間の悪い時期に風邪をひいた。3週間後には長野からの客人を向かえ、翌日はウォーキング企画者主催の武蔵野散策に参加する手筈になっていたのだ。何とか治すべくいつになく真面目に服薬し、後半は点滴に通ったけれど状況は増悪するばかり。遂に降参し自分から願い出て入院した。
1週間発熱が続いた体は肺に見事な肺炎像を映し出し、夜通し続くイヤラシイ咳は肺炎に留まらぬ疑いをもたらした。主治医が家族に説明をするから呼べという。夫は兎も角、息子は昼間呼び寄せることは余程の事でなければ不可能だ。医師は肺炎の治療は自分がしそれ以上のことがあれば同業者で、大学にいる私の息子に引き継ぐと考えていた。私は説明を受けたデーターを来院叶わぬ彼に正確にメールし、彼の願う検査の追加なども主治医に伝え、病院は答えてくれた。(ウォーキングを終えて京都から取り寄せた弁当を戴く。昨年の本日はK氏はオーバーランドツアーでカスバの近くにいて、こんな記録を残していたと読んだ)
私をよく知る院長が病室に入ってきて又無理したんでしょうと半分からかう。実はこの病院は元の職場で色々無理を聞いてもらえたのだ。。10日には退院したいという私の希望に沿って、2週間の入院で大方の症状が引き、悪性のデーターは幸運にも否定されたので退院となった。来院できない息子も私からのデーターの報告を心待ちにしていて喜んだ。彼にはこれで2度目の心配をかけたことになる。40前後の主治医は、退院には早いけれど1週間は真面目に内服してネと念を押し、「僕も名医でしょう?」とニコッと笑った。
退院3日目に船友を我が家に迎えた。勿論彼女はそんなことなど露知らない。私も自分の体調といつの時点でダメおしを出さなければならないか、日にちが押すほど微妙であった。最悪でも外泊で切り抜ける手もあると覚悟はしていたけれど。その夜はおしゃべりに花が咲き、翌朝武蔵野散策へ向けてリュックをしょって出かけた。林の中では大事に至らず納まってくれた肺に、感謝の印に新鮮な空気を一杯届けた。そこでは又更に大きなおしゃべりの花が咲いたのは言うまでもない。(下船間近には大きな布に思い思いのメッセージを書き上げた)