毎月第2木曜日は寂聴さんのエッセー「残された日々」が掲載される。8月13日のには、つぎのように書かれていた。「泳げない人間が海に落ちて、必死に手足を、海中に振り廻しているいるような一生であったと思う。といって、では自分で生きてきたのとは違う道があったのかと思いめぐらすと、そんなものはどこにもない」
これは私にとっては思いがけない言葉だった。目標を定めきれずに、また意志することもせず、その時々の風潮に流されるように生きてきた私である。凡人の私ならいざ知らず、大方の人が一つを極めたと認める寂聴さんの言葉とは思えない。だが私にとってはどこか慰められる言葉だ。
さらに「ああしか生きられなかったのだと、自分の過去を回想する時、犯してきた人道の間違いも罪の罰も、すべて老いの一身に受け止めて、いさぎよくあの世の地獄へ堕ちようと思い定めてきた」と続きます。「ああしか生きられなかった」というのは、やり切ったという寂聴さんの自負なのだろう。
人は間違うものであり、そしてたがいに迷惑をかけながら生きてゆくものだ。寂聴さんとて同じであったことは、自身の告白により大方の人が知るところだ。それにしても「いさぎよくあの世の地獄へ」とはなんたる宣言か。親鸞の「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」を思い起こさせる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます