まずウアラル市へ私達を受け入れてくれた学生と共にバスで移動する。南米西岸は地形的には、砂漠~平野~アンデス山脈に向かって縦長に続く。貧民街を抜け、砂漠地帯をエンエンと通り辿り着いたところは日系協会。診療所。インカ学園 診療所は入院施設はないものの一通りの医療器機は取り入れられていたが、待合室には数人の人影はあったけれど「見学者が来る」からかガランとしていて利用頻度は少なさそう。(薬局は売店も兼ねていた)
次いで同敷地内にあるインカ学園訪問。幼稚園から高校まであり、皆制服姿で身奇麗だと思ったらヤッパリ私学で、授業料を出せる子供達だけらしい。日本から派遣されて以来ズット留まっている中年の女性教師が学内を案内してくれた。園児達ははにかみ、小学生はテスト中で、中学の男児達は体育館でダンスをしており 高校生は文化祭の準備とかでクラスの後方に「SOKUSEKI」と張り紙してあった。ジャンバーを羽織っていた1人の生徒がクルリと回ると背中にも同じ字体で書き込みがあり炎はたぎっていた。足跡の説明を受けた筈だが思い出せない。(生徒全員なのか彼のみなのか?確認し忘れた)
その後再度バスに乗り日系の墓地訪問となった。道路は砂埃が舞い、暑いので窓を開けようとするが異臭がする。治安も悪いとの事で「トヨタ」と書かれた中古車らしい先導車に守られての移動だった。 墓地は山肌に沿った眺めのいい位置の筈だが日本のように緑はなかった。四面の両サイドが升目に区分されており多分各世帯?の墓になっていた。花束、折り紙などささやかに備え、一人づつ焼香をした。各祭壇に近づき思わずご苦労様でしたと声をかけると込み上げるものがあった。(中央の慰霊碑には救霊と書字されていた)
昼食は墓地から再度移動して民家でご馳走になった。2世にあたる宮脇さんというお宅で大きな農園を経営している篤農家だった。彼は日本語で挨拶をしたがチョット危ういところもあった。 こういう時接待の場として使われるのだろう。屋根つきの庭にテーブルとイスが設えてあり大人数でも対応できるような作りになっていた。当地のご馳走である豚の蒸し焼きとローストチキンと野菜、フルーツ、ドーナツ様のおやつをタップリ戴き、帰りには割安でミカンを沢山分けてもらった。(豚の蒸し焼きは前日から仕込みをされていた。我々の到着後バナナの葉の蓋を取り除くと、底に蒸し焼き肉が現れた)