駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

厳しさを知る

2012年05月26日 | 

 

 アイルランドは思ったよりも寒かった。メキシコ湾流のおかげで、冬の寒さはさほど厳しくないようだが、春は肌寒く感じた。夏も摂氏20度程度の気温で、暑いということはないらしい。

 ダブリンは紛れもない都会なのだが、三十分もドライブすると人家がまばらな緑野に出る。農地ではなく牧草地のようだが、家畜をほとんど見かけず、美しいけれども閑散としてどこか寂びれた感じがした。ダブリンから更に西へ、島を横切りゴールウエイへ近づけば土が薄くなり石が増えてくる。所々にこんもりとした森があるが、丈も低くまばらで昼なお暗いような深く大きなものではない。荒野と呼んだ方が相応しい風景になる。

 緑が目に美しいけれども不安定な天気と春なお冷たい風に、実は厳しい土地なのだと知った。五百年以上にわたり何度も英国からの自立を求めて戦っては破れ、ついには十九世紀の大飢饉で数多い人が餓死し多くの人が移住していった国土、その印象は美しいが厳しい土地だということだ。

 美しい緑と妖精の住む国の背後の厳しさ、それを奇妙な言い方だが新鮮に感じた。それは厳しさが絶えて日本に感じられないからだろう。

 感じないのは必ずしも厳しさが日本にないからではあるまい。現実を直視する力が萎えているのだ。特にマスコミの大半は、厳しい現実を微妙な陰影にまぶしてまやかしてしまう。

 本を読み旅をして人と話をする、人生に欠かせないことと感じた。

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刺青の問題

2012年05月25日 | 町医者診言

    

 また橋下市長が特異な主張を繰り出している。私は仕事上、人知れぬ刺青の存在を知る機会が多いが、刺青があるからどうのこうのとは一概には言えないと感じている。それに刺青と言っても色々ある。部位大きさ構図は様々で、見事な倶利伽羅紋紋からどうみても中途半端なものや、刺青を消そうとした跡など、さまざまな事情が伺われる。勿論、刺青を見せて人を脅すような輩では愚か者の印と言うべきだが。

 「身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始め也」。誠にその通りだ。しかし、古傷を暴いて査定するのはいかがなものか。色々な事情があってということもあるし、若気の至りということもあるだろう。刺青は消して元通りにすることが難しい。だからこそ、表沙汰にして烙印を押すのは行き過ぎに感じる。大体公務員はけしからん、民間企業なら宜しいというのはどういう理屈か、理解しがたい。

 私は刺青の意味合いや風習に詳しくはないが、刺青のある人を沢山見ているので、その経験から大阪市職員の調査や申告強制には違和感を感じる。まあ医者に掛かる時は、お世話になるという気持ちもあるのだろうか、刺青があるから怖いとか常識がないとかいうようには感じない。以前通院していた倶利伽羅紋紋の親分は、見るからに強面で背広を着ていても凄味のある人だったが、話せば穏やかで看護師になぜか人気があり、香港辺りに博打に行った帰りなど、お土産を頂いたこともある。

 どうも橋下氏の主張は極端鋭利で過ぎると感じる。正面切って反対しにくいことを金科玉条というか水戸黄門の印籠のように掲げて人を峻別する手法は胡散臭く危ういと思う。

 勿論、私は刺青のある人の肩を持つわけではない。唯、今真っ当なら差別せず受け入れる寛容の心が、社会の知恵と申し上げたい。

 

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私も言ってみたい

2012年05月24日 | 診療

    

 高血圧で当院に通院中のSさんは85才、夫君に先立たれ子供達は独立し一人暮らし。まだまだ頭脳は明晰なのだが、いかんせん膝が痛くて長い距離を歩くことが出来なくなってしまった。総合病院の整形外科を紹介したのだが、手術の適応はないと判断したらしく、投薬での治療となった。

 どうも余り薬が効かないようで、Sさん受診する度に「痛い痛い、なんとかなりませんか」。と訴えたらしい。担当の副部長に「これは治りません」。と最後通告を受けてしまった。

 月に一回受診する度に「治らないんですって、でも薬は呉れるのよ」。と無念そうにひとしきり訴えられる。昨日も「こんなことになるとは思わなかった」。と大きなため息を残して帰られた。私は心の中で、否それはしばしば起こることなのですよ、と思いながら「痛くて、大変ですね。どうぞ、ぼつぼつやって下さい」。と答える。Sさんは勿論、私に名案がないのを知っているので、一通り訴えると帰られる。

 これは受診の度、擦り切れて溝が滑るレコードの様に繰り返される会話で、私もくたびれていたり、患者数が多い時などは「色々、言ったって治りませんよ」。と言いたくなることもある。勿論、話を聞くのが私の役回りで、それは禁句なのは承知なので言わないけれども。

 残念なことに現実は厳しく、病変は少しずつ進み、痛みが軽くなる頃には歩けなくなってしまう。その時にこんなはずではなかったと嘆く頭脳が残っているのが、果たして幸運なのかどうか。本当は「痛い痛いと言いながら通ってこられるのは、良い方かもしれませんよ」。と申し上げるべきなのかも知れない。

 「痛みや苦しみが去るように祈るな」。というユダヤのことわざを思い出す。

 

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悲しい目

2012年05月23日 | 身辺記

   

 五月が誕生月で十五歳になる。ブログを始めた頃には同年輩であった番犬トムは、4年の間にあっという間に私を追い越して、今では超高齢者の域に達した。

 帰宅するとふらつく足で出迎え、ご主人に挨拶をし足元に並んで座ってくれるのであるが、私を見つめる目が微かに白濁してきている。犬にも白内障があるのだ。犬に老いの自覚や死の恐怖はないらしい?のだが、どうもその眼が憂いを含んで悲しげに見える。耳も少し遠くなったようで、ドアの開く音でムックと起き上がるのだが、どうも音の方向が直ぐには分からないらしい。

 薄く白濁した彼の眼を見返しながら、果たして彼の犬生はどうだったのだろうかと、ご主人とご主人の家族に忠たらんとする他には雑念のなかったと思われるトムを思い遣る。

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エントロピーは感じられる

2012年05月22日 | 小考

    

 鍛冶屋の槌の音は暫しも休まず心に響き、何かを作っている感じがする。これは恐らく、鍛冶屋の仕事の知識があるからというよりは、自然にはない規則性や動きから何か仕事がされているのを人間が感得するからだろう。勿論、間欠泉とか自然にも規則正しい音はあるが、序破急があって構成的な形を感じさせるものはない様に思う。

 なぜこんな事を書いたかというと、駅前開発で左隣で家を壊し右隣で家を建てているからだ。タオル一枚と丁寧なご挨拶で、騒音を受け入れたのだが、心音や肺の呼吸音が聞こえにくくて困る。月に一回の患者さんは喧しいですねという感想で済むが、毎日の身になってみて下されと愚痴の一つも言いたくなる。壊す方は三週間もすれば片付くと思うが、建てる方は三ヶ月以上掛かるらしい。

 壊している方からは不協和音というか出鱈目なグワーゴージャーと言った音が聞こえ、建てている方からはトントントン、カンカン、ザッザッザ・・。とという規則的で、強弱があっても順序立てた音が聞こえてくる。聞こえてくる方向は反射があって以外にどちらからの音とはっきりしないのだが、音の内容からどちらからの音か想像が付き、確かめてみて間違っていることは殆どない。

 自然の流れに逆らって仕事を注入してエントロピーを高める作業は生物特有?のものらしく、それが生存に繋がるせいか、我々はそうした作業から発する音に親和性を持っているようだ。

 勿論、悪魔は必ず暗躍して、我々に破壊する喜びも教えたので、せっかく苦心して作り上げた砂浜の城を踏みつぶして逃げる悪が居る。残念ながらそれは男の専売特許と言うわけではなく、破壊の音を好む美女も居るようだからおっかない。

 スカイツリーの印象は美しいだが、その背後によくこんなものを作り上げたなという感慨も隠れているだろう。

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