駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

表現を解釈する

2014年05月27日 | 小考

             

 幸い夜半の雨が上がり、傘なしで家を出られた。昨日は土曜日の運動会の代休で休みだったようだが、今朝は何人かの小学生とすれ違った。道すがら緑が濃くなった新緑を見ながら考えた。

 集団的自衛権行使は解釈変更で可能と主張しながら、次の瞬間には戦争はしないと見得を切ったり、憲法は押し付けられたものだから自主制定憲法にしなければならないと訴えたりするのはなぜだろう。なんだか滑らかのようで引っかかる所がある表現と感じる。どうもそれは、そう表現すると成る程と思う人が増え、反対しにくい雰囲気が醸し出されると考えているからではないかと思われる。

 戦争はしない、勿論そうだろう。戦争がしたいなどという人は一般人にはまず居ない。戦争はやむを得ずと、始められるものだ。「戦争はしない」という殆どの人が首肯する表現を、頷かせるために瞬時に切り替えて使える人は名優かもしれないが、現実世界に責任を持つ人の言葉とは思われない。任期が終われば、事態が変われば、あの時の真意はと口から出た言葉の解釈の変更を聞かされては堪らない。

 押しつけられたかどうかは、議論百出で結論は出ないだろう。唯、押しつけられたと表現すれば変えた方が良いと感じさせることが出来るかもしれない。いずれにしても現憲法のどこを改変しなければならないかを言わないで、押しつけられたに力点を置くのは奇妙だ。正直に憲法第九条が気にくわないと主張すればよいと思う。

 こうした耳障りの良い表現でとにかく関門を通過させようとする手法は豊かな実りをもたらさない。正面から真意を隠すことなく、正々堂々と議論しないと、厳しい現実に立ち向かって生き延びて行けないひ弱な国になってしまう。姑息な懐柔や慰撫は衰弱をもたらす。

 恐らく多くの国民はこうした言い回しの絡繰りに気が付いていると思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする