玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

71)学校・日系墓地訪問

2006年10月04日 | ピースボート世界一周

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 まずウアラル市へ私達を受け入れてくれた学生と共にバスで移動する。南米西岸は地形的には、砂漠~平野~アンデス山脈に向かって縦長に続く。貧民街を抜け、砂漠地帯をエンエンと通り辿り着いたところは日系協会。診療所。インカ学園Peace_boat_826 診療所は入院施設はないものの一通りの医療器機は取り入れられていたが、待合室には数人の人影はあったけれど「見学者が来る」からかガランとしていて利用頻度は少なさそう。(薬局は売店も兼ねていた)

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 次いで同敷地内にあるインカ学園訪問。幼稚園から高校まであり、皆制服姿で身奇麗だと思ったらヤッパリ私学で、授業料を出せる子供達だけらしい。日本から派遣されて以来ズット留まっている中年の女性教師が学内を案内してくれた。園児達ははにかみ、小学生はテスト中で、中学の男児達は体育館でダンスをしておりPeace_boat_837 高校生は文化祭の準備とかでクラスの後方に「SOKUSEKI」と張り紙してあった。ジャンバーを羽織っていた1人の生徒がクルリと回ると背中にも同じ字体で書き込みがあり炎はたぎっていた。足跡の説明を受けた筈だが思い出せない。(生徒全員なのか彼のみなのか?確認し忘れた)

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 その後再度バスに乗り日系の墓地訪問となった。道路は砂埃が舞い、暑いので窓を開けようとするが異臭がする。治安も悪いとの事で「トヨタ」と書かれた中古車らしい先導車に守られての移動だった。Peace_boat_855 墓地は山肌に沿った眺めのいい位置の筈だが日本のように緑はなかった。四面の両サイドが升目に区分されており多分各世帯?の墓になっていた。花束、折り紙などささやかに備え、一人づつ焼香をした。各祭壇に近づき思わずご苦労様でしたと声をかけると込み上げるものがあった。(中央の慰霊碑には救霊と書字されていた)

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 昼食は墓地から再度移動して民家でご馳走になった。2世にあたる宮脇さんというお宅で大きな農園を経営している篤農家だった。彼は日本語で挨拶をしたがチョット危ういところもあった。 Peace_boat_868 こういう時接待の場として使われるのだろう。屋根つきの庭にテーブルとイスが設えてあり大人数でも対応できるような作りになっていた。当地のご馳走である豚の蒸し焼きとローストチキンと野菜、フルーツ、ドーナツ様のおやつをタップリ戴き、帰りには割安でミカンを沢山分けてもらった。(豚の蒸し焼きは前日から仕込みをされていた。我々の到着後バナナの葉の蓋を取り除くと、底に蒸し焼き肉が現れた)

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70)移民政策から百年余

2006年10月02日 | ピースボート世界一周

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 11月4日ペルーには昼カヤオ港に上陸し、2泊3日の旅程となっていた。11コースのツアーが組まれており、当夜は「伝統的なディナー、舞踊ショー」と、一泊を含む「ペルーの日系社会訪問と交流コース」をとった。他に空中都市マチュピチュ、ナスカの地上絵遊覧飛行、インカ文明探報等がありいずれも好評だった。(日秘文化会館前の歌碑。はるばると大海原を乗越えて ペルーの土地に鍬を打ちこむ)

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 ツアー申し込みの手引きに交流コースの要約が記されていた。移民開始から100年を経ていまでは4~5世まで誕生している。世代交代が進んでいる中で親達の苦労を知る2世達、ペルー社会の中で日系人としてアイデンティティを確立している若者達。資料館で移民の歴史を学び、日系の施設訪問や思いを本音で語ってみませんか?に心動かされたのだった。(日系人墓地。前日に儀式があったようで花は新鮮だった)

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 それらに先立って、「GET Teacherに迫ろう」コーナーで、N・ペレス(祖父が沖縄から移民した3世でペルーの経済危機の際?カナダへ移住) は我が家の移民の歴史にも触れていた。又洋上図書コーナーで乗客の寄贈になる本で、日本へ劇的な帰還を果たした後、程なくブラジルへ渡った小野田寛朗氏の開拓の記録と、奥様自身が大いなる決意を持ってブラジルに飛び込んだのち、艱難辛苦を2人で乗り越えた様子など書かれている2冊の図書は、移民とりわけ1世の苦労を思わすのに充分であった。(宿泊する夜グループに分かれて話し合いをする。日系人は勤勉で成功者が多く教育熱心のようだ。参加者達は高学歴者で意見もハッキリしていた)

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 現在、逆移民として彼らの子孫が日本へ戻り困難な状況にある。今回は日系人墓地、成功者である2世の家(広大な農園経営)での昼食Peace_boat_889 日本の寄贈になる診療所や現地の子供達も入れる学校、文化継承やスポーツを楽しめる施設、心身障害児の通所施設、移民の歴史を展示した資料館、日本では悪評の「武富士」会長が寄贈した「日秘文化会館」で1,2世との通所施設(Day Care)での交流、同じく機器の寄贈により日秘新聞を発行する新聞社訪問など多彩であった。順次記してみたい。(学校は幼稚園から高校まであり日系に限らず開放されている。現地の青年達は沖縄のエイサーの練習中で本来ならば一緒に夕食を摂る筈であったが、練習が長引き結局自主見学に留まった)

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