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あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

旧下鶴間宿って??

2017年10月28日 05時10分54秒 | 歴史散歩
2017.10.5、その日は素敵な秋晴れでした。自転車で走りたいけどいい感じの目的地がない。で、思いついたのは自転車で行こう!book-off何軒行けるかな?というしょうもない計画です。小田急相模原から自転車で行くなら??8軒ほどが自転車圏だけど、さすがに自転車でコンプリートは無理なので、半分の4軒に設定して、どうせなら最短コースで回ろうと計画して我が家をスタートしました。
コースには今まで1度も通ったことのない道も含まれてます。その道は坂を下ってすぐ登る谷筋を横断するように走ってました。普通は自転車で下り坂&上り坂の道は避けるもの。だからその道は25年もうちの自転車圏なのに走ったことなかったんだよね〜。国道16号線を横浜方面に向かい走ってて西折れ。下り坂に入ってすぐ道路指標の石柱を見つけてストップ!
相州鶴間村宿ええっ!?ここ、宿場だったの??
もちろんメジャーな5街道ではない。それならさすがに知ってたはずよ。自分が住んでる近所なんだし。
道路を渡り自転車を止める。観察すると、塀の向こうに地図らしきものが見えた。これがトップ画像です。
新田義貞公鎌倉進撃路だそうで。ふああああ〜〜。かつてうちの近所を新田義貞が進撃してたのか〜??鎌倉の九品寺に新田義貞が鎌倉攻めの本陣を張ったと知り見に行ったこともある。古戦場跡も見に行きましたよ。JR南武線の分倍河原駅前の新田義貞公の騎馬像はとっても素敵です。しかし、うちの近所にゆかりの場所があったとはっ!!
一驚きして進撃図を眺めた後、敷地を確認したら、民家でした。民家の敷地内に立派なお宮がありました。
画像内の立て看板に大山阿夫利神社御分霊 大山祇大神 大雷神 高おかみの神 ということは、もしかしてこの坂を下がって上がる道はかつての大山道??うわ〜。ソレ知ってルゥ〜。
またまた一驚きしてから再出発。坂を下りて他の底の交差点で信号待ち。
と?道向こうに何やら古めかしい??あれってもしや??
高札場でした。速攻脇の駐輪場に自転車を停める。
かつての高札場の雰囲気を出すためか、高札が掲げられています。
高札とは? 高札は基本的な法令を板札に墨書し、庶民への法令の徹底を意図したものです。禁令の掲示は奈良時代から見られますが江戸時代に発達し、明治6年(1873)まで続きました。明治新政府は慶応4年(1868)旧幕府の高札を撤去し、新政府が定めた、いわゆる「五榜の掲示」を掲げさせました。
高札を掲示する場所を高札場といい、村では名主の家の前、村の中心や主要な街道が交差する交差点といった場所に設けられていました。
下鶴間には2箇所あり、そのうちの1箇所がこの付近にあったことが絵図から分かっています。
慶応4年の高札
一つ、切支丹宗門之儀ハ是迄
御禁制之通固ク可
相守事
一つ、邪宗門之儀ハ固ク禁止候事
慶応4年3月 太政官 明治元年は慶応4年。西暦だと1868年。
日本では明治5年12月2日(1872年12月31日)まで太陰暦を採用していたので、西暦とはズレが生じる。

明治3年の高札 火付盗賊人殺、あるいは贋金札を作り候者等、見聞次第早速それ最寄りの役所へ召し捕え、差し出し、又は〜〜。(後略)
庚午 十□月 太政官 庚午は明治3年の事。
高札場の画像の裏に写っている古民家が気になったので見学に。

大和市 下鶴間ふるさと館
利用案内
開館時間:10時−16時
休館日:月曜・火曜(ただし土日祝日の場合は開館) 年末年始(12/29-1/3)
入館料:無料
ふるさと館には、市指定重要文化財の旧小倉家住宅の母屋と土蔵が復元されています。

母屋は安政3年(1856)に建築されたもので、宿場の商家建築として圏内でも数少ない建物です。土蔵は前身建物の古材を用いて大正7年(1918)に再建された商家の付属建築で、一般に袖蔵と言われています。

では屋内見学。
上の画像左にあるのが土間の入り口。
左の模型の右下の建物が母屋です。

座敷。展示物は小倉家の板床で、文字や絵が描かれてます。中に安政3年の文字と、3本マストの黒船が描かれてました。

座敷の神棚。

土間の奥、道沿いの部屋はお店になってます。道はかつての矢倉沢往還道。大山道です。
小倉家は幕末の創建時から雑貨業を営んでいました。取り扱っていた商品の中でも、薬品・医療用品は、品揃え豊富だったものです。
現在残されている主なものとして、軟膏・丸薬の飲み薬・座薬・殺虫剤・注射液・石鹸・栄養剤・シッカロール・マスク・分娩用紙・染料・目薬・蚊取り線香など多岐にわたっています。

征露丸:ロシア(露)を征服する丸薬という名称から名付けられた。日露戦争の直前に発売されました。
当時多発していた兵士の脚気治療の治療薬として期待された正露丸ですが、脚気治療に効果はなく、多くの陸軍兵士が脚気で死亡しました。腹下しには効果が高い薬でした。

土間にかつての下鶴間村の模型が展示してありました。これは明治初頭に撮影された写真より起こした模様。

相模の国鶴間郷は戦国時代末に上・下二つに別れました。下鶴間村は公所と山谷・宿の3つに分かれていましたが、山谷と宿は合わせて目黒と呼ばれていました。
矢倉沢往還は江戸青山を起点とし、矢倉沢峠(南足柄)を通り、駿河で東海道と合流する道で、東海道の脇往還として重要な役割を持っていました。
また、大山道とも言われ、大山詣の人々が行き交う道でした。宿場には居酒屋・餅屋・質屋・染物屋などの商家や旅籠がありました。伊能忠敬の測量隊や渡辺崋山も宿泊してます。

訪問日は2017年10月5日でした。ふるさと館にはお月見飾りがありました。

2017年の中秋の名月は10月4日。その翌々日の10月6日が満月でした。中秋の名月と満月は日付が2日ズレています。
大和市域で見られたお月見行事は、縁側に台を設け、ススキを飾り、団子やその時期に収穫した芋・栗・豆などを供えたり、豆腐を供えるといったものでした。また月に供えられた団子などの供物を子供たちがゲームのように盗みに来るという風習がありました。しかし、この行為を咎めることはせず、半ば認められたものであったようです。
といった説明文が出してありました。
この日は思いがけず大和市の歴史散歩ができて楽しかったです。ちなみに、10月24日から12月10日まで近所の大和市鶴の舞の里歴史資料館では企画展があります。

今年の酉年につなんだ展覧会。晴れた日に行ってみたい。実はここも行ったことない。理由は下鶴間ふるさと館と同じ。谷筋にあるんだ。ここ。
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五重塔特別開帳

2017年06月25日 05時26分01秒 | 歴史散歩
2017.4.2訪問。
目黒川の桜洗足池の勝海舟夫妻のお墓池上本門寺今ココ)です。
池上本門寺も桜の名所ですが、この日の目的は別でした。池上本門寺春まつり 五重塔特別開帳(2017.4.1&2の2日間限定)
池上駅から徒歩で池上本門寺に向かう。

到着したら調度五重塔の解説が行われていました。
記事は6月23日に書いていて、既に2ヶ月以上経ってます。どこまで記憶を呼び起こせるか?不安ですが、頑張っておもい出してみる〜。

まずは池上本門寺のWEBにある解説文には五重塔:関東に4基現存する幕末以前の五重塔のうち一番古い塔である。
本塔のそもそもの発願は、のちの徳川2代将軍となる秀忠公の病気平癒祈願にあった。文禄2年(1593)のこと、15歳の秀忠公が悪性の疱瘡にかかり、一命も危うい容態に陥ってしまった。そこで、熱心な法華信者であった乳母岡部の局(のちに正心院)が、大奥より池上へ日参し、厚く帰依していた第12世日惺聖人に病気平癒の祈願を託され「心願が成就した暁には御礼に仏塔を寄進する」との念でひたすら祈った。その甲斐あって快癒し、将軍となった後、その御礼と、合わせて武運長久を祈り、慶長12年(1607)に建立、翌13年に上棟式を厳修した。
開眼供養の大導師は第14世日詔聖人、大願主が正心院日幸大師(岡部の局)、普請奉行は幕臣の青山伯耆守忠俊、棟梁は幕府の御大工の鈴木近江守長次、鋳物師は椎名土佐守吉次である。いわば幕府の御声がかりで建造された当時第1級の塔である。にもかかわらず、江戸建築が確立する前の桃山期の建立であるため、特に構造上は、過渡期の特色が濃厚である。桃山期の五重塔は全国で1基だけであり、文化遺産としての価値は極めて高い。
当初、大堂の右手前、現在の鐘楼堂と対の位置に建てられたが、直後の慶長19年(1614)の大地震で傾き、元禄15年(1701)、5代将軍綱吉公の命で現在地へ移築、修復された。
その後、数度の修理を経て、平成9〜13年、日蓮聖人立教開宗750年慶讃記念事業の一つとして、全解体修理が施され、全容を一新した。」
上の画像をご覧ください。中央に仏様たちが見えますね。1階は金箔が貼られ、極彩色が施されています。

客が多くてベストポジションから撮影できませんでしたが、柱も金箔で覆われてました。なんと!1階内部は塔ができた当初のオリジナルなんだって。

上の画像は仁王門から五重塔へ向かう道なんですが、実はこの道路は元禄の大修理の時に、もともと五重塔が建っていた場所から現在の場所に塔を引いてった名残なんだって。道路の幅が五重塔の幅ということですね。
む〜。この書き方だとわかりにくいか〜。
五重塔は移動する時に全てを分解して再度組み立てたわけでなく、1階はそのままに引き家で引っ張ったらしい。なぜにわかったか?というと、平成の大修理で1階には釘穴が1個しかないと気付いたからだって。一旦分解すると、そこに釘穴が出来る。再度組み立てる時には長持ちさせるために、別の場所に釘を打つからそれで判断できるとか?木造建築って実は凄い。長持ち。

この角度からだとひき屋で引っ張った道がわかるかな?

塔高29、37メートル。方三間五重塔。せっかくなので、五重塔の周りを回ってみた。どの角度から見ても美しい塔です。全体に赤い五重塔があったんだ〜。と、感動です。

そういえば、五重塔って何ぞや?の解説もありました。
五重塔は仏塔です。そもそもは、仏教発祥の地インドで、お釈迦様の遺骨を祀るために紀元前3世紀頃から造られはじめたストゥーパが起源です。
インドのストゥーパはお饅頭の形をしてまして、中国→朝鮮半島→日本と伝搬する中で、ストゥーパが形を変え仏塔になりました。ってかもう豪華な木造楼閣ですね。そもそもは石造でしたが、日本に到達し形を変えて木造へ。池上本門寺の仏塔は、五重塔ですが、他に三重・七重・九重もあります。実はこれらの塔にもストゥーパの名残がありまして、塔の上に立ってるピックの先みたいなあれ。そのとめ金になってる部分が半円のお饅頭の形をしてるでしょう?これがそう。言い換えると、五重塔で大切なのはこのとめ金みたいな半円のお饅頭と1階部分だけ。あとは飾りです。だから三重だろうが七重だろうが実は数はどうでもいい。そこは資金の差です。ぶっちゃけすぎ。
池上本門寺の五重塔は、国の重要文化財指定です。

五重塔の前に特設テントがありました。

特別ご開帳限定のお守りと、限定のご朱印状のテントです。

上の画像にお守りとご朱印のお値段が書いてありますので、ご興味のある方は参考に。今、ご朱印帳を持参して集めるのがプチブームだとか?日本人って昔っからそういうの大好きだよねっ。

ちなみに、本来ならば上の撮影ポイントから桜の海みたいな感じで、五重塔が見えたハズなんだ〜。2017年の桜は咲くのに時間がかかったからねえ。がっかりでした〜。

4月2日は春まつりが池上本門寺と塔頭のあちこちで開催されていました。明日はその様子を紹介します。
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白山神社の富士塚

2017年06月22日 05時21分09秒 | 歴史散歩
白山神社の金色の目の狛犬とあじさい祭り期間中だけ入れる富士塚が見たくて文京区にある白山神社へ。トップ画像の右下が富士塚です。

当日はあじさい祭り開催中で、境内ではジャズ演奏中。富士塚上りの行列に並びつつ、音楽を楽しむ。

なぜに期間限定でしか入れないのか?と思ったら、富士塚に上がると、近所の家の中が見えてしまうから。ご近所のプライベート保護のため、あじさい祭りの期間限定公開してるようです。
白山神社の富士塚は、たくさんのあじさいが植栽されています。



ようやく順番が回ってきて上りだしたけども腰が〜~っ!!階段がぁ〜〜!!
撮影してる場合じゃないや!みんな登るの待ってるんだからさ。

普通、富士塚は富士山の溶岩を使って、富士信仰のシンボルとして小高い山を作ってある。でも白山神社の富士塚に溶岩は見当たらないなあ〜。あるのかもしれないけど、あじさいを始めとした植物が多く植栽されていて、隠れてるのかも〜??
ちなみに、江戸時代にはどの富士塚の山頂からもかつては富士山が見えたんって。今は神社の敷地のすぐ外まで家が立ち並び富士山なんか全く見えません。ちなみに、現存する富士塚のうち、都内最古とされるのは、1789年の造られたと言う、鳩森八幡神社の千駄ヶ谷富士(渋谷区)です。
千駄ヶ谷の富士塚(2012年4月14日)の記事 こちらの記事に画像があります。ここは『ブラタモリ』でタモリさんも登ってたような〜?
なんと!都内には100か所余りも富士塚があるそうで。
私が他に登った富士塚は、品川神社さんの富士塚です。
サプライズな品川神社(2014年1月27日)の記事 こちらの記事に、品川神社さんの富士塚の画像があります。ここの富士塚は、明治に入ってからの造成。
白山神社の富士塚の山頂にある浅間神社の御社。
帰り際、ふと、富士塚の方へ目をやれば、富士塚があじさいに追われてました。

綺麗に見える場所はなかったのだけど、雰囲気は分かります?

角度を変えて。ギリギリまで民家が迫ってます。なるほど、これでは普段から富士塚に登り放題には出来ないですね。近所トラブル間違いなし!な環境に富士塚はある模様。
帰り道、東京メトロ南北線の本駒込駅近くの道路で発見。近所に緒方洪庵のお墓と江戸5不動尊の目赤不動があるのか〜。すんごく心惹かれたのですが、もう腰の痛さが限界で、お家買えるぅ〜〜。
永田町で東京メトロ南北線から半蔵門線に乗り換える。表参道駅下車。ホーム向かいにやってきたのは、クレヨンしんちゃんのラッピング電車でした!
久々〜。
 
慌てて携帯を出して撮影したのですが、腰が痛くて走れませんっ!あっちゅー間に出発しちゃいました。
帰宅後、お布団の上でゴロゴロしつつ柔軟をやってると、足を思い切りひねったら腰が『コキッ』と音がして、急激に痛みが消えた。もしかして骨がハマった??ラッキ〜!!
数日後、またまた柔軟してたらまたまた腰がコキってなってついに腰が曲がるようになりました!長かった〜~っ!!
毎月病院を受診したら体重測るんですが、5月と6月では3キロも変動ありました。減ったのはもしかせんでも筋肉な模様。私の筋肉返して〜~っ!!脂肪は返却不可で!
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明治大学に残る登戸研究所の戦跡

2017年03月26日 05時24分19秒 | 歴史散歩
旧陸軍登戸研究所、現明治大学平和教育登戸研究所資料館の展示室の見学が終了。質疑応答&トイレ休憩の後学内に点在する史跡を館長さんのガイド付きで巡りました。

まずは資料館の建物の前身から。上の画像が資料館の建物です。「陸軍登戸研究所第二科が研究施設として実際に使用していた建物で、航空写真から1937年〜41年に建設されたことが分かります。
この建物は戦後に「36号棟」と命名され、長らく明治大学農学部の教育施設として利用されていました。
資料館の前に井戸がありました。

この井戸も当時からあったもの。登戸研究所は丘の上にあり、水の確保は大変でした。後に研究所内で偽札作りが始まると、井戸では水がまかなくなり、丘の下に浄水場が作られました。これも現存してるそうですが、学外にある為見学会では見学してません。
資料館に隣接し、古い構造物が残っています。

かつての薬品庫です。通称「弾薬庫」と呼ばれる建物です。ただ詳細は不明とのこと。明治大学は丘の上にあります。小田急線がある北側が一番低く南に向って上り坂になっています。資料館は明治大学の南に位置してまして、隣接の薬品庫の上は、今は農学部の畑があるけども、陸軍登戸研究所時代に風船爆弾の実験をしていたとか。ついでのミニ知識で、現在専修大学になっている場所で、かつては電波兵器の実験をしていたんだって。なにしろ登戸研究所は11万坪もあり、明治大学が購入したのは5万坪ですから、周囲の土地に登戸研究所のあれこれの痕跡があって当然かもね。
説明板には「外観は台形ですが内部は奥行き約3、2メートル。間口は約2、7メートルの長方形をしており、天井までの高さは約3メートル。壁面にはスイッチやコンセント跡が見られます。
第一校舎の裏手にも同様の倉庫跡が残っています。」と書いてありました。
見学ツアーは資料館の近くへ移動。

今は空き地ですが、ここにはかつて偽札印刷工場がありました。5号棟と呼ばれていました。「残したいと努力したのですが、築造50年を超える木造の倉庫のような建物は、耐震性もなく保存を諦めました」と残念そうな館長さん。いつだったか取り壊す直前に新聞でそのニュースを読んだ記憶があって、行っておけば良かったなあ〜と後悔しました。
跡地にも説明板があった。
説明板:五号棟跡
「登戸研究所第三科で作っていた偽札の「印刷工場」(5号棟)の跡地。5号棟は、1941年撮影の航空写真からも存在が確認される、登戸研究所時代から使われていた最後の木造建築物でしたが、2011年2月、老朽化と新校舎建設のため惜しまれつつ解体されました」

偽札工場(5号棟跡)と偽札を保管する倉庫跡の26号棟跡(こちらも既に更地になってます)の奥に、倉庫跡があります。上の画像の道の奥にあります。現在は農学部が一帯を使ってるので、見学者の立入りは出来ません。かつての陸軍登戸研究所の航空写真と現在の明治大学キャンパスの航空写真を見比べると、この道も私達見学ツアーがいる道も、登戸研究所時代からあります。

上の画像は学生会館前に残る消火栓です。見学ツアーでは見てません。生田駅から資料館に向う時に撮影しました。
説明板発見:旧陸軍登戸研究所関連史跡 消火栓
登戸研究所時代に設置された消火栓です。明治大学生田キャンパスになった今も、当時と同じ場所に残る貴重なものです。すでに消火栓として機能しませんが、旧陸軍の☆のマーク(五芒星)が確認できます。現在は埋もれていますが、もとは図書館前に残る消火栓と同じ姿をしていました。」
館長さんいわく「研究所時代に設置された消火栓は大学内に2つ残っています。しかし学生会館前の消火栓は学生達が蹴ったり遊んだりした為、地面にめり込んでます。ので、綺麗な図書館横に残る消火栓を案内します」と言う事で図書館横の消火栓に移動します。
ちなみに、説明板に赤字でわざわざ「*貴重な戦争遺跡です。大切に扱って下さい」と書かれてるのが涙が出そうですね。運動部の大学生はあんまり昔の物に思入れなさそうだもんなあ。

図書館横の消火栓に到着。トップ画像がこの消火栓です。こちらの消火栓にも説明板がありましたが、学生会館前の消火栓とほぼ同じ。最後に「現在は埋もれている学食棟前に残る消火栓もこの消火栓同様、以前は同じ姿をしていました」だって。壊してしまったらソレまでなので大事にしてね〜。

こちらは図書館前です。現在は大きなヒマラヤ杉が並んでる場所ですが、登戸研究所時代ここは旧本館前の車寄せだった所です。なんとなく現存する道とカーブに名残りがありますが、そうと説明してもらわないと分かりません。

登戸研究所時代から既に70年が過ぎ、ヒマラヤ杉は大木になってます。
説明板発見:旧陸軍登戸研究所関連史跡 旧登戸研究所本館前一帯
登戸研究所の本館は、ちょうどこのヒマラヤ杉並木と現在の図書館との間に建っていました。
1944年(昭和19)年に撮影された写真でも当時の杉並木の様子が確認出来ます。また、写真背景足元に映る円形に囲われた車寄せへのアプローチも、そのままに近い形で植え込みとして残っており、この一帯は登戸研究所時代の名残りをもっともよく残す場所となっています」
説明板には登戸研究所時代の1944年10月に、三笠宮視察で本館前で撮影した集合写真が載ってまして、館長さんが「皆さんは三笠宮さまをご存知ですか?」との質問に、ツアー参加者が「今朝亡くなりました」と答える。
!!!!!ええ〜〜!!そうなの!?
三笠宮様は大正天皇の第4皇男子崇仁親王さまのことです。戦争の時代は宮様も軍に所属していました。
大学の正門へ移動。登戸研究所時代もここに正門がありました。ちなみに、正門前に向ケ丘遊園行きのバスが停まっていました。
正門近くにある動物慰霊碑へ。

実は上の画像は動物慰霊碑の裏側から撮影してます。正面から撮影した画像を帰宅後再生したら、完全逆光で真っ黒になってしまってて使えなかったの。残念。
説明板発見:旧陸軍登戸研究所関連遺跡動物慰霊碑
1943(昭和18)年、研究で用いられた実験動物の霊を慰めるために登戸研究所が建立しました。台座を含め、高さ約3メートル、幅約95センチ、奥行き約15センチの大kさは動物慰霊碑としては国内最大級です
敗戦後、軍により証拠隠滅を図られた登戸研究所ですが、この裏面に刻まれた「陸軍登戸研究所」の文字は、戦時中より登戸研究所がここに存在した事実を如実に語ります」
館長さんのエピソード紹介がありました。「この石碑を建てた費用は、1943年春、当時の首相兼陸相の東条英機から授与された陸軍技術有功章の副賞である金一封(当時の金額で1万円。現在の1000万円相当)が使われました。登戸研究所の前には日々実験動物が山のように積み上げられていたのを見たと近在方の証言があります。副賞を使い、実験動物の為に動物慰霊碑と実験事故で死亡した職員の為に弥心神社(現生田神社)を作りました」

という事で弥心神社に移動です。

説明板発見:旧陸軍登戸研究所関連史跡弥心神社(現生田神社)
「現在は生田神社といいますが、もとは登戸研究所が1943年(昭和18)に建立した神社で、研究(知恵)の神様である「八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)」を祀る「弥心神社」と呼ばれていました。
境内向って右手、1988(昭和63)年に元所員有志により建てられた「登戸研究所跡碑」裏面には「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」という句が刻まれています。これには、一度胸の奥にしまい込んだ研究所時代の記憶を、戦後数十年を経て再びこの丘に立ち、ようやく話し合う事が許された」という万感の思いが込められています」

こちらが説明板に書かれてあった「登戸研究所跡碑」の表面。

こちらが石碑の裏面。
館長さん「以上で本日の見学会のメニューは全て終了となります」
見学会主催の旅行会社の社員さんからも一言。「皆様おつかれさまでした。以上を持ちまして見学会は終了です。あと、関連書籍が欲しい方は、構内の丸善ブックセンターでお買い求めいただけます」
確か、大学内のブックセンターでは割引購入出来たと記憶。本屋の前にまずは腹ごしらえじゃ〜!!

めり込んだ消火栓のある学生会館の隣に食堂があり、一般の人も利用出来るとのこと。上の画像は本日のおススメ。すんごく安かったのは覚えてるんだけど、いくらだったかは既に思い出せない。300〜400円位だったかな?
学食の他にこんなお食事処もあるようで。



食事をしながら旅行会社のアンケートを記入。当初はお昼に見学会が終わるんだから、この後生田緑地へお散歩しよう!と計画していたのですが、頭を使い過ぎました。身体は元気だけど脳みそはど〜にもぐったり。もう帰宅することに。

見学会は2016年10月27日にありました。あれから5ヶ月。こんなに放置するつもりじゃなかった。でも見学会の記事が書けなかったのよ。ヘタれな自分。反省ですね。
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無理ゲーでした〜

2016年10月18日 05時52分11秒 | 歴史散歩
波除稲荷神社さんの次の目的地は、日本の近代海軍発祥の地旗山の石碑です。
が、ないわ〜。どこなんだぁ〜。
目印は水神社さんなんだが、これまた見つからないっ!
ええ〜??
………。原因が分かりました!
水神社さんも旗山の石碑も現在は築地市場の敷地の中にあった!!
地図見て分かったんですが…。なんと!!築地市場の敷地内のため、開放は平日のみ!
本日は日曜の為、旗山の石碑は見られません。なんてこったぁ〜。
………。築地市場が移転したら現在の築地市場の建物は壊すらしい。ならその後は見れるのか?現状、平日に再訪問するしかないみたいだが…。
あ。こっそり行けばいいと思うでしょ?ダメなんだよ。道路を封鎖して警備員さんが見張ってるの。
ちなみに。【秋山好古・真之兄弟と正岡子規 ぶらり江戸めぐり3】によりますと、
旗山の石碑は、日本の近代海軍の発祥の地で、明治5年(1872)、兵部省が海軍省と陸軍省にわかれ、幕府の海軍施設があったこの地に海軍省がおかれた。現在の築地市場の一帯は江戸時代、松平定信が老中退職後に隠棲した浴恩園と呼ばれた別邸があり、明治になってその築山に海軍卿(組織の長は太政官制のもとでは「卿」で、内閣制導入で「大臣」になった)の旗が掲揚され「旗山」と称せられた。
海軍省は明治15年(1882)に芝に移り、さらに霞ヶ関(現在の農林水産省や厚生労働省の敷地)に移転。
昭和12年(1937)、海軍発祥の地を記念して「旗山」の石碑が建てられ、築地市場の構内整備によって現在の水神社前に移設された。」
ちっ!見たかったわ〜。
ちなみに、訪問日は日曜でして、築地市場はお休み。築地場外市場のお店もほとんどお休みで閑散としています。知ってか知らずか、観光客や外国人の姿がまばらにあるのみです。まあ、私の目的は別ですから築地市場は素通りですが。
さてと?旗山の石碑は残念ながら見られなかったので、次行ってみよう!
さてと?目指すは秋山真之が入学した海軍兵科将校の養成機関海軍兵学寮跡の碑です。
どこだ〜??気持ちを上げて行かなくっちゃ!
 
築地といえば、高級料亭です。ダンナいわく、「かつてはあそこに政治家や財界人が日本の政治を相談してたんだよ〜」とか。
今は何つーの?この日本的な建物が悪目立ちしています。だってまわりは既に現代的な建物しかないんだもの。
先程、築地市場の前で地図を撮影したんだけども…。この角を左折して…。
あれ?

マ・マジか〜…。
海軍兵学寮跡の碑も見れない!もう確定しちゃった〜〜っ!!

なんと!現在工事中です!敷地にすら立入り出来ません。せめて歩道から〜とか思うじゃない?
無理!道がない!地図では分からないかもしれませんが、上の画像の右手にある道は歩行者が進めない道ですわ。
築地海軍物語と題し所縁の地を歩いてるのですが、参考書の【秋山好古・真之兄弟と正岡子規】の本を購入したのは、NHKで司馬遼太郎さん原作の『坂の上の雲』のドラマを放送していた頃でして、2011年1月発行なのですよ。もう5年も経っているからか、情報が古かったか?本来は病院の駐車場ゲート脇に碑が立ってるはずなのですが、ブルーシートとか…。
もうね。がっくり〜。
本によりますと?「海軍兵学校は、明治2年(1869)に旧広島藩邸跡に「海軍操練所」として創設され、翌年に「海軍兵学寮」と改称。その後、明治9年(1876)ぶ「海軍兵学校」と改名し、明治21年(1888)広島の江田島に移転した。そして移転後の跡地には、「海軍大学校」が創設された。
秋山真之は、東京大学予備門を目指し、明治19年(1886)現在の国立がんセンター中央病院の地にあった海軍兵学校に入学した。入港年目の在学中に江田島へ移転した真之は、故郷松山が近くなったと喜んだという。すぐ隣には海軍医学校跡の石碑もある。」
〜〜〜〜〜!!!
今、この記事を書いてて気付いた!国立がんセンター中央病院の敷地って事は、一端築地市場前の道へ戻って、がんセンター病院で石碑を探せばよかったんじゃん〜??分かりにくい地図作ってからに〜〜!!ち・ちくしょ〜!!

ちなみに、海軍兵学寮跡の碑があるのは、道路を挟んで新橋演舞場が目印。分かりにくいかもですが、上の画像が新橋演舞場。ホールの名前は有名なのに、建物がこんなそっけないとは…。

ちなみに、地図でグレーに塗られてる道は、地下。うね女橋と、築地市場から平坦な道を歩いてるのになぜか橋を渡ります。すんごく不思議。都会的。上の画像はうね女橋の手すり?路肩?のデザインです。
もうがっくり疲れた〜。あ、コンビニ発見!今年は10月の初旬まで半袖が必要で30度超える日もありました。9月25日も暑くて、コンビニで飲み物を購入し店の外で一気飲み。
さてと?東京メトロ東銀座駅はどのあたりだ?

東銀座駅の最寄りには、歌舞伎座が!!
新橋演舞場と歌舞伎座ってこんなに近かったんだ〜。ってか、歌舞伎座の建物って前と見た目あんまり変わってないよね?
あ。地下鉄の出入口発見!

ふわっ!!何これ〜〜!前来た時はこんなのなかったけど???

せっかくなので見学する。すんごく面白かった!散歩の後半が散々だっただけに気分が上がるわ〜。

ちょうど訪問したのが千穐楽の日でした。た、楽しいっ。疲れてる場合じゃないわ〜。

さて、とびとびに9月25日の散歩を連載しましたが、これで最終回です。
メジャーでない石碑巡りだったので、散歩を後回しにしてたのが失敗。下調べをもっとやってから散歩に出かけるべきだと反省しました。まあ、本で紹介されている散歩コースはまだまだあるので、次回秋山好古・真之兄弟と正岡子規 ぶらり江戸めぐり3を決行する時は気をつけよう。反省した!
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築地海軍物語

2016年10月16日 05時59分58秒 | 歴史散歩
東京が江戸だった頃、現築地市場に隣り合う浜離宮恩賜庭園は、徳川将軍家の別邸でした。そもそもは徳川綱重(甲府藩主)の下屋敷で、綱重の子が6代将軍徳川家宣になり、将軍家別邸として大幅に改修され整備されたとか。それが幕末になり幕府海軍伝習屯所になりました。
これをふまえて、浜離宮恩賜庭園に水路を挟んで所在する築地市場ですよ。
江戸が東京になった頃、築地には海軍の主要施設が多くありました。司馬遼太郎の『坂の上の雲』NHKのドラマでは、海軍に入った本木雅弘くん演じる秋山真之が、海軍兵学校で同級生とカヌーレースしてた場所ですね。ってか、『坂の上の雲』では早々に秋山真之くんは築地から広島…おそらく呉かな?(広島の江田島でした:10/17訂正)既に『坂の上の雲』の小説をbook-offに売ってしまったので確認出来ないんですけども。しかし在りし日の海軍施設の面影がなんと現存してるっぽいんですよ。『秋山好古・真之兄弟と正岡子規 ぶらり江戸めぐり3』の本に掲載されている【築地物語】の散歩コースによりますとね。
ってな事で、聖路加病院から移動です。

昨日の記事から今日回る辺りを地図の切り抜きました。分かります?聖路加病院は地図の中央上部にあります。

目指すのは海軍経理学校の碑なんですがね。この辺りには日本はじめて物語的なあれこれが点在してまして…。早速石碑見つけた!
電信創業の地って事らしい。〜〜〜〜ン〜??
何やら記憶が刺激されたわ〜。電信創業の地って、横浜になかったっけ?神奈川県庁舎の近くで見た気がするんだが…?
横浜もののはじめ物語(2010年11月11日)の記事
検索かけたら記事立てしてました!気になった方はこちらで確認して下さい。
たぶんあれだね。電信だからさ。電信を打ったり受けたりする訳で。だから電信創業の地も2カ所ないと使えないって事ではないでしょうか?
あ。石碑に説明文彫ってあるわ〜。
あちこちに文章を刻んだ石碑って建ってるけどさ。実際読むとなると石碑に彫った文章って実に読みづらいよな〜。え〜と?何だって?

電信創業記念碑の由来
明治2年9月19日(太陽暦10月23日)横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた『伝信機役所』を結ぶ約32キロメートルの電信線架設工事が開始され、同年12月25日に業務を開始した。これが、我が国における公衆電気通信の最初である。
この記念碑は、先駆者の業績を後世に伝えるため、昭和15年に建立されたもので、昭和53年、南南東約40メートルの地点から当地へ移設されたものである。』
あ。やっぱ推理は当たってたわ〜。

信号を渡ったらまた説明板があった!今度は何だ!?

月島の渡し跡だそうですよ?
『月島の埋め立てが完成して間もない明治25年(1892)11月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現在の築地7丁目18番)から月島(現在の月島3丁目24番)へ手漕ぎの船で私設の有料渡し船を開始したことに始まります(後略)』
ん?今まで由来が残ってるってさ、言った者勝ちって事?更に読み進めると?『その後東京市が渡し船を市営化&無料化し、明治の末には臨海工業地帯へと発展した月島への乗客増加に対応するため、徹夜渡し船も開始されました。
な、なんだってぇ〜??徹夜で渡し船なんかしてた時代があったんかい!それでそれで??
昭和15年(1940)にかちどき橋が架橋されたことにより、渡し船の運航に終止符が打たれました。』
な〜るほど!そういや、江戸時代って幕府がそうそう川に橋をかけさせない文化があったよね。それが改善されたのって、関東大震災がきっかけじゃなかったっけか?確認してないけどさ〜。
ともかくは!勝ちどき橋!行ってみましょう〜。

着きました!すぐそこでした!
………。

しばらく橋を眺める。ここさ〜、確かさ〜、跳ね橋じゃなかったっけ?何か『ここは葛飾区亀有公園前派出所』の漫画で読んだ気がするんだが…?あれ〜??記憶違いかな?でもさ、橋の中央に怪しい構造物があるわ〜。
ともかく!信号を渡ろう!何かあるし!
…何かあるし!じゃねえよっ!本日の目的は秋山好古・真之兄弟ゆかりの地めぐりでした!海軍経理学校の碑はどこだ!?本に載ってる地図によるとこの辺なんだけども…??

ありました!道路の南側にかちどき橋の施設があって、そこに建ってました。
『秋山好古・真之兄弟と正岡子規 ぶらり江戸めぐり3』の本によりますと、海軍経理学校の碑
海軍経理学校は「海軍会計学舎」として明治7年(1974)に創設。
「海軍兵学校」「海軍機関学校」とともに旧海軍三校のひとつで、武器・弾薬・食糧の補給や、海軍予算を編成する幹部を養成した。ほかの部署にくらべて戦地での死亡率が低かったこともあり、多くの秀才が集まったという。敗戦にともなう海軍の解体によって廃校となった。」とあります。
この碑の右隣に、かちどきのわたしの石碑がありました。

これですね。説明板もある〜。
勝鬨の渡し 明治25年(1892)、銀座・築地方面と月島の間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。
明治38年(1905)、日露戦争の旅順要塞陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。
石碑の正面に「かちどきのわたし」とあり、側面には「明治38年1月京橋区祝初捷会挙行之日建之京橋区同志会」と陰刻されています。
かちどきの渡しの渡船場は、ここから約150メートル西の波除稲荷神社の辺りにありました。
対岸にある月島側の渡船場は、現在の勝どき1・3丁目の境)の辺りにあって、この間を渡し船が運航していました。
大正12年(1923)の関東大震災後、架橋運動が起り、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。
勝鬨の渡しは橋の架橋まで運航され、昭和15年(1940)6月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。」
あ。推理は当たってた!

実はですね。石碑の背後にかちどき橋の資料館なるものがあります。
当初の予定では、昨日土曜日にナマステインディアと合わせての築地海軍物語散歩だったのです。それで決行していたらかちどき橋の資料館も見えたんだけどね。雨降りでパスしたら入れなかった〜。日曜は休館です。
あ。ちなみに、かちどき橋の資料館は 開館日:火・木・金・土曜日 開館時間:9:30-16:30 入館料:無料 となっています。
そんで諦め悪くこっち側からも隅田川にかかる勝鬨橋を眺めてました。これがトップ画像です。説明板もあります。

うわっ!勝鬨橋っえ、まさかの国の重要文化財だった!うわ〜。知らんかった〜。現役の橋がまさかの重要文化財!
ん?東京都知事 石原慎太郎って書いてある!
うわ〜。何だか納得〜ってか!「勝鬨橋」の字は石原さんの字かもしれんね。

ところでさ〜。何だか現在勝鬨橋は工事中です。
何の工事だろうか?

あ。説明板がありました!「橋梁長寿命化工事のお知らせ」

勝鬨橋に直接照明が取り付けてある。通行人用だと思うけど。これ、現役なんだろうか?さすがに夜間確認には来れないわ〜。すんごく気になる!なにしろ現役の橋にして、国の重要文化財ですから。

工事個所と解説部分を切り抜きしました。来年の3月29日までの工期です。かちどき橋を見にいくならば、工事が終わってからの方がいいかも?
でもさ、ようするに勝鬨橋の名前の由来ってさ、日露戦争戦勝記念って事だよね?知りませんでした!なるほど『坂の上の雲』由来の歴史巡りにはぴったりかもね。
さてと?次の目的地の軍艦操練所跡ってどこだ??
本に載ってるのは説明板だけですので、痕跡も殆ど残ってない模様。っていう事は、その説明板を探さないと〜?どこだ〜??
本に掲載されている説明板の写真の背後に写ってるラーメン屋を探そう!それが目印だ!

見つけたけどこれさ。本当に説明板しかないわ〜。切ないわ〜。

本によりますと?「安政4年(1857)幕府は外洋航海の必要性から講武所のあった現在の築地中央卸売市場の地に「軍艦教授所」、そして海軍所」と改称した。航海術・海上砲術の講習およびオランダから購入した軍艦の運転練習をはじめたが、元治元年(1864)に付近で発生した火災によって焼失。再興するも明治元年(1868)の明治維新で幕府が瓦解し、活動は休止となった。しかし、幕府の海軍施設があった縁で、4年後に築地一帯に海軍省がおかれた。
ってな事で、次の目的地は日本の近代海軍発祥の地。旗山の石碑です。んが!!その前に前から行って見たかった波除稲荷神社さんがみたいです。
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慶応義塾開塾の地が見つからない〜

2016年10月15日 06時56分09秒 | 歴史散歩
2016年9月25日、代々木公園でナマステインディアを楽しんだ後、東京メトロ千代田線明治神宮前駅で乗車。日比谷で日比谷線に乗換えて築地駅へ。まずは築地本願寺で伊東忠太さん設計の本堂を見学しました。
次に目指すのは慶応義塾開塾の地ですが…。
み・見つからない〜!!どこにあるんだ〜っ!!
さて、かばんから取り出したるは、秋山好古・真之兄弟と正岡子規 ぶらり江戸めぐり13<古地図と最新地図で歩く> 発行:毎日新聞社です。

NHKで司馬遼太郎原作『坂の上の雲』という歴史ドラマが何年か前に放映されました。私はうっかり中国の旅順に行く程ハマってしまいまして。その時に購入した本です。明治東京の地図と現在の東京の地図が掲載されていて、所縁の地をあちこち散歩出来るのですよ。既に何カ所か回ってるんですけど、築地が後回しになってたのです。
題して、ぶらり、秋山真之ゆかりの海軍施設めぐり【築地物語】です。
推奨コースは…。
【築地物語】
築地駅3番出入口慶応義塾開塾の地(秋山好古があこがれた象牙の塔の出発点)軍艦操練所跡(海軍省の敷地となった幕府の海軍施設)海軍経理学校の碑(海軍の予算を取り仕切るエリート養成機関)旗山の石碑(日本の近代海軍発祥の地)海軍兵学寮跡の碑(真之が入学した海軍兵科将校の養成機関)
…築地物語さんぽコースはこの後、旧新橋停車場、鉄道歴史展示室、青松寺(真之の追悼会が行われた寺院)、乃木将軍由緒の石碑(乃木が新婚生活を送った屋敷跡)、伊藤博文の銅像、旧海軍省・参謀本部跡、睦奥宗光の銅像、海軍省・軍司令部の碑、日比谷公園、鹿鳴館跡、皇居外苑の馬場先門跡二重橋前駅2番出入口となってますが、今日の所は時間が足りないので、途中の海軍兵学寮跡の碑までという計画です。んで東銀座駅がゴールなんじゃ!
なのですが…。最初の慶応義塾開塾の地でつまづいた〜!!見つからない〜どこじゃ〜〜どこなんじゃ〜〜っ!!
もちろん所在地の地図も載ってるのですが、B5サイズで浜離宮から江戸城北の丸公園まですっぽり入ってるという…。どんな縮尺図なのか!細っそい道は載ってないし〜。
でも目印の公園が見つかればなんとか…。

周辺の歴史地図発見!
目印の公園は見つけたんだけども…。
ああっ!あったわ〜。この公園じゃないけど近いっ!ってか、このあたりって日本はじめて物語じゃん?発祥の地が一杯じゃん?
取りあえず携帯電話で撮影してから慶応義塾開塾の地の場所を暗記して移動する。

聖路加大学です。

あ!現在聖路加大学となってる敷地角に芥川龍之介生誕の地の解説板見つけたわ〜。

そんですぐ並んで建つ石柱はまさかの浅野内匠頭邸跡じゃん!解説するまでもなく、今風に言うと赤穂浪士の発端の殿の家ですね。

なんか土地の歴史の変遷をかいま見てますね。

またあった!女子学院大学発祥の地の石碑です。って?聖路加病院の前身ですかね?

あ。違う模様。石碑だけここに移動したようです。
聖路加大学の敷地に沿って隅田川方面へ歩いていたのですが、道向こうに目的地っぽいの見つけた!

ようやく一つ目の慶応義塾開塾の地に到着しました。トップ画像がそれです。
本によりますと、「好古があこがれた象牙の塔の出発点」とありまして、「秋山好古が傾倒した福沢諭吉。その福沢が、安政5年(1858)藩命によって中津藩中屋敷に23才で蘭学塾を開いたのがこの地。その塾は慶応4年(1868)に芝へ移転し、「慶応義塾」と名乗った。好古は裕福な家庭に生まれていれば慶応義塾で修学したかったといわれ、自分の子を慶応義塾へ入れただけでなく、親類の子も出来るだけこそに入れようとしたとされる。」と続いて書いてありました。
今この場所は道路で三角形に残された小さい区画です。慶応大学所縁の地だからと無理矢理残した感があります。

トップ画像の慶応義塾開塾の地の石碑は、何をモチーフにしてるか今一分かりませんが、机の上に本が載ってるっぽい。んで、机上の部分に説明文が彫ってある。
…これ、「秋山好古・真之兄弟と正岡子規ぶらり江戸めぐり3」に書いてある文書そのままのようです。
にしても蘭学の泉?って何やねん!
トップ画像を見て下さい。画像右奥に石碑がもう一つ建ってますね。これのようです。撮影撮影。

う〜む…。帰宅後画像を見直したら、うっすらとしか読めないわ。でも蘭学事始は解体新書で、解体新書のあるページを石碑のモチーフにしてあるようです。
解体新書??WIKIWIKI。「解体新書はドイツ人医師、ヨハン・アダム・クルムスの医学書、オランダ語訳『ターヘル・アナトミア』を江戸時代の日本で翻訳した書。西洋語からの本格的な翻訳書として日本初。著者は前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)、安永3年(1774)、須原屋市兵海鷂衛によって刊行される。
う〜む。ビックネームが次々登場するなあ…。ダンナと散歩してるけどさ、歴史好きな人と散歩したらもっと盛上がるかも?ってか、ダンナがどこまでついてこれるか…。がんばれ〜。
聖路加大学の敷地にそって更に隅田川方面へ移動。どうせここまで来たならば、有名な聖路加病院も見たいんや〜。

の前に何かあった!
春5月、街路樹のピンク株白い花の株のハナミズキが、かつて尾崎行雄がアメリカに桜を送ったお返しでもらった事は知ってましたがね。でもこれ、当時のハナミズキじゃないな〜。
説明文を抜粋しますと、『平成24年(2012)、サクラ寄贈100周年を記念し、アメリカはハナミズキ3000本を日本書く気に植樹する「友好の木ハナミズキ」プロジェクトを開始。このあたりはかつて外国人居留地があり、明治7年(1874)から約16年間アメリカ公使館が設置されるなど、アメリカとの関係が深い場所だったので、聖ルカ通りと明石町緑道に植樹しました」という事らしい…。

さてと、聖路加病院到着。関係ない人が病院内に入るのもいかがと思い、外から眺めるだけにする。
次に目指すのは、海軍経理学校の碑です。分かりにくい地図によりますと、それがあるのはかちどき橋のたもとっぽい!移動です!ああ!一つ目を探すのに思いの外時間がかかっちゃったわ〜。この先どれだけ時間がかかるんだろうか…。不安〜。
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旧小原宿散歩

2016年01月02日 05時29分52秒 | 歴史散歩
新年あけましておめでとうございます。
昨年秋は紅葉散歩でたくさんウォーキングしました。ブログ記事も「紅葉散歩」を優先しまして、散歩の途中で見た紅葉以外のあれこれは後回しになっています。年末にその帳尻を合わせるべく追い込みかけたのですが、納まり切らず。新年からしまりませんが、こぼれネタの記事です。
今日は2015年11月13日、相模湖&甲州街道旧小原宿紅葉散歩から、旧小原宿の宿場を紹介します。江戸は遠くなりました。でもなんとなく宿場に痕跡が残ってるようで。

10時46分、JR中央線相模湖駅到着。なんか鄙びた駅前ですね。上の画像の緑の三角屋根の建物は相模湖町観光協会です。まずは情報収集です。当日は相模湖の紅葉を見るのが一番の目的。ついでに旧小原宿本陣屋敷の見物です。しかし、事前に紅葉ポイントの情報が掴めなかったので、観光協会で聞いてみよう~!
小原宿散策ガイドと相模湖案内図をいただきました。散策ガイドにはおススメの散策ABCコースが載ってました。こりゃあ願ってもない!
あと、相模湖の紅葉写真アルバムもあった!これが素敵で!!見たい~~~っ!とテンション上げて散策開始。

まずは観光協会裏に見えたオブジェを見に行った。これは鮎?それともイワナ?空が晴れていれば、紅葉の里山を背景にもっといい画像がゲット出来たハズ。

20号線に出た。道の向こうに綺麗な赤。ここは北相中学校です。う~む。グランドの向こうの里山の紅葉が綺麗だ。トラックの向こうから鑑賞したけど学校なので無理だな。

20号線はなぜか上り坂。何でや~?どうも小さな峠だったのか、勾配が高くなってすぐに下がった。しかしね。右手の眺めが予想外なんだけど~??
画像奥に見えるのは相模湖ダムです。何が不吉って、今日のメインは相模湖の紅葉だからして、眼下に見えるということは…。
 
さて、まずは旧小原宿に到着です。
観光案内所でもらった小原宿散策ガイドには、小原宿の古民家散策コースってのがある。これに従いスタートです。

まずは永楽屋さん。甲州街道沿いに昔ながらの古民家が残ってます。

同じく伊勢屋さん。
散策ガイドはここで南の路地へ入れとある。

ガイドには機屋さんと書いてある。目に飛び込んできた土の建物。こりゃ何だ?
 
かつてはどこにでもあった建物のようで、今ではほとんど見かけない建物ね。

何となく嬉しくてつい枚数撮っちゃったわ。

いわゆる納屋かな?外壁にしっくいでも濡ればお蔵としても使えそう~。

しかしお蔵はちゃんと隣に建ってました。ここさ、何気にドラマ撮影出来そうな味のある建物空間です。

ね?いい感じでしょ?

こうね。昭和の子供等が飛び出てきそうな。

奥から昭和の子供がかけてきそうでしょ?

路地に入らないと気付かなかったなあ~。

路地を進むと、南側は田んぼがありました。ここさ、画像では分かりませんが、奥は急な崖になってます。相模川があるんです。

小原宿の歴史
小原宿は甲州街道中にある江戸から9番目の宿で、小仏峠を控えた重要な宿場町でした。小仏宿から来た人や荷物は与瀬宿を通り越して吉野宿まで継ぎ立て、反対に江戸方面には与瀬宿から小原宿を通り越して小仏宿へ継ぎ立てる片瀬の宿場として栄えました。江戸時代の旅籠は7軒あり、一般の旅人のほかに、富士請や身延講の旅人も多く利用していました。
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船待ち~

2015年10月23日 05時43分48秒 | 歴史散歩
猿島に到着したのが11時35分。定刻ならば猿島発は毎時45分です。
しかし訪問した10月12日は米軍横須賀基地で実施された空母・ロナルド・レーガンを見学しようと、大勢の人が見学ゲートのある三笠公園に集まった。
ま。大半の人は見学出来なかったんですがね。ええ、私も。見学キャパを超えて人が集まったせいです。んで、せっかく三笠公園まで来たのだからと、大勢の人が戦艦三笠や猿島観光を楽しみました。ってな事で、猿島航路は定刻は関係なく客をピストン輸送しています。

猿島に着いた時、船内アナウンスで『本日は増発して船を運航しています。毎時15分・45分に猿島発の船を運航します』と言われていたので、13時15分発を目標に桟橋を目指したのですが、そこに船の姿はありませんでした。
仕方ないのでちと暇潰し。

猿島の桟橋の近くには、バーベキューの出来る砂浜や海水浴が出来る砂浜があって、オーシャンズ・キッチンというお店があります。
猿島は無人島なのに、お店がある不思議な島でした。無人島ランチに心惹かれるのですけど、行列が…。無人島なのに行列があるお店がある(しつこい)。もうね。今日はね、行列はお腹いっぱいなの~~っ。

船が客を満載してやってきました。

こっちの画像の方が分かり易いかな?
乗船行列に並びます。2階デッキへ上がると~?

さすがに10月ですからね。海水浴客はいませんが、砂浜に寄せる海藻や貝を探す親子の姿はなかなかにフォトジェニックでした。
そんなこんなで船に乗船したのが13時20分。行きとは反対側を見てたらば、海面に漂う白いクラゲの姿がいくつも見えました。

携帯電話で撮影したけど、あんまりクラゲの姿が写ってなかった!残念です。

やがて三笠桟橋が見えてきた。
三笠の名前は上の画像左奥の艦の姿にちなみます。

こつちの画像の方がよく分かるかな?『戦艦三笠』です。戦艦三笠は、日露戦争の時の海戦で旗艦だった船です。以前乗船したから、今回は見送りです。
ちなみに以前、戦艦三笠に乗船した時の記事は三笠の艦橋にはポインタがある(2011年2月25日)の記事
日露戦争当時の艦内を再現(2011年2月28日)の記事
この時期、NHKのドラマ『坂の上の雲』に影響され、横須賀の三笠へ会いに行きました。うっかり中国は旅順まで行ってしまい203高地に登ったのもいい思い出です。
ちなみに帰宅後、歩数計を確認したらこの日の歩数は17335歩でした。
や。10月10日に横浜で19335歩で中1日で横須賀で17335歩。ちなみに行列1時間と猿島で上り下り…。ヘロヘロになってしまいました~。もうね。無茶しちゃいけないよ。分かっちゃいるけど、煩悩がな…。
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ショッカー??

2015年10月22日 05時25分08秒 | 歴史散歩
横須賀・猿島巡りの続きです。
旧陸海軍の要塞跡を散策。赤煉瓦製のトンネルを見学した後、展望台への道を進む…ーーって!!
階段と上り坂ばっかじゃんっ!!
もうね。ヘロヘロでございます。
階段で何度も休憩を入れてようやく着いた展望台は、立ち入り禁止でしたっ!!

何でやねんっ!!
パンフレットによると、展望台広場:初代ショッカーの基地としても有名な展望台。とあります。
え~と??WIKIWIKI。『仮面ライダー:1971年(昭和46)4月3日から1973年(昭和48)2月10日まで。
ショッカー:世界征服を企む謎の国際的秘密組織。
このショッカーですかね?でもさ、さすがのWIKIでもショッカーの基地の画像は載ってない。んでもって、さすがにショッカーの秘密基地の外観なんか覚えてない。テレビ番組は見てたハズですが…。
さて、展望台広場ですが、展望台といいつつ海は見えない。大きく育った木が邪魔なのだ。猿島の中で貴重な平坦な広場です。観光客は思い思いに弁当を広げてます。
さて。先を急ごう。つーか、既に12時45分発の船はもう諦めたんですが、13時15分発には間に合うかもしれません。

あ。また砲台跡です。ここの砲台跡は、円形以外の構造物も比較的残ってます。
道は直進で続いてるんですが、右折して下り切り通しに残る建造物へ続く道があります。もしかしたら観光客が少ないかも?猿島へは猿島航路の船で渡るしか手はなく、船の到着時間次第ではタイミングによっては人が少ないかも?ええ。猿島独特の要塞の構造物をもっぺん見てみたい。

うん。ダメだった!観光客は多かった!みんなロナルド・レーガンの見学出来ずに猿島に流れてるのね。
 
最初の時は気づきませんでしたが、切り通しの石積みの中には植物成長して石垣を壊してる場所があります。いいのかな?お城じゃないから崩壊することはないと思うけど、植物の根が石垣の裏にまわると厄介だと思う。確か要塞跡は最近近代遺産の国史跡に指定されてるからね。現状維持が基本なんじゃないかな~?
さて。ガイドツアーがまたやってきたので桟橋へ急ごう~ーーん??
ガイドさん「切り通しに穴が空いてるのに気付きましたか?」

確かにボコボコしてるわ~。
ガイドさん「第二次世界大戦の末期、日本はもう敗北が近いのが分かってましたーー」
ガイドさん「アメリカ兵が猿島に上陸してきました。アメリカ兵は日本兵の姿が見えません。このカーブの先に日本兵がいるかも?と思ったアメリカ兵が、威嚇射撃した跡です」
う~む。やっぱ、11時45分出発のガイドツアーに定員オーバーで申込めなかったのは残念だったなぁ~。
ガイドさんのお話は面白いです。
さて、管理事務所前のポートデッキまで戻ってきました。

ああっ!!こんな所に無料の杖を置いてあったのかぁ~~!!なんかさ、杖ついてる人が結構見かけたんで不思議だったんだよね~。これがあれば、展望台への上りが楽だったのに~。

猿島へ来る客は、大きく3種類。要塞跡を見る歴史ファン。島で釣りする人。砂浜でバーベキューもしくは海水浴する人。
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ルフィ?

2015年10月21日 04時50分01秒 | 歴史散歩
猿島の切り通しの左右に残る兵舎や弾薬庫の要塞施設、赤煉瓦のトンネルを抜けた。道が左右に別れていた。とりあえず左手から~。
まず目に入ったのは広場。そこに残る円形のーーって。
なぜにルフィ??
そういえば、猿島は非日常の要塞跡があり、「日本ぽくない感じに引かれてコスプレーヤーが撮影に訪れる」って記事を読んだ事がある。
ま。日にちが悪かったね。普段は1時間に1便しか発着のない猿島航路が、客をピストン輸送してますからね。一般客が写らないように撮影するには無理がある!日が悪かったと諦めたほうがいいよ。

とはいえ、猿島航路は往復1500円もかかるのだ!なんとかして撮影しようと撮影スポットを探してレイヤーさんは頑張ってます。無理だと思うけど、頑張ってくれたまえ。
さて、レイヤーさんたちがポーズを決めてる円形は模様ではありません。実はこれ砲台跡なのです。
説明板発見:日本が鎖国をしていた19世紀中ごろ、江戸幕府は異国船の江戸湾侵入を防ぐために、全国初の台場(大砲を据える台)を猿島に建設しました。以来、猿島は”要塞の島”としての歴史を歩み始めます。
やがて明治時代中期、明治政府は、東京湾の守りを固めるために、猿島に砲台と要塞を設けました、砲台には敵国の戦艦を迎え打てるようフランスから輸入した砲が配備されました。しかし海から空へと、戦法の主流が急激に変化したことなどにより、実践で使われる事はありませんでした。その後しばらくの間、猿島は軍事拠点としては忘れ去られていましたが、第二次世界大戦の激化とともに戦場が本土へと迫り、再び防衛施設として活躍されることになりました。(以降、画像状態が悪く読み取れません)まあね。円形が砲台跡と理解していただければ。

トップ画像の右奥に、下へ向う階段があるのが見えますか?階段を降りると磯が見えます。

上の画像奥が浦賀水道です。
トンネルを抜けた所で左右に別れていた場所へ戻り、今度は右手へ行きます。
と?下へ向う道を見つけました。
猿「島」だからね。高低差はあるのは分かってたけどね。
つ・辛い。そもそも米軍の空母、ロナルド・レーガンを見るために1時間行列した後でね、足がもう疲れてるの、下り坂の先にあったのは広場です。ここは台場跡(江戸時代末期)です。説明板によると、この付近の斜面一帯には幕末に建設された砲台である卯の崎台場がありました。
江戸幕府が異国船の江戸湾侵入を抑えるため島の3カ所に建設した台場のうちの1つで、弘化(1847)年に完成しました。ここ卯の崎台場には3門の大砲が据えられ、普段は雨覆いが掛けられていました。その後嘉永6(1853)年にはペリー提督が黒船を率いて猿島の脇を通過し、その際に猿島を「ペリー・アイランド」と命名したと伝えられています。」へえ~。

眼前の海に様々な船が行き交っています。
目を凝らすと第二海堡が見えました。
う~む。画像にはちっとも写ってませんが、歴史説明ツアーが次々とやってきます。この人ら、事前に申込んでた人かしら?猿島専門ガイド協会というのがありまして、1ツアー辺り3000円だったっけ?でガイドさんを雇って周れるのだ。

砲台跡はいくつも残ってます。これはたぶん昭和の高角砲のかな?違うか?

切り通しのトンネルに合流する場所があったので、暗いトンネルを抜けてみた。



なんつーか、切り通しはだいぶ掘り込んであってね。空は雲一つない晴れなのに、暗かったのね。

ピントがぼけぼけですみません。
ここにあった説明板によりますと、この部屋は向い側の台地上にあった第一砲台の関連施設だったと考えられています。台地の両側には27センチ加農砲が1門つづ設置され、砲台下には弾薬庫や弾を上げるための井戸が陸軍によって建設されました。その後、海軍が高角砲を設置し、その通路として弾薬庫を貫いてトンネルとし、現在に至っています。
左側に見えるトンネルは島の東側へ抜ける道で、出口が直角に曲がっており、海上から見えないよう工夫されています。」とか。
確かに、船が桟橋に着いた時、海から見たら島の中にこんな施設があるとは全く分からなかった。なにか映画の撮影で使えそう~。
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猿島要塞

2015年10月20日 05時43分48秒 | 歴史散歩
説明板発見:猿島要塞とは
要塞とは、外敵を防ぐための防御施設です。猿島の要塞は東京湾口の守りを固めることを目的として、明治時代中期に明治政府が建造しました。

全ての施設が岸壁を掘り込んで造られているので、島の外からは、まったく見えない構造になっています。
さて、露天掘りの幹道を歩いてみましょう。
幹道に沿っていくつかの部屋が並んでいます。小窓のあるのが兵舎で、窓の無い部屋は弾薬庫です。弾薬庫のすみには、真上の砲台に弾薬を運ぶためのものと思われる井戸のような穴が開いています。
さらに進むと幹道はトンネルに入ります。トンネルの壁沿いにも、壁を掘り込んで二階建ての部屋が造られています。これらの部屋も兵舎や弾薬庫のほか、病室や司令室として設けられたと考えられます。
このように猿島の要塞は、数々の工夫がされた見事な要塞でした。しかし、関東大震災で一部が崩壊したことや、飛行機や長距離砲が急速に発達したことにより、実践で使われることはありませんでした。
その語、猿島は第二次世界大戦中に軍事施設として復活しましたが、砲座や監視所などは新たに造られ、赤れんがの要塞は手を入れられることなく、現在まで残されたのです。
へえ~へえ~へえ~。




見学者です。猿島要塞見学ツアーに申込んだ人だけが入れます。11時45分出発の見学ツアーがあったので申込もうとしたのですが、さすがに大勢がロナルド・レーガン見学に来たのに入れなかった人が猿島に流れてる関係で、受付は終了しててツアーに入れませんでした。これはスカたびの企画でして、猿島専門ガイド協会に申込めば、1ツアー辺り3000円にてガイドさんつきでまわる事が出来ます。事前に申込んだ人が一杯のようで、この日はガイドツアーが何本も開催されてました。途中でツアーの解説場面に行き当たる事数回。とびとびで解説が耳から拾えて面白かったです。


弾薬庫。
説明板には:切り通しの東側には兵舎と弾薬庫が交互に遊び、小窓の無いこの部屋は弾薬庫として使われました。アーチ状の入口は、この先のトンネルと同じフランス積みレンガ構造物です。部屋の隅には井戸のようなたて穴があり、これを使って真上の第二砲台へと弾薬を運んでいたと思われます。また別の弾薬庫の地上には、地下の弾薬庫と連絡を取るための円形の土管を利用した伝声管も見つかっています。」とありました。



なんかこの辺りはドラマで見た気がする。金田一少年の事件簿だったような~??違うか?

赤れんがのトンネルです。
あ。説明板発見。フランス積みれんが建造物
日本でのれんがによる建築は、幕末の長崎に始まり、文明開化とともに全国に広がりました。しかし、そのおとんどは地震や老朽化により失われてしまいました。近年の日本建築学会の調査によると、明治20年以前のれんが建築物は、現在、全国で22件が確認されているのみです。猿島の要塞跡もそのひとつで、愛知県産の品質の高い赤れんがを用いて、明治時代中期に建造されました
ところで、れんがの積み方は、大きくは「フランス積み」と明治20円ころから主流となった「イギリス積み」に分けられます。
この要塞はフランス積みによるもので、フランドル地方(ベルギー西部~フランス北端にかけての北海沿岸)で発達したため。正式にはフランドル積みといいます。
フランス積みのれんが構造物は、もともと数が少なかったこともあり、この要塞跡も含めて全国で4件が確認されているのみです。
このように猿島の要塞跡は「エキゾチックな雰囲気」もさることながら、建築史上とても貴重な建築物といえるのです。」
へえ~~。
 
トンネルの中にも構造物があります。司令部もここにありました。現在はトンネルの中の構造物は入口が塞がれてて見学出来ません。

こちらは反対側の出口です。

トンネルの出口には更にトンネルが。


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横須賀へロナルド・レーガンを見に

2015年10月19日 05時46分05秒 | 歴史散歩
時は2015年10月12日。横須賀の米軍基地で空母ロナルド・レーガンの一般公開がありました。公開時間は午前10時から午後3時。最終入門時間は午後1時まで。って事です。入門ゲートが三笠公園ゲートならば、う~んと??横須賀中央駅に9時半くらいに着けばいいかな~??
ええ。大きな間違いでした。
横須賀中央駅に到着したのは午前9時22分でした。ここまで計画通り。いつものように三笠公園に最短コースで向います。
到着した三笠公園は人で溢れてました!もうね。公衆トイレさえ大行列ね。
こ~れ~は~~!!
やっちゃいました~。行列の最後尾を辿り、最後尾のボードが立っているのを見つけたのはなんと!!JR横須賀駅のすぐ側。ヴェルニー公園の前ですわ。時刻は既に10時12分。この時点でもう入場は早くとも12時過ぎるだろうな~??と覚悟しました。
開場時間が午前10時なので、既に開場時間が過ぎてます。なのにっ!!行列は全く動かない。
ところが、ダイエー辺りを過ぎたらば、行列が突然スルスルと動き始めたのです。
これは不吉っ!!
行列が動くのは嬉しいけど、このスピードは異常です。でもさ。1時間以上並ばしてるんだ。行列を作らせたんだ。行列してる人は入れるよな??
一縷の望みを抱いたまま行列の進む流れに任せて三笠公園を目指したのですが…。
米軍横須賀基地の三笠ゲート前で警察官が入場はもう締切ました!行列しても入れません。解散して下さい~。と行列を散らしてます。
さあ大変っ!!
もうね。大人しく行列していた人の怒りがね。特に年配の男性が酷いです。いくらかけて来たのか?なぜにもっと早く告知しないのか?警察官に詰め寄ってます。
でもさ。ここまでアメリカの軍人さんは一人も見てないのね。こうね。行列を整理してる人の姿もほとんどなし。つーかさ、行列を散らしてるのが警官だって事が既におかしい。
私、諦め良い方なので、すぐに諦めた。
ダンナに「猿島行くよ!」と宣言し、戦艦三笠の側から出る猿島航路の行列に並びます。
ええ。三笠公園は朝見た時以上に人で溢れてました。これがトップ画像ね。撮影時刻は11時15分です。酷い混乱ね。入れる人の列は…。どれがそうなのか??戦艦三笠も見学客が大勢入ってます。
さて、猿島航路も行列で、11時30分出航に乗り切れるかな?
船が桟橋に到着し、列が進みます。入口で従業員が客の数をカウントしてました。もうね。乗船客限界まで乗せる気マンマンね。

三笠の桟橋から猿島までは乗船時間にして5分程度です。しか~し!!乗船代金は往復で1300円+入島料200円もしやがります。
なぜにこないに高いのか?それが猿島に残る施設と建造物の整備代と思われます。つーか、そうとでも思わないと値段の高さに納得いかんわ!

ま。5分とはいえ眺望は素晴らしい。観音崎を望みます。

猿島に11時35分に到着。
振り返ると…。

もしかして、あれは…。富士山です!上の画像の対岸左奥に富士山が写ってます。
や~、帰宅後に「この日の朝に富士山が初冠雪しました」とニュースでやってました。
さて。まずは腹ごしらえです。
何しろずっと行列していたからね。足が既に疲れてるのだ!ここで燃料入れないと動けなよ。

さて、観光開始です。まずは古い発電所施設です。

説明板発見:発電所(明治時代中期)
この建物は蒸気機関による発電所として、明治28年(1895)に完成しました。建物の構造は、レンガ積みだけで自立した壁と、木造キングポストトラスという小屋組みの屋根で構成されています。建物内部には汽かん室と発電機室、石炭庫があり、汽かん室の下には蒸気機関で使う水を貯めていた地下水槽の存在が明らかになりました。ここで作られた電気は、建物の裏から切り通しを伝って島の中央部高台にある照明所に送られていました。」へえ~へえ~へえ~。つーかさ、幕末から明治初期の激動の時代に日本中で一斉にあれこれ作ったんだろうなあ・これもその一つ。なんか感動だね。
切り通しみち。今は大きく成長した樹が見えます。

かつて島中を要塞化したのね。幕末の頃は外国船内払令。切り通しの両側にはいまも施設跡が残ります。

しかしね。切り通しが上り坂なのは予想外。あ・足がぁ~~。

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小仏関所跡

2015年03月20日 00時07分56秒 | 歴史散歩
2015年3月15日に訪れた高尾梅郷梅まつり、点在する梅林の中で一番見頃だったのは荒井梅林でした。旧甲州街道に引き返し、街道を東京方面へ歩きます。
と、間もなく、雅なお琴の音色が聞こえてきました。小仏関所跡です。ちなみに、梅まつりスタンプラリーのチェックポイントでもあります。スタンプは残り1カ所です。いや~~、残りは散歩開始の遊歩道梅林入口のすぐそばにあぅったんだけど、スルーしてしまいました!ああ~、京王高尾山口駅から来たのが敗因です。スタンプ設置の遊歩道小名路会場は、遊歩道梅林入口近く、JR高雄駅側にあったのです…

さて、チェックポイントの小仏関所跡ですが、お琴で演奏される童謡を聴きつつ江戸の名残りを探します。

説明板発見:国指定史跡 小仏関跡
小仏関所は、戦国時代には小仏峠に設けられ富士見関ともよばれた。武田・今川・織田などの周辺の有力氏が滅ぶと麓に一度移され、その後、北条氏の滅亡により、徳川幕府の甲州道中の重要な関所として現在地に移されるとともに整備された。
この関所は、道中奉行の支配下におかれ、元和9年(1623)以降4人の関所番が配備された。
関所の通過は、明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)までとし、しかも手形を必要とした。鉄砲手形は老中が、町人手形は名主が発行。この手形を番所の前にすえられた手形石に並べ、もう一つの手付き石に手をついて許しを待ったという。
手形石と手付き石が説明板の隣にありました!
特に、「入鉄砲に出女」は幕府に対する謀反の恐れがあるとして重視し厳しくとりしまった。抜け道を通ることは「関所破り」として「はりつけ」の罪が課せられるなど厳しかったが、地元の者は下番を交代ですることもあって自由な面もあったらしい。明治2年(1869)1月の太政官布告で廃止され、建物も取り壊された。
*許可無くしてい地域内の地形の変更・石の移動、施設の設置、改修などを行うことはできません。   八王子市教育委員会」だそうで。まあ、知らなきゃただの石だよな。

取り壊されてしまった建物はこんな絵が設置してあったんだけど~?分かる?

説明板の隣のサンシュユが綺麗です。
さて?ところでなんで「梅」まつり会場なの?適当な広場がなかったから~?と。ダンナがくるのを待ってたら何か貼り付けしてあった!
国史跡「小仏関所」の植木剪定について
国史跡「小仏関所」の梅木につきましては、バスの運行の支障となっていたほか、樹木の成長に影響が及んでいた枝もあったため、平成26年11月に強剪定を行いました。
その影響により、開花が少なくなり、今年の梅花を楽しみにされていた方には申し訳ありませんが、ご理解いただきたいと思います。
なお、今後につきましては、樹勢を考慮して梅木の剪定を行い、長く梅花を楽しんでいただけるよう維持管理を行ってまいります」
そっか~。剪定しちゃったのね。
ちなみに、上の小仏関跡の絵図ですが、こんな解説がついてました。
「この絵図は(左側の絵図)、関所番だった4家のうち、川村家に伝わっていたものです。残念ながら、戦災により焼失し、現存していません。
小仏関は、四方を木柵などで囲われ、東西に門が置かれていました。北に山、南に川という地にあり、当時ここを通行していた人々を厳重にチェックしていたようです。
こちらの絵図(右側の絵図)は、千人同心組頭塩野適斎らによって記された「桑都日記」のものです。
もともとあった小仏からここ駒木野に移され、関所の東が駒木野宿、西が小仏宿と呼ばれるようになり、関所も「小仏関」や「駒木野関」と呼ばれていたようです。 八王子市教育委員会」だそうで。
さて。旧甲州街道へ戻ります。
ン?何かまたあった!

さすがに江戸時代からの街道だから色々残ってるのね。実は散歩途中に他にもアレコレあったのですが、途中まで撮影せずにスルーしちゃいました。つ・疲れてたんです。反省~。

なんか、病院ですが、階段と建物の壁に楽しい絵が描かれてました。
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新島襄終焉の地

2015年03月05日 00時50分24秒 | 歴史散歩
大磯歴史散歩。散歩の前に見たかったのは残り2つ。新島襄終焉の地と旧木下邸別邸です。
新島襄といえば、2013年の大河ドラマ『八重の桜』の主人公、新島八重のダンナです。つーか、同志社大学を作った人です。
旧東海道を鴫立庵から東へ。数分で新島襄終焉の地に到着です。
説明板発見:新島襄終焉の地
明治の先覚的教育者新島襄は、1843年2月12日(天保14年1月14日)、江戸神田の安中藩邸で、藩士新島民治の長男として生まれた。
その当時は、近代日本の黎明期に当たり、新島襄は憂国の心を抑えきれす、欧米先進国の知識を求め、1964年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り、キリスト教主義教育による人民教化の事業に献身する決意を抱いて、1874年(明治7)に帰国。
1875年(明治8)11月29日、京都に同志社英学校を設立した。
その後同志社大学設立を目指し東奔西走。その途中で病にかかり、1890年(明治23)1月23日、療養先の大磯、百足屋旅館で生涯を閉じた。47才だった。」
難解な文章はイカンです。最近作られた説明板のようなのに、言葉遣いが古い言い回しだと、詠む気が途中で失せてしまいます。上の文章はだいぶん今の言葉に置き換えちゃいました!もうね。あんまり年寄りに元文書かせて、そのまま説明文とするの止めてくれないか?私は説明板があれば読むタイプの人ですが、あちこちの説明板で愚痴ってます!
さて。肝心の新島襄が死去した百足屋旅館ですが、現存していません。説明板にありし日の絵がありましたので、掲載します。



こんな石碑も立ってます。

トップ画像の石碑の手前では、白梅が見頃を迎えてました。この石碑を揮毫したのは同社英学校で教え子だった徳富蘇峰です。蘇峰は新島襄の死の床にもかけつけてます。
ちなみに今日の散歩の冒頭で、吾妻山の菜の花を見に上がってますが、同じくJR二宮駅から徒歩圏に徳富蘇峰記念館があります。新島八重ちゃんや新島襄の書簡もたまに展示してるようです。
更に旧東海道を東へ。

次に出会ったのは、大磯照ケ崎海水浴場の碑です。画像では分かりにくいけれど、石碑に大正4年5月建立と書いてあります。揮毫は白州正子の祖父樺山資紀。白州次郎と結婚するまで、正子は大磯に住んでいました。
さて、大磯が海水浴場の日本発祥の地なのです。
なぜに発祥と言い切れるか?といえば、軍医の松本順が海水浴は健康にいいと提唱したんだそうで。しかも言ったがいいが早々には流行らず、そこで自腹で宣伝までしたそうで。ちなみに、現在の海水浴と松本順先生が提唱した海水浴とは違っていて、医療行為の海水浴だった模様です。が、宣伝して流行るうちに今のような娯楽の海水浴へ変化しちゃったんだって!先生的にはどう思ってたんだろうか?やっぱ、こんなハズでは~~~だったりして
ちなみに、海水浴の石碑の奥へ進むと、照ケ崎海岸に出ます。
さて。またまた東海道を東へ。

あれ?道の反対側に古い建物がある。
あれは…?和菓子屋かな?和菓子ならば、洋菓子よりカロリーは低いし価格も安いから覗いてみたいと思うけど、道の反対側にあるんだよね~。
入店を諦めて、東海道を東へ。間もなくまた古い建物があった。

うん。竹割垣に木製の壁。しかも2階建ての建物。結構レアだよ?

ここは「國よし」といううなぎやさんです。
うなぎ!もうね。高いよね?特に日本産ともなると、高くて高くて。もう何年も食べてないや。つーか、「安い中国産は薬品漬けだよ」と誰かに言われて以来、スーパーでさえ買わなくなったんだよね~。
ってな事で、画像を抑えて移動再開です。もうね。疲れを自覚してるから、普段なら建物を横からアップしてとか撮影してる所なんですが…。あっさり行き過ぎちゃった!は、反省!と記事立てする頃になり思った!
さてさて、またまた移動再開。
次に出あったのはこれ。

創業明治31年の旅館大内館です。画像のいい感じの石造りの蔵は、大正15年に上棟したもの。現在は喫茶店になってます。
島崎藤村は大磯に住居を持つ前は、ここを定宿にしてたとか?大磯町観光協会のWEBに載ってる地図によると、ここ、かつての大磯宿石井本陣跡のようです。
津微の信号を渡り旧東海道の反対側へ移動します。
ここの細道を入ると、大磯宿尾上本陣跡があるハズなんだよね~。
って!!
おおっ!
変わった石垣があったぁ~~っ!!

石垣の赤は、高麗石(こまいし)の色です。島崎藤村もこの石垣が好きだったんだって!
石垣に沿って石垣がどこまで続くか確かめたいところですが…。だって手持ちのなんちゃって大磯旧別荘群地図によると、この先に旧岩崎弥之助邸があったのです。ンでもなあ~。画像で何となくわかると思いますが、画像左に向って上り坂なのです。の、上れるかァ~~。もう足が限界なんじゃ~~。つーか、左に行けば今日の散歩で見たい最後の一つ。旧木下邸が見えないんだよ。
赤い高麗石の石垣の正面に見えるのは、地福寺さん。

地福寺さんは島崎藤村のお墓があるお寺です。どうせなら墓詣りもしたい所で、探したのですが、見つからず…。

地福寺さんのお堂と手前の梅。梅は遅咲きなのかな?まだ咲いてません。

地福寺さんにも古い井戸がありました。ポンプ、もしかして現役じゃね?だって注ぎ口にゴミ受けの布があるものな。
さて、最後の上り坂だ。が、頑張ろう…。
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