしまいます。
ただ、「自分」や「他人」という概念が頭の中からなくなれば、同時に「私」とか「あなた(たち)」ということもわからなくなってしまうのではないでしょうか?そしてそうなったら、「私」=「あなた(たち)」などと思いつかないことでしょう!
(注5)鈴木社長が鳴海に対して、「これはどういうこと?」「あなたの個性は要らないの」「これは仕事なの!」と怒っていると、真治が会社に現れます。鳴海が「仕事中!」と注意すると、真治は「仕事ってなんですか?」と鈴木社長に尋ねます。社長が「社長と社員との関係」と雑に答えるものですから、真治は「仕事ってなんですか?」「ちゃんとイメージとして頭の中にあるんじゃないですか?」「もっと鮮明に」と言い寄り、そして「それもらった」と言って社長の額に指を向けます。
このエピソードからすると、宇宙人が人間の頭から抜き取るのは、「概念」ばかりでなく「イメージ」もあるようです。でも、そんなことをしたら、「概念」よりももっと宇宙人の頭が混乱してしまうのではないでしょうか?
(注6)例えば、「果物」という概念の場合、すぐに考えられるのは「りんご」「なし」等の下位概念でしょうが、「果物」という概念を構成するのは何も「りんご」「なし」等の具体的な下位概念ばかりではないでしょう。例えば、「食用になる果実及び果実的野菜のうち、強い甘味を有し、調理せずそのまま食することが一般的であるもの」というのが「果物」という概念を構成する内容だとすれば(Wikipediaのこの記事によります)、そこには「果実」「野菜」といった上位概念と言えるものも含まれてきてしまいます。それに、例えば「りんご」という下位概念にしたって、「ふじ」とか「紅玉」などの沢山のさらなる下位概念の集まりです。
いったい、ある人間から「概念」を抜くということはどういうことなのでしょうか?
様々の上位概念まで抜き取ってしまうということであれば、もしかしたら、ある「概念」を抜き取られた人間は、それだけでたくさんの概念も一緒に抜き取られてしまい、何もできなくなってしまうのかもしれませんし、
抜き取った宇宙人の方も、余りに大量な情報を同時に獲得するために、大混乱に陥るかもしれません。
(注7)Wikipediaのこの記事によります。
(注8)ただ、「イメージ」は、個々の人間によってかなりばらつきがあるように思われます。人によっては、「家族」に対して酷くネガティブなイメージを持っているのではないでしょうか?
(注9)Wikipediaのこの記事では、「他人」について「自分を除いた人間」とされていますが、この記事では「自分」について「一人称として使用されることがある」としか書かれておらず、何も規定されていないも同然ですから、結局、「自分」も「他人」もわけのわからないものとなってしまいます。
(注10)もう一つ興味深い例は、次のようです。
外をふらついている真治が、見知らぬ大きな家の中に入ろうとします。
すると、その家の持ち主で引きこもりの丸尾(満島真之介)が現れ、「そこで何をしているの?」と質します。それに対して、逆に真治が「君はなんでここにいるの?」と聞き返すものですから、丸尾は、当然のように「“俺”の家だから」と答えます。それで、真治は「そうか、“俺”の家か」と言って家の中に入ろうとします。丸尾はそれを押し戻して、「ここは“俺”名義の家」と言い、「おじさんの名は?」と尋ねると、真治は「しんちゃん」と答えます。丸尾が、さらに「ここはおじさんの家じゃない」と言うと、真治は「問題は「の」だな」と呟き、丸尾が「それは所有の「の」のこと」と言うと、真治は「それもらうよ」と応じます。
ですが、このエピソードで宇宙人が抜き取るのは「の」のように思えるところ、「の」は単なる助詞ですから「概念」とはとてもいえないように思われます(尤も、「の」を奪われた丸尾は、引きこもっていた家から解放されて、外を出歩けるようになるのですが)。
(注11)でも、例えば、明日美にとっていちばん大切にしているもの、あるいは自分自身を縛り付けているものは、はたして「家族」なのでしょうか?そうかもしれませんが、他にも、それこそ「自分」とか「自由」などといったものも考えられるのではないでしょうか?
(注12)なぜか本作の事件は、すべて日本国内だけで起きているようなのです(宇宙人が襲ってくるのも、日本だけなのでしょうか?)。
(注13)Wikipediaのこの記事に、「近代に入り、西洋での語義、すなわち英語の「love」やフランス語の「amour」などの語義が導入された。その際に、「1. キリスト教の愛の概念、2.ギリシア的な愛の概念、3. ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、現在の多様な用法が作られてきた」とあるように、「愛」は西洋起源のものと言った感じがつきまとっています。
そんなこともあって、『パトリオット・デイ』についての拙エントリの(2)でも書きましたが、「愛」「愛」と臆面もなく声高に言われると、クマネズミはどうも鼻白んでしまいます。
(注14)牧師は、「愛は、あなたの内側にあります」「愛は寛容で親切です」「不正を喜ばず、真理を喜びます」「すべてを我慢し、すべてを期待し、絶えることはありません」などと答えますが、「愛」の本質を捉えておらず周辺的なことばかりだとして、真治は、牧師から「愛」の概念を抜き取ることはしません。
★★★☆☆☆
象のロケット:散歩する侵略者
(1)黒沢清監督の作品ということで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、金魚が沢山泳いでいます。その金魚が一匹、網で掬われて、容器に移されます。
次いで、女高生のあきら(恒松祐里)が、金魚の入ったビニールを手にぶら下げて、道を歩いています。
そして、1軒の家に差し掛かると、「只今」と言って家の中に入っていきます。
しばらくして、「ワーッ」と言って女が出てきますが、また中に引きずり込まれます。
家の中はメチャクチャになっていて、壁に血が飛び散っています。
よく見ると、家人が何人か倒れていて、金魚は床の上に。
あきらの顔や手には血が付いていますが、そのまま家を出て、車の行き交う道路の真ん中を、血の付いたセーラー服を着て歩きます。
病院で。
主人公の鳴海(長澤まさみ)が、夫の真治(松田龍平)を見ると、雑誌を逆さまに読んでいて、「なるほど」と呟いたりしています。
鳴海は、「冗談はやめて」「何があったの?」と尋ねますが、はかばかしい答えは返ってきません。
医者は、「ご主人、こんな状態で道を歩いていました」、「あまり深刻にならない方が」、「奥様の支えがあれば、そのうちに正常に戻りますよ」と言うだけです。
2人は病院の外に出ます。
真治は歩き出しますが、すぐに倒れてしまいます。
鳴海は、「立てないの?面倒くさいわね!」と怒ります。
しばらくして、鳴海は「真ちゃんが私を裏切ったの」、「この間の出張、会社の女の子と行ったんだよね」、「今更ごまかせると思ったら大間違い」と詰め寄りますが、真治は「へー、なるほど」と受け流します。
次いで、2人は車の中。
真治が「でも、俺たち夫婦だよね」、「鳴海、俺のガイドになってくれよ、いろいろわからないところがあるから」と言い出します。
2人は自宅に戻ります。
TVで気象予報官が「日本は概ね晴れ」と言いながら天気図を説明すると、真治は、予報官の仕草を真似します。
他方で、鳴海は真治に、「会社どうするの?休むなら、自分で連絡してよ」と言います。
こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?
本作は、主人公の夫を含めて3人の日本人が、宇宙からの侵略者に乗っ取られてしまうというところから始まります。主人公は、なかなか夫の異変を飲み込めず、何とかして夫を元の姿に戻そうと努めます。残りの2人に取り付いた宇宙人は、ジャーナリストをガイドとして使って、侵略する宇宙人の本隊と連絡しようとします。さあどうなるかというところですが、興味深いのは、3人に取り付いた宇宙人が、人間から「概念」を吸い出して人間というものを理解しようとする点です。この「概念」の使い方に少々違和感を覚えましたが、まずまず面白い着想に基づいた作品と言えるでしょう。
(2)本作においては、宇宙人による地球侵略が描かれますが、その際の事前調査にあたって重要な手段となっているのが、人間から「概念」を奪い取りそれを吸収して、宇宙人が人間を理解しようとすることです。
クマネズミには、いろいろな意味で、この点が一番興味を惹かれました。
例えば、家を飛び出してきた鳴海の妹の明日美(前田敦子)は、真治に侵入している宇宙人によって、「家族」の概念を奪われてしまいます(注2)。そうなると、明日美は、姉の鳴海に対し急に他人行儀になってしまいます。
また、あきらを病院で監視している刑事の車田(児嶋一哉)は、天野という青年(高杉真宙)と女高生・あきらに侵入している宇宙人によって、「自分」と「他人」という概念を抜き取られてしまいます(注3)。すると、車田は、自他の区別がつかなくなってしまい、あきらが外に出ていくのを簡単に認めてしまいます(注4)。
それに、鳴海に仕事を依頼する鈴木社長(光石研)は、会社に現れた真治から「仕事」の概念を取り去ると(注5)、会社で仕事をしなくなり、子供のように紙ヒコーキを作って飛ばしたり、机の上に乗っかったりして遊び回ります。
でも、こうした反応はうまく理解できるでしょうか?
例えば、「家族」という概念を奪われても、それが「名辞」だけであり、まだ「姉妹」とか「親子」などの低位の概念が明日美に残されているのであれば、急激に鳴海によそよそしくなることもないかもしれません。
ただ、「家族」という概念を構成する下位の概念までもごそっと宇宙人によって持って行かれてしまえば、あるいは冷淡になるかもしれません。
でも、一体、どこまでの下位の概念までが「家族」に含まれているというのでしょうか(注6)?
それに、例えば、「家族」という概念が、「婚姻によって結びつけられている夫婦、およびその夫婦と血縁関係のある人々で、ひとつのまとまりを形成した集団のこと」であり(注7)、その全体がごそっと宇宙人によって奪われてしまうとしても、その家族の概念に付着しているはずの“家族というものは親密に交際するものである”といったイメージまでも取り去られない限り(注8)、明日美が鳴海に冷淡になることもないように思われます。
もっと言えば、「概念」によっては、その内実をはっきりと示すことが難しいものもあるように思われます。
例えば、「自分」と「他人」という概念ですが、Wikipediaで「自分」と「他人」を調べてみると、内容がない書き方になっています(注9)。そんな場合に宇宙人は、単なる「名辞」ではないとしたら、一体どんなものを奪うというのでしょうか?
「仕事」という概念にしても随分漠然としていて、一体どのような内実を持ったものを宇宙人は奪い取るのでしょうか?
それだけでなく、「仕事」の概念ならば、宇宙人が乗っ取った真治も、会社員ですから、その概念を持っていたはずです。宇宙人は、どうしてその概念を真治自身から抜き取らなかったのでしょう?そして、宇宙人が鈴木社長から奪い取った「仕事」の概念は、真治が元々持っている「仕事」の概念とどのような関係に置かれるのでしょう(注10)?
ところで、黒沢清監督は、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事の中で、「この映画の中で使っている概念は、自分たちにとっていちばん大切にしているもの、なんとなくその人がその人として社会の中で自分らしさを保ち続けていけるものというふうに位置づけました」「概念って知らないうちに自分自身を縛り付けている何か、なのかもしれないと、今回は想定しています」「人間の数だけ概念はあるんだと思いますね」と述べています(注11)。
となると、ここでアレコレ取り扱ってきました「概念」と、黒沢監督の考えている「概念」とは、どうも概念がまるで違っている感じもしてきます。
こんな「概念」に関するとりとめもなく中途半端な議論は、冗談話としてサテおくこととしましょう。
すると本作は、二つの物語から構成されていることが見えてきます。一つは、真治と鳴海の夫婦の物語であり、もう一つは、ジャーナリストの桜井(長谷川博己)を「ガイド」役として使う天野とあきらの物語です。
勿論、二つの物語は交錯するところもありますが、比較的独立した物語として作られているように思います。
前者では、冷え切った夫婦関係でありながらも、どうも言うことがはっきりせず、すぐに足元がふらついてしまう夫・真治を見て、放っておけないと思うようになってきたのでしょうか、鳴海は真治をなんとかして守ろうとし出します。
後者では、天野とあきらに取り付いた宇宙人は、地球を侵略しようとする宇宙人と、通信機器を組み立てて連絡をとろうとします。
こうした二つの物語は、それぞれなかなか面白い展開をした後、なんと「愛」という概念が絡んできて終盤を迎えます。
ただ、「愛」という概念によって様々なことに解決がついてしまう、という本作の描き方には、なんだか違和感を覚えてしまいます。何しろ、日本においては(注12)、「愛」という概念は、まだまだそれほど身近なものにはなっていないように感じられるからですが(注13)。
尤も、黒沢監督もそんなことは百も承知で、真治と鳴海は教会に行って、合唱団の少年・少女とか牧師(東出昌大)に「愛とは何か?」と尋ねますが、はかばかしい答えが返ってこないシーンを描いています(注14)。
そうなると、やっぱり、このエントリで取り上げてきた「概念」に纏わるクマネズミの議論は、どうやらお門違いだったということになるのかもしれません。
(3)渡まち子氏は、「絶望を描くかに見えて、今までにない“前向き”なメッセージを感じさせる内容に、黒沢清監督の新たな挑戦を感じる作品だった」として75点を付けています。
村山匡一郎氏は、「人間の顔をした侵略者。映画はSFサスペンスの外観を見せているとはいえ、演出はあくまで人間ドラマとしてある。この点にこそ黒沢映画の魅力がある」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
北小路隆志氏は、「他人から全てを奪うことを欲し、それが同時に奪われることでもある情動が「愛」であるとして、宇宙人が地球人から「愛」の概念を奪うとき、そこで何が生じるのか……。驚くべき結末を見届けてほしい」と述べています。
毎日新聞の高橋諭治氏は、「家族、仕事、愛といった人間の“概念”を奪う侵略者の暗躍は、いささか回りくどい印象を受けるが、黒沢監督はそこに深入りすることなく、映画的な快楽を優先」と述べています。
(注1)監督は、『クリーピー 偽りの隣人』の黒沢清。
脚本は田中幸子と黒沢清。
原作は、前川知大著『散歩する侵略者』(角川文庫:同作は、同じ前川氏の戯曲の小説化)。
(前川知大氏は、『太陽』の原作者でもあります)
なお、出演者の内、最近では、長澤まさみは『銀魂』、松田龍平は『夜空はいつでも最高密度の青色だ』、高杉真宙は『カルテット!』、恒松祐里は『くちびるに歌を』、長谷川博己は『シン・ゴジラ』、前田敦子は『モヒカン故郷に帰る』、満島真之介は『三度目の殺人』、児嶋一哉は『恋の罪』、光石研は『彼女の人生は間違いじゃない』、東出昌大は『関ヶ原』、小泉今日子は『ふきげんな過去』、笹野高史は『新宿スワンⅡ』で、それぞれ見ました。
(注2)ここらあたりの経緯は、概略次のようです。
両親に結婚のことをうるさく言われ、その家を飛び出してきた明日美が、真治に「義理の妹」と自己紹介すると、真治は「こんがらがってきたぞ」と困惑します。明日美が、さらに「皆、家族」と言うと、真治は「家族って?」と訊いてきます。明日美が、「真治さんは、義理の兄」、「鳴海は、私のお姉ちゃん」と答えると、真治は「なるほど。それもらうよ」と言って、明日美の額を指で突く真似をします。すると、明日美はその場に崩折れます。
ですが、このシーンの描き方では、真治に入り込んでいる宇宙人が、明日美が使った様々の「概念」の中で、いったいどれを抜き取ったのかよくわかりません!
(注3)ここらあたりの経緯は、概略次のようです。
あきらの病室を監視している車田が、電話で「自分はそう聞いています」と言っているのを耳にしたあきらが「刑事さん、「自分」って何?」と尋ねます。刑事は、「質問には応じられない」と答えますが、あきらは「「自分」のことわかっているのは「自分」だよね」と言うので、車田は「これ以上言うと、麻酔を使うぞ」と威嚇します。
次いで、あきらの病室にやってきた桜井と天野が病室に入ろうとするので、車田が「あんたは誰だ?」と尋ねます。それに対して、天野が「そう言うあんたは?」と聞き返すと、車田は「自分は自分だ」と答えます。
そして、あきらが再度「ちゃんと「自分」について教えてよ」と言うと、車田は「自分は自分で他人じゃない」「高卒のヒラの刑事で、大卒のエリートとは違う」と答えます。
すると、天野は「もらうよ」といって天野の額を指差すと、車田はその場に崩折れます。
(注4)天野とあきらが「行きますよ」と言って病室を出ようとすると、車田は「どうぞ。あなたたちは私なんだから」と応じて、彼らが出るのを認めてしまいます。
ただ、「自分」や「他人」という概念が頭の中からなくなれば、同時に「私」とか「あなた(たち)」ということもわからなくなってしまうのではないでしょうか?そしてそうなったら、「私」=「あなた(たち)」などと思いつかないことでしょう!
(注5)鈴木社長が鳴海に対して、「これはどういうこと?」「あなたの個性は要らないの」「これは仕事なの!」と怒っていると、真治が会社に現れます。鳴海が「仕事中!」と注意すると、真治は「仕事ってなんですか?」と鈴木社長に尋ねます。社長が「社長と社員との関係」と雑に答えるものですから、真治は「仕事ってなんですか?」「ちゃんとイメージとして頭の中にあるんじゃないですか?」「もっと鮮明に」と言い寄り、そして「それもらった」と言って社長の額に指を向けます。
このエピソードからすると、宇宙人が人間の頭から抜き取るのは、「概念」ばかりでなく「イメージ」もあるようです。でも、そんなことをしたら、「概念」よりももっと宇宙人の頭が混乱してしまうのではないでしょうか?
(注6)例えば、「果物」という概念の場合、すぐに考えられるのは「りんご」「なし」等の下位概念でしょうが、「果物」という概念を構成するのは何も「りんご」「なし」等の具体的な下位概念ばかりではないでしょう。例えば、「食用になる果実及び果実的野菜のうち、強い甘味を有し、調理せずそのまま食することが一般的であるもの」というのが「果物」という概念を構成する内容だとすれば(Wikipediaのこの記事によります)、そこには「果実」「野菜」といった上位概念と言えるものも含まれてきてしまいます。それに、例えば「りんご」という下位概念にしたって、「ふじ」とか「紅玉」などの沢山のさらなる下位概念の集まりです。
いったい、ある人間から「概念」を抜くということはどういうことなのでしょうか?
様々の上位概念まで抜き取ってしまうということであれば、もしかしたら、ある「概念」を抜き取られた人間は、それだけでたくさんの概念も一緒に抜き取られてしまい、何もできなくなってしまうのかもしれませんし、
抜き取った宇宙人の方も、余りに大量な情報を同時に獲得するために、大混乱に陥るかもしれません。
(注7)Wikipediaのこの記事によります。
(注8)ただ、「イメージ」は、個々の人間によってかなりばらつきがあるように思われます。人によっては、「家族」に対して酷くネガティブなイメージを持っているのではないでしょうか?
(注9)Wikipediaのこの記事では、「他人」について「自分を除いた人間」とされていますが、この記事では「自分」について「一人称として使用されることがある」としか書かれておらず、何も規定されていないも同然ですから、結局、「自分」も「他人」もわけのわからないものとなってしまいます。
(注10)もう一つ興味深い例は、次のようです。
外をふらついている真治が、見知らぬ大きな家の中に入ろうとします。
すると、その家の持ち主で引きこもりの丸尾(満島真之介)が現れ、「そこで何をしているの?」と質します。それに対して、逆に真治が「君はなんでここにいるの?」と聞き返すものですから、丸尾は、当然のように「“俺”の家だから」と答えます。それで、真治は「そうか、“俺”の家か」と言って家の中に入ろうとします。丸尾はそれを押し戻して、「ここは“俺”名義の家」と言い、「おじさんの名は?」と尋ねると、真治は「しんちゃん」と答えます。丸尾が、さらに「ここはおじさんの家じゃない」と言うと、真治は「問題は「の」だな」と呟き、丸尾が「それは所有の「の」のこと」と言うと、真治は「それもらうよ」と応じます。
ですが、このエピソードで宇宙人が抜き取るのは「の」のように思えるところ、「の」は単なる助詞ですから「概念」とはとてもいえないように思われます(尤も、「の」を奪われた丸尾は、引きこもっていた家から解放されて、外を出歩けるようになるのですが)。
(注11)でも、例えば、明日美にとっていちばん大切にしているもの、あるいは自分自身を縛り付けているものは、はたして「家族」なのでしょうか?そうかもしれませんが、他にも、それこそ「自分」とか「自由」などといったものも考えられるのではないでしょうか?
(注12)なぜか本作の事件は、すべて日本国内だけで起きているようなのです(宇宙人が襲ってくるのも、日本だけなのでしょうか?)。
(注13)Wikipediaのこの記事に、「近代に入り、西洋での語義、すなわち英語の「love」やフランス語の「amour」などの語義が導入された。その際に、「1. キリスト教の愛の概念、2.ギリシア的な愛の概念、3. ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、現在の多様な用法が作られてきた」とあるように、「愛」は西洋起源のものと言った感じがつきまとっています。
そんなこともあって、『パトリオット・デイ』についての拙エントリの(2)でも書きましたが、「愛」「愛」と臆面もなく声高に言われると、クマネズミはどうも鼻白んでしまいます。
(注14)牧師は、「愛は、あなたの内側にあります」「愛は寛容で親切です」「不正を喜ばず、真理を喜びます」「すべてを我慢し、すべてを期待し、絶えることはありません」などと答えますが、「愛」の本質を捉えておらず周辺的なことばかりだとして、真治は、牧師から「愛」の概念を抜き取ることはしません。
★★★☆☆☆
象のロケット:散歩する侵略者
“ユリゴコロ=拠りどころ”ということが無くなると、人間はいかに不安定になるのか?セットで見ると、なんとなくぴんと来る気がしました。
全く違う作品なんですがね。
いつもTBありがとうございました。
そうですか。それでは『ユリゴコロ』を見る必要がありますね。どうしようかと思っていたのですが。
AさんとBさんから採取した「家族」という概念が被っていても問題ないし、二つがピッタリ整合性合わなくても問題ない。同じ言葉でも人によって概念は異なるだろうから。
「家族」は何かと言われれば、共に住む人達で一般に血のつながりがある人だが、群れを維持する為に血の繋がりにこだわらない場合もある。というのが文字規定による「家族」だ。この家族の境界線は人によって大きかったり小さかったりするだろうし、血にこだわったりこだわらなかったり等もあるかもしれない。人それぞれ異なる境界線や特徴がある。その境界線の大きさや特徴が「家族」の概念ではないだろうか。それはとてもフワフワした物であるが、各人が個別に持っている物である。
逆に教会で規定された言葉による愛は発言者の心の中で特徴や範囲の境界線に結びつかない。だから「概念」ではないのではないか。
「同じ言葉でも人によって概念は異なる」との点ですが、もしそれが「同じ言葉でも人によって意味は異なる」ということを“意味”しているのであれば、人間同士のコミュニケーションが困難になってしまうことでしょう。ただ、「同じ言葉でも人によってニュアンスは異なる」という“意味”であるならば、よく理解できます。そして、「概念」というのは、「ニュアンス」ではなくて、「意味」の方ではないでしょうか?仮にそうだとしたら、「同じ言葉なら人によって概念は異ならない」と言うべきかもしれません。ですが、同じ共同体の中の人同士でも言葉が通じないことがママあります。その場合には、「基本的には、同じ言葉なら人によって概念は異ならない」と言うべきかもしれません。
また、「その境界線の大きさや特徴が「家族」の概念ではないだろうか」と述べておられますが、それは「家族」の「外延」と「内包」のうち、「外延」に焦点を当てているのであり、言ってみれば「ニュアンス」でしょうし、むしろ「内包」こそが「概念」だとも考えられます。
そして、特に、教会において牧師が「愛」について述べているものは、まさに「愛」の「外延」であって、それ故に「「概念」ではない」ように思われます。
ただ、こういう議論は、「自分たちにとっていちばん大切にしているもの、なんとなくその人がその人として社会の中で自分らしさを保ち続けていけるもの」を本作における「概念」としていると言う黒沢監督には、あまり通じないのかもしれません。
外延(具体例)の集合が内包(共通性)及び、その共通性からはみ出すその人独自の非共通的な部分を規定するのではないか。と書いてても言葉に埋もれてよく分からない。
もっと単純にAさんとBさんに「青」を思い浮かべてもらった時、両人が思い浮かべる「青」は普通に考えれば同じ「青」ではありえない。言葉の「青」は一つに規定されるけど、頭の中で思う「青」は無限大のバリエーションがあるから。でも、思い浮かべられる。異星人が採取していたのはそういった物ではないか?言葉ではなく、言葉になる前の観念。逆にその言葉を生みだす元になった物。
とりあえず聖書の愛はそういう所から遠そう。
「AさんとBさんに「青」を“思い浮かべて”もら」うという場合、確かに、その「青」には「無限大のバリエーション」があるでしょうが(「外延」)、どれもに共通する内実があるはずで(「内包」)、それが「概念」であり、「言葉の「青」は一つに規定される」ことになる、と思います。「言葉ではなく、言葉になる前の観念。逆にその言葉を生みだす元になった物」も「無限大のバリエーション」があるでしょうが、共通するものがあるはずで(そうでなければ、コミュニケーションができないでしょう)、それが「概念」ではないでしょうか?「聖書の愛」というか、本作の牧師が取り上げていたのは「無限大のバリエーション」の方で、それは「概念」とは異なりますから、宇宙人は抜き取らなかったのではないかと思います(元々、宇宙人が「無限大のバリエーション」の方を「採取」しているのだとしたら、たちまち宇宙人の脳は、整理がつかずにパンクして大混乱に陥ってしまうのではないかと思われます)。