玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*納棺夫日記の著者

2018年06月11日 | 捨て猫の独り言

 奇妙なことが起きた。初めての行為だったが、新聞の意見広告を通りに面した生け垣に吊るした。国会前に集まろうの呼びかけだ。それが小雨の日にはがされて、ていねいに丸められて真下におかれていた。乾かしてシワをのばして吊していたところ、今度は縦二列に破かれてひらめいていた。(コヒルガオ、ドクダミ)

 

 親鸞の宗教に関心を抱く作家たちへの聞き書き集を読んだ。中でも「納棺夫日記」の著者である青木新門氏のものは、私の親鸞理解に役立った。映画「おくりびと」について、青木氏は強調した宗教と永遠が描かれておらず、着地点が違うから原作という文字をタイトルからはがしてくれと身を引いたという。

 親鸞には生と死の中間みたいなところに、あえて言えば「中有」という世界があって、そこを「第三の視点」として、その視点から生と死を客観的に見つめたはずだと思えてならないと言う。第三の視点に移行してしまった時、あらゆる生命が光って見えるという体験が生じ、あらゆるものに感謝したいという現象が成立してくる。

 親鸞の座もまた自我の座を否定した第三の視点と言える。「僧」にも「俗」にもスタンスを置かない眼から人びとを見つめてゆくともう善人も悪人もない。自らの生死のすべてを委ねて救いとってもらうという発想は自我の思想からは決して出てこない。親鸞には「とわのいのち」と「ふしぎなひかり」という志向性があり、阿弥陀如来の志向性そのものを授かって生きるという信心があった。

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