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あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

再開、大磯の別荘跡を歩く

2015年03月03日 00時02分05秒 | 歴史散歩
旧島崎藤村邸見学後、一旦旧東海道に戻りました。
信号で海側へ移動。
と?何か説明板がある。
トップ画像です。
ン~??この辺りに見附跡があるのかな?

もしかして?この石垣がソレの跡かしら~??上の画像、道の奥に旧東海道の松並木が写ってます。
絵をよく見ると、絵の左側に「この辺り現在大磯中学校」って書いてあるから、合ってる…のか??照らし合わせるとな~。
ンでも、画像の石組みのくぼんでる先は現在更地です。もうすぐマンションが出来るみたいです。ちょっと前までは東京電力の保養所だったみたいですが…。東京電力…。もしやせんでも、福島の原発事故の補償で売ったのかな~?
説明板の解説には、上方見附とあります。
「見附とは本来城下に入る見張り門のことであるが、江戸時代の宿場の出入口にも見附を置き、宿場を守る防護施設として造られた。
街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ、高さは1、6メートル程でその上に竹矢来が組まれていた。
宿場の京都側にあるものを上方見附。江戸川にあるものを江戸見附と呼んでいる。
この「上方見附」は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停の付近にあった。
そこには宿場の出入口である表示の御料傍示杭が経っていた。
この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目はなくなり、旅人に宿場の出入口を示す役目をはたす様になった。」とあります。
え~と??宿場に残る見附ってーの、確か平塚で見たような…?
平塚七夕まつり2(2013年8月11日)の記事 こちらの記事に平塚宿江戸見附の明治14年頃の写真の画像があります。
旧東海道を外れ、細道を海側へ。
と?大きなマンションに突き当たった。画像撮影忘れてしまいました~。マンションの敷地がかつての旧尾張徳川家の別荘跡の模様。細道から面影はないなあ~。まだ元気だったら、マンション周りを歩いて確認してたんだろうけど、今日はムリ!
帰宅後ちょっと調べたら、
『この一帯は西側の現大磯中学校までずっと尾張徳川藩の敷地だった。
明治中期になると村田銃の発明者・村田経芳(つねよし)の邸宅になる。
その後、日産・日立製作所を築いた久原房之助が買収。
2001年に現在のマンションになる。』
敷地内には別荘時代より受けつがれてきた樹木が中庭として残されてるそうです。み・見とけばよかった~
マンション前の細道を東へ。同じく細い道が伸びてます。

次に登場したのが旧林菫邸跡です。
林菫は松本順と兄弟です。
兄の松本順は幕府の御典医で後に陸軍の軍医になりました。
徳川家茂を診察し家茂の死を看取ったり、新選組の隊士を診療したり、戊辰戦争で会津で軍医をやって仙台で降伏。山縣有朋の勧めで維新後の陸軍の軍医を務めてます。だから名前だけは過去の散歩先でも見たことが…。確か、高幡不動尊の新選組の石碑で見たんだったっけ?
近藤勇・土方歳三殉節両雄碑(2010年6月6日)の記事 石碑の筆者が松本順。篆額が会津藩主・京都守護職の松平容保という豪華な石碑です。
ちなみに、大磯の開発には松本順が海水浴が健康に良いと推奨したのがきっかけで別荘開発が始まったともされてます。
NHKの大河ドラマでも脇役で出てたような~?
ついでに、征露丸の顔ロゴのモデルのオジさんは、松本順とか。これ、WIKI情報ね。
大磯の妙大寺に松本順の墓所がある。
さて。松本順の弟、林菫(はやしただす)は、外交官でした。幕府の留学生として、イギリスへ。帰国後、榎本武揚率いる脱走艦隊に身をとうじ、函館(箱館)戦争に参加。
維新後、ロシア・イギリスの駐在公使、外務大臣、逓信大臣を務めた。
む~??幕臣であったハズなのに、この兄弟は維新後にもなんとかなったのね。やっぱ岩倉使節団に参加したのが勝ち組に入った理由かな?
そんな感じで、大磯に林菫の別荘もある。
何か凄いわ。この兄弟を主人公にしてそのうちNHKが大河ドラマ制作したりして。や高須兄弟が先かな~??今やってる松蔭の妹を主人公にするより面白いと思うんだが…。
や。それました!お散歩再開です。

かつての林菫邸と、旧尾張徳川家の別荘の間にある細道。奥へ抜けると太平洋に出られます。
敷地の周囲を東へ。

上の画像は、林菫邸の敷地を巡る東の細道の突き当たり。謎の石像。昔って、道の分かれ道とかどん詰まりに謎の石像ってよく見かけたよな~。
ここで90度北へ道が折れてます。

その道の左側の敷地の石垣。かつての別荘地の名残りの石垣かな?現在はこの上は石垣の形に関係ない建物となってます。
気付いたんだけどね。大磯町って、色んな手法の豪華な石垣があちこちに残ってるのね。石垣の出来た年代も大分開きのある物が混じっているのが次々現れて、石垣スキーは歩くだけで楽しい!

かつての林菫邸は、現在翠渓荘になってます。翠渓荘は某大手工作機械メーカー所有の接待用の料亭です。
旧林菫邸を東へ突き当たると、大磯町役場に出ました。
ちなみに、大磯町役場の敷地は、かつては山内豊景の別邸でした。
山内豊景は、土佐山内家当主。NHK大河ドラマ「龍馬伝」にも出てくる土佐藩主・山内容堂の孫。豊景は陸軍少佐・貴族院議員。明治中期に大磯に居住。昭和32年没。その後1971年(昭和46)の大磯町役場となる…。
役場に沿って海へ続く細道もありました。更に旧東海道を東へ向います。
今日、実は鴫立庵について記事立てするつもりだったんですが、小径の石垣が素敵すぎて鴫立庵までたどりつけなかった~。記事のタイトルも差し替えです!明日、改めて鴫立庵で記事立てです。つーか、大磯町、その気で歩いたら歴史物件がゴロゴロしててパンパない~~。これでも二宮町の吾妻山上り下りと川匂神社散歩で体力使い過ぎて、大磯歴史散歩は短縮版で回ってるのよ?それでこの歴史情報の多さとは…。

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大磯明治の歴史散歩はブラタモリで

2015年02月28日 00時01分53秒 | 歴史散歩
かつて存在した旧三井家別荘地区&旧吉田茂邸のある城山公園を後にする。次なるは大磯の旧別荘群跡を散策します。
大磯は明治ー大正ー昭和初期にかけ、数多くの著名人が別荘を構えました。著名人、華族・旧公家に大名、明治政府官僚に財界人。更には歌舞伎役者や作家などです。
ことの起こりは明治18年(1885)に松本順の人脈から大磯で別荘所有が広まった事。
明治20年(1887)に大磯駅が開業されたこと。
なにしろ大磯には8人もの首相が別荘もしくは邸宅を持ってました。8人とは、伊藤博文・山縣有朋・大隈重信・西園寺公望・寺内正毅・原敬・加藤高明・吉田茂です。錚々たるメンバーです。
とはいえ、現存してる当時の建物はほんのわずかです。原因は大正12年に発生した関東大震災。海辺ですから、地盤も弱かったのかな?豪華な別荘はほとんど全壊もしくは大破したようです。その後別荘群は復旧することなく、名義移動や個人・企業に売却されていきました。更には日本が戦争に突き進んでゆき、戦後の財閥解体です。大磯の別荘群の全盛期に戻る事はなかったようです。
とはいえ、NHKの娯楽歴史散歩番組『ブラタモリ』で、タモリさんが再三口にする痕跡が街に残ってるハズなんだよね。
ま。こういうのは地元の歴史に詳しい人に案内してもらうのが一番なのですが、つてがないので凡その推理と妄想で補って散歩開始です。
午後12時32分、梨本宮跡地に到着です。

とはいえ一体は最近個人の家に分割されたようです。一角に新しい住まいが建ってます。
痕跡?あえていえば、道と区画ですかね?
梨本宮邸(大正2年・宮家陸軍大将梨本宮守正氏)は旧吉田茂邸と小川を挟み東側にありました。一旦整地して土地を小分けにして販売したのかな?梨本宮邸の頃の名残りを探してうろいていみましたが、見つかりませんでした。
画像奥、道を進むと道が途切れ、道の先に空だけ写ってますね。実はこの場所に石段があります。降りた所は西湘バイパスです。

道に沿う様に伸びる細い路は、太平洋岸自転車道です。
ここを駆け抜ける自転車とランナー。気持ちいいんだろうなあ~。
海と松林を眺めつつ東へと進みます。松林に見慣れない野鳥が追いかけっこしてました。冬は野鳥観察には最適ですよね?すぐ見つかるし。種類も豊富。こんな時、望遠機能のあるカメラが欲しいよな。
って…。え~と??おそらくぼちぼち旧伊達宗陳邸&旧清水萬之助邸跡のハズなのですが…。左側は松林!しかも高低差があって、松の向こうの様子はわからないっ。しかも手持ちの大磯旧別荘群地図は簡略地図で、邸宅跡の区画がどこからどこまでだか分からない。あまつさえ、左折出来る場所もないっ!!
ええ~~~!???どうなってるんだぁ~~~~っ!!
と・とととと、ともかく次に左へ行けそうな階段を見つけたら上がろう!
そうなのね。なんちゃって簡略地図には道があるけど、肝心の道がないの~~~。
軽くパニクりました。ンで、左折出来る道は、普通に狭い石段でした!まかさ~~~??と及び腰で石段を上がります。何しろ、吾妻山の上り下りのダメージがまだあって、出来る限り上り下りしたくないのだよ。
ってな事で石段を上がった先、東側にあったのは、こゆるぎ緑地でした。

なんつーか??ここ変わってる!
なんかね。西湘バイパスに沿った狭い公園。海の防風林?の松林なのです。最近植えたばかりの小さな松が多いようです。でもベンチがあって人もほとんどないからのんびりとちょっと休憩しました。なんかいきなり非日常空間です。
さて?
地図によりますと…。こゆるぎ緑地の北側が旧池田成彬(大正6年。大蔵大臣。三井銀行常務)と西園寺公望(第12・14代内閣総理大臣。明治32年。伊藤博文の滄浪閣の隣に建築されたことにより『隣荘』と呼ばれた。)の別荘跡なハズ。名残りはあるのかな?

こゆるぎ緑地の端っこは細い路が旧東海道と海を繋いでました。ちなみに、上の画像右は駐車場。つーか??この道であってるのか?こんなショボい道。そうそう街中に残ってるハズがない!
いや。目の前にあるんですけどね?
だって地図があってたら、この右手はあの伊藤博文の別荘地なのですよ?んで左側が西園寺公望邸。なぜに道がこないにショボいのか???
不信感たっぷりで奥(旧東海道側)へと進む。と?
さきほどの古いコンクリート塀の腰回りが、丸積みの石垣に変化した。

あ・会ってるのかな~~??
道の区画は痕跡が残り易いとタモリさんもブラタモリで再三言ってます。
あ?
廃墟発見!!

表札も外されてて誰のお宅か分からない?ンでもこれ、もしかしたらば池田成彬さんちじゃないのかな?なんちゃって別荘群地図に出てる分かりにくいありし日の建物画像に似てるんだけど~??
こうね。ブラタモリはタモリさんと女性アナウンサーだけのぶらぶら散歩でなく、必ず詳しいその道の人が同行してるのですよ。あれがあるから楽しさ倍増なのね
おのれの知識の足りなさにがっくり視線を足元へ落とすと?足元が土の道じゃない!これって石畳じゃないの~?

足元の細い土の道の様子が変わってました。上の画像左側の石垣が、旧東海道から廃墟へ至るのです。あ。さっきの土の道の旧東海道側の出口です。
石垣スキーの萌えが降りてきちゃった!!
ヨーロッパにおいて、かつてローマ軍が遠征しつつ建設しまくった石の構造物は、今でも結構残ってるものです。
日本においても、石の構造物ってそのまま残ってあったりするよな?
この石の組み方って、結構手間ひまかけてるし、お金もかかる組み方だよな??
たぶんこれ、左側は旧池田邸だが旧西園寺邸だかで会ってるわ。
だって、右側で証拠が見つかってしまいました~~!!

はい。今日のトップ画像の石碑です。読みます。
伊藤公滄浪閣之旧蹟です!
や~、合ってたよ~。つーか、あのショボい道こそ明治の痕跡だったのな。
さて。かつての伊藤博文邸もまた現存してません。それが当たり前って思ってたんだけどね?

こんな形で残ってました!

並びの同じ敷地に立つ既に使われてなさそう~な建物です。
ところで、伊藤博文の滄浪閣って、小田原と横浜市金沢八景で見たことあるんだけど~??え~と??
伊藤博文別邸跡(2011年11月7日)の記事こちらは小田原の。
旧伊藤博文別荘(2013年1月4日)の記事 こちらは野島公園にある伊藤博文の復元した別荘です。


目の前は旧東海道。しかも松並木が現存してます…。
大磯町。結構謎だらけ!
明日もブラタモリで大磯旧別荘跡散策です。


2018年10月31日追加情報:今年は明治維新150年です。記念して大磯庭園周遊イベントが開催されてます。

期間:2018年10月23日〜12月24日
会場:明治記念大磯庭園(大磯町西小磯85)
開園時間:9:00−16:30
休園日:水曜日
入園料:無料
主催:国土交通省
ブラタモリリターンズともいうべき「湘南」が10月半ばに放映されました。番組内でタモリさんが訪れた大隈重信邸も公開されてます。WEBページに申し込めば、邸宅内ガイドツアーがありますので、この機会にぜひ訪れてください。私は10月27日にこのガイドツアーに参加。大隈重信邸と陸奥宗光邸は屋内見学、伊藤博文邸は外観見学です。90分でガイドさんが案内。合わせて庭園自由見学のチケットと大隈重信と伊藤博文が大磯で撮影した絵葉書をいただきました。いまだけの特別な体験です。ぜひ参加してみては?
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吉田松陰・佐久間象山所縁の宿跡

2014年12月30日 01時36分25秒 | 歴史散歩
東叶神社を出発したのが既に15時20分過ぎ。大分夕日テイストになってきた太陽を横目に浦賀駅を目指します。途中で、小さな桟橋から、小さな船が出て行きました。
あれは何だ??
説明板発見:渡船場
渡船の歴史は古く、享保18年(1733)の「東浦和明細帳」には、渡船を修復する際、周辺の村も東西浦賀村と応分の協力をすることとあり、操業が確認されています。
当時の船頭の生活は、東西浦賀村の一軒あたり米6合で支えられていました。
平成10年8月に就航した現在の「愛宕丸」は御座船風のデザインとなっています。
この航路は「浦賀海道」と名付けられ、横須賀市道2073号となっており、東西浦賀を結ぶ渡船は、浦賀のシンボルの一つです。
ちなみに渡し賃は大人150円。小中学生50円。自転車・ベビーカー50円です。
つーか、水上の市道なんてものがあるとはっ!!びっくりですわ。
でも渡し船はいま出たばかり。え~と、今何時だ?
15時25分です。…明るいうちに電車に乗りたいのでパスじゃ!
渡し船の乗り場前に、何から石柱があります。何かしら~~??

おおっ!!まさかここで、吉田松陰と佐久間象山の名前を見る事になるとはっ!!
あ。説明板がある!:徳田屋跡
徳田屋は江戸時代から明治・大正期まで続いた浦賀を代表する旅館です。
創業は明らかではありませんが、寛政の改革を行った松平定信が相模・伊豆の沿岸を視察した折りに宿泊したという記録からすると、1700年代の終わり頃には存在したことがわかります。
しかし、正式に旅宿(御用御宿)となったのは文化8年(1811)3月のことであり、これが浦賀の旅館の始まりです。
ペリーが来航した嘉永6年(1853)6月には黒船を見聞するために吉田松蔭が二度目の宿泊をして、ここで佐久間象山と会っています。松蔭も象山もこれより二年前の嘉永4年(1851)に、松蔭は熊本藩士・宮部県蔵とともに江戸湾沿岸の防備状況視察のために、象山は門弟の小林寅三郎をともなって思索の旅で徳田屋を訪れています。
この他、浮世絵師び安藤広重が安政5年(1858)に、これより先の安政2年(1855)には木戸孝允(桂小五郎)が浦賀奉行所・与力中島三郎助に造船技術の教授を得るために来訪した折りに泊っています。
幕末から明治維新の激動のなかで浦賀を訪れた数多くの武士や文化人が徳田屋に宿泊し、ここから日本を見、世界を見て時の移り変わりを認識して、近代日本が誕生したわけですから、その意味からも徳田屋の果たした役割の大きさは大変なものがあります。
その徳田屋も大正12年(1923)の関東大震災の際倒壊して姿を消してしまいました。
現座上原家の所有地であるこの場所が徳田屋の跡地であります。
歴史上のビックネームがゾロゾロと…。
そういえば、鎌倉の瑞泉寺を訪問した折りにも吉田松陰が宿泊した石碑を見かけたような…。え~と?
鎌倉瑞泉寺の紅葉(2012年1月21日)の記事この記事に吉田松陰先生留跡の石碑の画像があります。
吉田松陰と桂太郎(2010年10月2日)の記事こちらの記事に吉田松陰のお墓の画像があります。ちなみに、山口県萩市に残る松下村塾を再現した建物もあります。実は神社の敷地内にあります。普通お墓があるのはお寺であって、神社にお墓はないのですが、この神社はその名も松蔭神社!ご祭神が吉田松陰です。ちなみにちなみに、松陰神社から徒歩10数分の場所に、安政の大獄を起こした井伊直弼の菩提寺、豪徳寺さんもあるので歴史散歩の折りには2つをハシゴするのもいいかも?なぜにこないに吉田松陰押し!かというと、まもなく放送が始まる2015年度のNHK大河ドラマは吉田松陰の妹が主人公の「花燃ゆ」だからです。どうすんだろ?1年も放送出来るネタが吉田松陰の妹に残存してるとは思えない。またねつ造、あ。違う違う。創作部分増量でいくのかしら?キャスト次第で見ると初回から数話は思うけど。
さて出発です。徳田屋の前の道はとても狭い。かつてとそう変わらない道の模様です。バス道はもっと山側を走っています。
小径に区分けされた家々もこじんまり。

家の壁のツタが紅葉して綺麗です。

細い路の先でバス道と合流。湾沿いに進んでいます。左側は高い塀!!
うわ~~~。海まで数メートルのハズなのに、海が見えないとは…。
理由は、左側が造船所だから!
かつて浦賀ドックがありました。今も造船所なのかな?どうだろう??高い塀に阻まれて全く見えません!
やがてようやく浦賀駅が見えて来ました。あと、信号を渡るともう目的地~~。





駅前の信号の高い塀に貼ってあった観光の看板です。時刻は既に午後16時前。つ・疲れた…。時間の目測を誤ってしまいました~。浦賀の歴史散歩は亦今度です。
浦賀駅は京急電鉄の始発駅。電車を待ってると、聞こえて来たのは…。
ドシラドシラドシラソラシドシラ~
ゴジラのテーマ曲でした~~~~。最後の最後でゴジラ!!何か元気出た!
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ゴジラ上陸の地

2014年12月28日 01時45分43秒 | 歴史散歩
観音崎公園・展望園地で28サンインチ榴弾砲のレプリカを見学。ここは観音崎自然博物館の駐車場の側でもあります。駐車場の公衆トイレを利用したらば、道のガードレールが灯台デザインでしたっ!何コレ!面白いっ!!

あ・ついでに駐車場のおじさんに聞いてみよう!
「すみませ~~ん。この近くに第二次世界大戦時のトーチカがあるハズなのですが、どこにありますか??」
「え~~??そんなのあったっけ??」
ええ~~~ッ!!!????何で観音崎の駐車場のおぢさんが知らないのォ??
まさか?の返答にまごまごしていると、駐車場の案内のおじさん2が登場です。
おじさん2「どうしたの?」
私「や。この近くにこんな(絵地図のおさんぽマップを見せる)のがあるハズなんですが…」
おじさん2「何か駐車場の端に、コンクリートの小さい建物があるけど、それかな?」
私「行ってみます~」
と。心配しつつも行ってみると、こんなんありました!

道路側からだと、この構造物の構造が分かりません。でもたぶんコレ、合ってるわ。トーチカって攻めて来る敵に対する防御施設です。攻める敵に見つけられ易いのはイカンのです。トーチカの中から銃で射撃出来るように、しかも榴弾砲の直撃にも耐えられるように頑丈に作ってあるのです。でもまさか観音崎にトーチカが残ってるとは思わなかったけどな~。コレ、本物?それともレプリカ??や。復原したの~??何も解説がないから分かりません。つーか、ここの駐車場のおじさんすら知らなかった程、認知度が低い模様。どうなのかな~??
駐車場の向いに、何かあったので行ってみた!
まさかの!!ゴジラの足跡10分の1サイズだった!(トップ画像です)
説明板発見:「皆さんはご存知ですか?覚えていますか?」
~昭和33年から昭和48年まで~ ここ、たたら浜に「ゴジラのすべり台」があったことを…
当時、ゴジラ映画の第一作でこの地にゴジラが初出現したことを記念して、地元有志と協賛企業が協力してゴジラの滑り台を造りました。
当時は、幼稚園や小学校の遠足など東京・横浜からも沢山の人達が訪れ、皆に愛され親しまれ人気の観光スポットでしたが、潮風なおの影響から風化が進み危険防止のため、惜しまれながら取り壊されました。
(以降の文章は説明板が破損してて読み取れません)
たたら浜
たたら浜は綺麗です。つーか、今いるのって殆ど海抜0メートル。もっぺん観音崎公園に戻ると、また高低差がァ~~~!!既に午後2時超えていてですね。10時過ぎから殆ど休まずに歩き続けてましてね。もっぺん急坂を上がる元気が…。
さあっ!次行ってみようっ!!
観音崎公園歴史巡りを諦めて、浦賀歴史散歩へ変更だっ!!
道なりに進んだ観音崎大橋は、画像がないのですが渡ってるときは殆ど普通の道路ですが、歩道から横を見ると、海の上なんですよ。大橋といいつつも橋脚が低い。しかも海の水が澄んでいて、海中を泳ぐ魚の姿も見える!!とっても素敵です。やがて鴨居港が見えて来た。さあ、右へ進めば浦賀駅への近道。でも東叶神社を見たいんだ…。と、左へ進む事に。歩いて大丈夫かなあ~??体力的に。
やがてかもめ団地という大きな団地が見えてきました。なんか…ここだけ浮いてる…。なんか、かもめ団地限定かくれんぼとか鬼ごっことか開催してみたい程だ。「鉄腕ダッシュ」でやってくれないだろうか?

かもめ団地を過ぎると、釣り船が多く集まってました。でもさ、角度的なものだけど、海・釣り船・奥に団地のビジュアルはどことなく辺だよな。なんというか、実は存在しない風景に見えるのね。つ、疲れてるんだ~~。もう頭がまともに動いてないわぁ~…。
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観音崎の28サンチ榴弾砲

2014年12月27日 01時05分36秒 | 歴史散歩
観音崎公園第三砲台に貼ってあったポスターに大いに興味を持ち、展望園地へ移動しましたらば、見えて来ました~~~
おおっ!!本当ににあった~~~ぁ!!
あれ??
ンでも何かヘンっ!?

これって、もしかしてハリボテじゃね??
え~と??これって、竹で砲作ってあるよね??
うわ~~~。何か、嬉しいけど??嬉しいんだよ?んでもコレジャナイ感が凄いんですけどォ~~??
あ。説明板発見!28サンチ榴弾砲
これは今から約120年前に作られた大砲の模型です。
当時、日本ではよその国の軍団の襲撃から守るため主要な海岸にこのような大砲を備えておりました。
砲弾の直径は28センチメートル。長さは75センチmで、飛ぶ距離は最大7800メートルです。
(およその目安は対岸の富津岬までの距離です)
観音崎には当時東京湾を守るために、これら大砲を備えた砲台がいくつもありました。海の見晴らし台にある第三砲台にこの大砲が据え付けられていました。
今は戦争のない平和な世の中になりましたが、昔はこのような時代があったことを思い起こしてもらうために、観音崎公園のボランティアが作って、展示したものです。
皆さんに長く見てもらうために大切にしてください。
へえ~へえ~へえ~~。有志が作ったレプリカだったのかぁ~~。
あ。ちなみに、本日の記事のトップ画像に使用したのは中国。遼寧省旅順にある203高地にある28サンチ榴弾砲です。
203高地、28サンチ榴弾砲(2010年8月7日)の記事 こちらの記事は、2010年7月の旅順・大連旅行記の旅の記事です。一連の記事は、左のバーの中のカテゴリーに「旅順・大連旅行記」として独立して作成してあります。興味がありましたら閲覧下さい。
レプリカの横にベンチ発見。おやつ休憩じゃ!
目の前には、東京湾を出入りする船が右へ左へ。

まったりしつつお茶とあられを食べてたらば、背後からイヤな気配がっ!!
反射的にダンナに差し出していたあられの袋を引き寄せたらば、ダンナと私の間をトンビが飛び抜けて行きました!!
しかもっ!!くそっ!とばかりに帽子の上から蹴っていきやがった~~~!!このクソトンビがっ!!
でももう~~~失敗しないっ!私は稲村ガ崎で学んだんだよっ!!
トビに襲われた(2012年3月28日)の記事 こちらの記事に稲村ケ崎でトビにあんパン持っていかれた経緯が書いてあります。

レプリカを置いてあるのは、上の地図の現在地とある展望園地です。

無事にあられをトンビから守り切り移動です。つーか、トイレへ行っておこう。
ちなみに園地にはこんなんも展示してありました。

ペリーが浦賀に来航した時に、測量したのは観音崎だったのですね。幕府は伊能忠敬の全国皇輿図を見せて対抗したという歴史的な地図です。
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戦没船員の碑

2014年12月26日 01時25分01秒 | 歴史散歩
観音崎公園・第三砲台を見学した後移動。高低差が殆どない。第三砲台から近いからと選択です。こうね、観音崎公園に残る海軍の遺跡を効率よく周るまわり方ってないのかな?公園内に高低差があるから効率はとても大事だと思う。
さて、到着したのは戦没船員の碑です。

海が見えます。

地面には世界地図。

戦没船員の碑 第二次世界大戦で海難事故で亡くなった6万余人の船員の霊を慰め、永遠の平和への願いを込めて建てられました。
海難事故と書いてありますが、そのうちどれくらいが戦争で標的になって鎮められたのか?飛散な出来事よのう…。
海を眺める。

海に明度を合わせたら、手前の文が黒くなってしまったので、明度を上げました。
どこの海で亡くなられたのかな?安らかに眠られてるといい。

同じ広場に進徳丸の錨を展示してあります。
でもそもそもここへ来た目的の大浦堡塁砲台がないっ!え~??大分探しましたが発見出来ませんでした。もちろん富士山も見つけられず…。
大分探したので、今一番気になってる所へ行こう!!
目指すのは、展望園地=南門砲台です。さっき第三砲台に、28サンチ榴弾砲のレプリカ展示してあるって貼ってあったんだよね。

気になるう~~~~。だって私、NHKドラマ『坂の上の雲』を見て。203高地の舞台、旅順の旅をしてしまった程ですから。28サンチ榴弾砲って、あれで旅順戦の勝敗の決め手になった奴だもの~~~。
い・行くぜっ!!
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観音崎灯台と砲台!?

2014年12月25日 01時45分04秒 | 歴史散歩
観音崎公園を散策中。ほとんど海面と同じ標高の外周から階段で一気に登りますと、観音崎灯台に到着です。
説明板発見:観音崎灯台
明治維新を2年後にひかえた慶応2年(1866)5月、幕府はイギリス・フランス・アメリカ・オランダとの間に改税約定を結びました。その第11条に、灯明台を備えなければならないことがうたってあります。また、各国が提出した灯明台箇所書には、相模国三浦郡三崎及び観音崎が示されてありました。
幕府が倒れ、明治元年(1868)となりましたが、9月17日に灯台の建設が始められました。横須賀製鉄所首長であったフランス人技師、フランソワ・レオンス・ヴェルニーが建設を担当することになりました。横須賀製鉄所で作られた煉瓦と石灰を使い四角形白塗装の建物とフランス製レンズを備えた灯台が12月29日に完成しました。そして、翌明治2年1月1日に我が国最初の洋式灯台が光を発しました。
大正12年(1923)6月26日に光源として白熱電燈が用いられるまでは、菜種や落花生の油、パラフィン、石油などが燃料に用いられてきました。その初代灯台は、大正11年(1922)4月26日の地震により大亀裂を生じました。翌年が津5日に二代目の灯台が改築されましたが、5ヶ月を経た9月1日の関東大震災で崩壊してしまいました。現在の灯台は、大正14年6月1日に完成した3代目のものです。
構内の左手に並ぶ句碑が、灯台守の厳しい生活と出船に対する情愛の深さを味わせてくれます。
 ●霧いかに深くとも嵐強くとも  高浜虚子
 ●汽笛吹けば霧笛答ふる別れかな 初代海上保安庁長官 大久保武雄  だそうで。
入場料200円をケチってしまいました~。アホか~。ブログのカテゴリーにレトロ建築があるのに、チェックし忘れるとは…。その時階段登りでヘバっていたとしてもあおの時の自分を殴ってやりたいっ!
さて。次はどっちへ?径ないんですけど~~??

見つけたのは、岩を削って作った細い径でした。こういうの、鎌倉の切り通しにもあったよ。昔の日本人って本当に無茶するよな。
やがて見えてきたのは、私が観音崎公園を訪問する時に一番見たかった場所です。

問:これ、何~だ?
答:第一砲台

説明板発見:観音崎の砲台
明治時代に旧陸軍が、敵艦船の東京湾への侵入を阻止する目的で建設。
日本で最初の西洋式砲台で、現在も国内のあちこちに砲座弾薬庫などの遺構が残っています。
思ったより大きいわ~~。大き過ぎてイメージがわかないという事態にっ!!
イ・イカンわ~~~。砲台が備えられていた場所に上がってみた。トンネルの中はこんな感じです。

これ、天井部。煉瓦の上から漆喰を塗っていた模様。

トンネルの壁。この煉瓦の組み方はフランス積み(明治10年代の構築)って奴ですかね?探せばイギリス積み(明治20年以降の構築)というのも見つかるとか?
第一砲台が思った以上に大きくて、全景を写し込むのが難しい。

この角度からだと大きさが分かる~??
日本が大きく変化した時代の遺物です。ここは第一砲台ですが、観音崎には他にも砲台が残存しています。第一砲台から一番近いのは…。
ウォーキングマップに従い第4砲台を目指します。
……不吉な下り坂。せっかく灯台まで登ったのに、今度は下るのか~~~っ!!
凹みつつ進むと、なんとっ!!第4砲台は海上自衛隊観音崎警備所の敷地内にあり、立ち入り禁止の場所でしたっ!!
は・入れない~~~~っ!!
目の前にあるのにっ。坂を下ったのにっ。
さ。気を取り直し、第4砲台から近い第3砲台を目指します。
今降りて来た坂道を上り、更に別の坂を上り上り~~~っ!!
やって来ました。第3砲台の設置してある場所。そこへ行くにはこのレトロなトンネルを抜けねば成りません、

古い煉瓦のようですが、破損がないっ!凄いな~この煉瓦。

これが第3砲台です。
あれ?何かポスターが…??

こ・これはっ!?28サンチ榴弾砲っ!!
28サンチ榴弾砲と言えば、中国・遼寧省大連市旅順区を旅した時、203高地に展示されてた大砲じゃん!!
あ。何言ってるのか分からない方は、まず左のバーのカテゴリー旅順・大連旅行記をごらん下さい。これね、NHKのドラマ『坂の上の雲』を視聴して盛上がってミーハー訪問しちゃったのです。なんつーか、日露戦争で203高地を攻めた時、なかなか落ちなくて乃木希典が攻めあぐねました。そこへ児島源三郎が28サンチ榴弾砲を日本から持って来て打ち込んで攻め落としたのです。あのドラマすっごくお金かかってたよ。
え?観音崎に28サンチ榴弾砲のレプリカがあるの??そりゃあ~見に行かなくっちゃでしょう~~~~~。
こっから明治の砲台や遺構巡りを取りやめていそいそレプリカを探しに行ってしまいました!明日に続きます。
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走水から観音崎へ

2014年12月24日 01時29分06秒 | 歴史散歩
走水神社を後に、更に西へ向かいます。
まず目に入ったのはトップ画像の防衛大学校走水海上訓練校のボートです。
う~ん??何やらNHKのドラマ『坂の上の雲』で秋山真之くんがこんなボートに乗ってた場面を思い出したゾ。正しいような間違ってるような…。
更に西へ。この辺りにボードウォークの入口があるハズなのですが…。

あった!解説板です。え~と?
この施設は、横須賀市のシンボルプロジェクトである。JR横須賀駅から三笠公園・平成町・馬堀海岸を通り観音崎に至る「海と緑の10000メートルプトムナード計画」の一環として整備した遊歩道です。平成4年3月に完成しました。(抜粋)
施設内容
遊歩道:階段式護岸 580メートル。 ボードウォーク 580メートル だそうで。
楽しそうです。張り切って行ってみよう~っ!!

木道の隣はもう海です。た・楽しい…。予想以上に歩くのが楽しい道です。
あ。ベンチ発見。
私「ここで問題です。お昼は観音崎で食べようと思ってたんだけどね。このベンチで食べるのとどっちがいい?」
ダンナ「ーーーここがいい」
ということで、パン&ヴァームでお昼です。

このベンチが置いてあるのは、ボードウォークの中間地点。上の画像でいうと、画像左に写っているのが観音崎京急ホテルです。画像中央が御所ケ崎となっています。
訪問日は11月23日。最高気温が18度ありまして、歩いてると暑い位です。ダンナが「岬は寒いぞ~」と脅すので、薄手のコートを着て来たのですが、暑過ぎて咽が乾くほど。
ここは海の側。ベンチの右側では釣り竿を海へ出してる人もいる。でも海の底まで見えてるのよ。魚だってこっちが見えてると思うんだが…。よっぽど間抜けな魚以外針に掛かる訳ないじゃん!と思うのは私だけ?
さて、ウォーキング再開。右手に横須賀美術館を横目に西へ向かいますと、遂に観音崎が見えて来ました。
にしても…。あの白いの、灯台にしては何か形がへんだな。

ウォーキングマップによりますと、アレは観音崎燈台ではなく、東京海上交通センターなるもの。それって、東京湾の海上交通を守ってるって事かな?
ボードウォークに沿って観音崎へ。途中にちょっと変わった形の横須賀美術館がありました。でも今日はパスです。だって計画ではお昼ごはんが観音崎公園のどこかで食べるハズが、既に食べてしまってますからね。計画の遅れは少しでも取り戻さないと~。

そんなこんなで観音崎公園に到着です。
公園内には日本が外敵に備えたあれこれの施設の跡が残ってるのですよ。出来れば全部見たいのですが…。
う~む??おさんぽマップにはおススメ早周りコースとなかいんだわ。どう見て行けばいいのか??なんか観音崎の岬が丸ごと要塞みたいに作ってあるからさ。やっぱコレかつては敵に攻められないいように迷路っぽく造ったのかな?それとも単に岬に砲台を設置する時に、海から見つけにくく海を見やすい場所に造ったためか??
や。ぼやいてないでともかく行ってみよう~!!
まずは、海辺の道を進みます。

最初に見つけたのは権現洞。天平13年、行基は諸国修行の途中この洞窟に住んでいる大蛇を退治して、その霊を鵜羽山権現として祀りました。
……なんか、ツッコミ所満載の解説なんだけど、立ち止まってる場合じゃないから先へ進むわ。

ところで観音崎は歴史ポイントですが、船が好きな人にもおススメです。上の画像奥には、自衛隊かアメリカ海軍の船が横須賀港へ向かって進んでゆきます。これを狙って凄い長玉カメラを構えてるおじさんがいました。たぶんお気に入りの撮影ポイントなのでしょう。撮影に戸惑いがないっ!
私も横須賀の自衛隊の一般公開や米軍横須賀基地の公開で、艦船見学した事があります。でも動いてる艦船が見たければ、ここで待ち構えるのは正解だと思う。もっとも訪問日は日曜だったので、艦船の航行は1隻のみ。でも様々な働く船が西へ東へとやってきます。




西脇順三郎文学碑

観測所
第二次世界大戦時に造られた潜水艦の音を調べる施設でした。

ン!?ウォーキングマップの絵と違うけど、海にずれ落ちそうなのが関東大震災により崩壊した2代目の灯台の残骸です。なんか酷いなぁ。
さて。階段です。
観音崎灯台を近くで見たいなら、階段は避けられません。

水平が保たれてない階段は登りにくい~~~。ここの階段結構こわいわ~~~~っ。雨降ったら登れないでしょう~~。
明日に続きます。
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馬堀海岸を西へ

2014年12月23日 00時52分16秒 | 歴史散歩
2014年11月23日、観音崎散歩へ出かけました。
実はこれ、6月にあじさい散歩を兼ねて訪れる予定で、切符を購入済だったのですよ。でも体調不良で動けず取りやめてしまったのですが、有効期限が11月30日に迫ってきてしまいまして、紅葉のベスト行楽日を観音崎散歩にあててしまいました。
まあ、紅葉は全然でしたが、歴史散歩としてはなかなかだったので楽しかったよ。では今日は京急馬堀海岸駅から走水神社到着まで紹介します。
トップ画像は、京急馬堀海岸駅から南へ続く道の街路樹が貝塚でした。時刻は午前10時25分。
まさか日本にも貝塚の街路樹が残っているなんて~。
あ。私が覚えてるのは、中国の旅順の旧市街です。そもそも旅順に貝塚を植えたのは日本人です。でもまだ現存してました。
旧関東軍司令本部(2010年8月16日)の記事こちらの記事に旅順に植えられた貝塚の画像があります。旅順のあちこちで貝塚を見かけましたが、普通にあったので、街路樹の貝塚画像は撮影し忘れたようです。何やってんでしょうね~。
やがて視界の奥に見えて来たのは…。ン?何かやってるな。

フェニックス並木が海岸沿いに続きます。道路の向こう側を走ってる人々がいます。見えますか?

これね、よこすかシーサイドマラソンが開催されてました。
最高の眺めで海辺を走るのは気持ち良さそうです。
フェニックス並木の車道を歩きにくいので、海側の散歩道を行く事に。

ん??あれは…。もしや~~。
ああっ!!ふ・富士山だ~~~っ!!分かります?既に富士山が雪をかぶってるので、裸眼でなんとか判別つくけど、携帯電話で撮影したらどうだろうか?

だいたいこの辺に富士山が見えてるんだけど…。この角度から富士山が海越しに見えるとは思わず、びっくりしました。

フェニックス並木が途切れてすぐ、緩やかな上り坂になります。と。見えて来たのは今年の4月の桜の時期に併せて一般公開された走水水源地です。
海と桜(2014年4月12日)の記事こちらに春の桜の一般公開時の画像があります。
走水水源地・煉瓦造りの貯水池です。
明治35年軍港水道用として造られました。横須賀の国登録有形文化財第一号の貴重な建物です。桜の奥の桜を見ようとここを選んだのですが、道の反対側にあったこの煉瓦造貯水池の画像を撮影し忘れたので、こん回めでたくコンプリートです。

走水水源地から更に緩い上り坂が続きます。もう富士山の輪郭は空と判別つかなくなりましたが、東京湾唯一の自然島・猿島や、第一第二海堡、遠く房総半島などが見えます。夕日の富士山撮影ポイントでもあるようで、展望台にはダイヤモンド富士の説明板が立ってました。
展望台を過ぎると、すぐ見えてきた道ですが…。何かヘン。
これね、歩道が直線方向に続いてるのですが、歩道のみ急な下り坂なのですよ。なぜにこんな不思議な造りになってるのか?頭を捻りつつ進んでますと、左側から子ども等の声が聞こえてきました。声は走水小学校から聞こえてきます。って、なぜにあんな場所に小学校を造ったのだろうか?

広域避難場所に指定されてるようですが、避難の原因が地震だった時、怖くて避難出来ない気がする…。や。小学校の敷地から釣り出来そうですが。
さて、上の画像を撮影したのは、御所ケ崎公園でして、これがなかなかの歴史ポイントでした。

実は、ヤマトタケルの命が東征の際、ここに臨時の御所を設け、軍旗を立てた伝説に由来。旗山崎とも呼ばれる場所。
説明板発見:日本武尊 弟橘媛命 伝説の地 御所ケ崎
古事記・日本書紀によれば日本武尊が東国征伐のおり、走水から上総(千葉)へ船で渡ろうとした時、海が荒れて進めず、弟橘媛は海神の怒りを鎮める為に身を投じ荒れ狂う海をしずめました。
地元伝承によれば武尊がこの地に臨時の御所を設け軍旗を立てたことから御所ケ崎、旗山崎と呼び弟橘踏めは御所ケ崎先端の「むぐりの鼻」に侍女たちと共に身を投じたと伝わります。港には尊が海を渡るときに乗船したといわれる寺島(御座島)の名があります。 だそうで。
ちなみに説明板がもう一枚ありまして。
走水番所・旗山崎台場跡
天正18年(1590)徳川家康が関東に入封しました。
その後、船手衆である向井一族に命じ走水に御船番を置き、向井政良は御船番、走水奉行を務め、後に三崎奉行・向井忠勝が兼任しました。
三崎では上がり船を、走水では江戸に下る船を検査しました。
今も同心町海岸の名前があります。
天保14年(1843)川越藩が江戸湾海防のため台場を築いた所で、六梃の大砲を配備し異国船の侵入に備えました。
明治19年(1886)旧陸軍によって築かれた半円形の低砲台が前方の松の木の下に現在も残されています。
だとか。
ん~??もしかして、上の画像の海面と岬の境い目がカーブを描いてるのってもしてして、砲台跡だったりするかも~??
説明板についていた絵です。

公園から西へ歩いてすぐある歩道橋。地味にチェックポイントでして、ユーミンの『よそゆき顔で』で歌われる観音崎歩道橋らしい。ってか、ユーミンのその曲を聞いた事ないんで特定出来ないんですが、手持ちのウォーキングマップにそう書いてある。
歩道橋の上からの眺めは最高です。

最高だけど、電線が邪魔ですね~。
歩道橋を降りると目の前にあったのがこれ。

こういう絶景もアリなのね。私ならここには住めない…。怖い。
旧道を行きます。右手に覚栄寺(覚栄寺<浄土宗> 墓地には向井一族・政勝系統の墓があり、奉行・向井政良の長墓様といわれる逆修塔の政直・正道・半十郎の宝篋印塔や五輪塔、石浮彫りの碑・石燈籠などがあります。)寺院からは走水の海が見えます。
覚栄寺・円照寺・大泉寺が3つ並んでいて、4つ目が走水神社です。
最近パワースポットとしても有名ですね。 明日に続きます。
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武蔵国分寺跡巡り

2014年11月21日 01時27分51秒 | 歴史散歩
武蔵国分寺は、天平13年(741)、聖武天皇は鎮護国家を祈念して、諸国に国分寺(僧寺と尼寺を建立するように命じました。武蔵国では国府(現府中市)に近く、都へ通じる東山道武蔵路沿いの広大な平地と東西に連なる国分寺崖線の麓、豊かな湧水を持つ現在の西元町一帯が好所として選ばれました。
国府と共に政治・文化の中心として栄えましたが、鎌倉時代末期分倍河原の戦いで焼失しました。武蔵国分寺跡と関連する遺跡は、東西1、5キロ。南北1キロ。諸国の国分寺跡と比べ規模が大きく、歴史的にも重要な事から大正11年に国の史跡に指定されました。(国分寺歴史・観光マップより抜粋)
ってな事でトップ画像は僧寺の配置図です。
昨日の記事の国分寺楼門から南に続く路を100メートル位の所に武蔵国分寺跡・僧寺金堂・講堂があります。

太陽が陰ったタイミングで撮影してしまったのですが、画像奥中央が講堂の跡。

その南側に金堂の礎石があります。
ところでですね。親子連れが礎石を舞台つーか、踏み石にしてその上で『妖怪ウォッチ』のダンスを激踊りしてました。や~、入間航空祭でも朝一に妖怪ウォッチ体操が流れて乾いた笑いが出たのですが、礎石の上で推定35才のお母さんが妖怪ダンスをノリノリで踊ってる風景はシュールつーかヘンだろっ!それっ!!
お母さん、アンタの足の下の石、奈良時代の歴史遺産だからっ!!歴史ウォーキングしてる人がこんなに一杯いるのにちょっとは遠慮ーー違うな。自重せえやっ。
こうね。価値観違うともうダメダメなのな。だから教育って大事なのよ。ちなみに。推定35才のお母さんのそばには、推定70才の祖母の姿もありました。この祖母もまたお母さんの妖怪ダンスを手拍子+妖怪ウォッチソングを熱唱してます。彼女達は、息子(孫)を喜ばしたいのでしょうが、冷めた目で周りが見ている事に体操疲れて終了するまで奈良時代の歴史遺産の金堂の礎石の上で踊り狂って退場してゆきました…。ああ。非日常~。まさに突然私は妖怪に行き会ってしまった気分でしたよ。ええ。
さて、ここまでは去年も訪れた場所ですが、こっから先は去年行きそびった場所です。だから…。場所が今一つわからんのだ。
国分寺歴史・観光マップ片手に南東を目指す。数分後、人だかりを発見。

武蔵国分寺跡 七重塔跡です。
説明板発見:この塔は「続日本後紀」によって承和2年(835)に雷火で焼失し、10年後に再建。
昭和39年の発掘調査の結果、塔基壇が修復されていることや礎石の下に瓦片が大量に詰め込んでいることなどが明らかになり、この事が証明されました。
塔の再建にあたっては北方建物の新築・講堂の増築・寺地内付属諸院の整備なども併せて行ったようで、創建以来の本格的な造営事業に発展したと推察されます、だそうで。
ちょうど歴史ウォーキングのグループがやってきて解説し始めたので聞き耳を建てていると、「このイチョウのすぐそばに塔の心柱がありました。高さは…」
へえ~へえ~。

画像奥中央がイチョウです。まだ黄葉してませんが、かつてこの場所に七重の塔があったのね。
さて、現国分寺へ戻ってきました。今日は西にある国分尼寺の見学はパスします。前回はそっちへ移動して見そびった場所があるので、こっちを優先したいのです。
ちなみに、去年の国分尼寺の記事はこちら。ちなみに、この記事に国分寺僧堂金堂の在りし日を再現した画像が掲載してあります。歴史散歩をしていると、あちこちに図解した説明板があるよ。国分寺の教育委員会って凄いよね。
武蔵国分寺跡僧堂金堂・尼寺(2013年12月5日)の記事
国分寺前を西へ。すぐに階段発見!
階段を上がると国分寺仁王門がありました。

説明板発見:この門は、宝暦年間(1751-1763)に建立された入母屋造の八脚門で、間口が9メートル、奥行きが3、6メートルあります。
使用されている建材は、『新編武蔵風土記稿』の仁王門の条に、「この門近世までの薬師堂なりしを再興の時きりちぢめて仁王門になせり」とあるように、建武2年(1335)に建立された旧薬師堂(江戸時代始めの頃の「国分寺村古絵図」によると僧寺の金堂跡付近にあった)に使用されていたものを再利用したと伝えられていますが、杉材の柱などに残る組み立て用の穴の彫り方からこのことがうかがえます。

この門の左右には、阿(口を開いている)吽(口を閉じている)二体の仁王像(高さ2、5メートル)が安置されていますが、享保3年(1718)に造立されたものです。だそうで。
見た感じ瓦が新しいから最近の建物かと思えば…。宝暦年間作とか。でもさ、門より仁王像が古い年代というのは今一納得いかない…。
さて、仁王門の奥にも石段がある…。今回の散歩で何回坂を上り下りしてるんだろうな…。フウ~~。

まずは参拝。だいぶんヘトヘト。あ。説明板発見:薬師堂に安置されている木造薬師如来座像は、平安時代末期あるいは鎌倉時代初期の製作と考えられています。寄せ木造りの漆箔仕上げで像高は約191、5センチあります。(とはいえ、基本非公開、東京都文化財公開ウィークの時に公開)
薬師堂は、建武2年(1335)に新田義貞の寄進により国分僧寺の金堂跡付近に建立されたと伝えられているもので、その後享保元年(1716)に修復されましたが、宝暦年間(1751-1763)に現在地に再建されたものです。 だそうで。
え~と??新田義貞が寄進って、分倍河原の戦い(新田義貞VS鎌倉幕府)で敗走した時に国分寺を焼いてしまったから償いで再建したって事か?あ。分倍河原の戦いは、一度敗走した翌日未明に幕府軍を急襲して新田軍が勝ちました。これが1333年5月16日の事で、この戦いに破れた鎌倉幕府はこの後に守勢に廻る事になりました。

薬師堂の前にあった石仏。なんか頭が小さいような…。後づけか?
時刻は15時を回った所。11月も半ばともなると日が落ちるのが早い。ぼちぼち帰宅しますか。

北上していたら、なんか案内板を見つけました。
ここは市立歴史公園史跡東山路武蔵路です。

この画像のが分かり易いかな?7世紀後半から8世紀前半にかけて整備された都と地方の国府を結ぶ幹線道路(七道)の一つです。画像中央の大きな面積を占めているのが道路部分。左右に側溝が色を違えて書かれてます。側溝から側溝まで左右に歩いてみたら、私の歩幅で26歩ありました。日本の7世紀といえば飛鳥時代ですよ。都っていったら奈良県にある明日香村です。え~と?大化の改新が645年で、その後の600年代後半の出来事は、天武天皇とか?あ。694年に藤原京遷都というのがあった!んで701年が大宝律令の制定ですよ。んで710年に平城京遷都です。そんな時代の武蔵の国…。地方の庶民。国分寺は最先端の建物!だからすんご目立っていたのでしょね。いや。違う違う。そんな時代に10メートル超えの道を地方へ繋げるって発想が凄いんだ。
発掘時の様子。説明板がありました。
中国の真似でしょうが、そのまま日本で再現しよう!となぜに思ったのか??ちなみに、去年品川宿歴史散歩をやったんですが。
旧品川宿文化財ウォークラリー(2014年1月25日)の記事こちらの記事で、旧品川宿を通る東海道の道幅が分かる画像があります。
その時旧東海道を歩いたんだけどね。道幅は飛鳥・奈良時代に作ったこの東山路武蔵路の半分もなかったよ。広い道の意味がわからないわ。

移動してこちらは東山路武蔵路跡です。
画像奥に向かって路は続いてます。先ほどの歴史公園からはほとんど離れてません。ってか、かつては路続きです。画像の左右の地面の色違いの不揃いな線がわかります?これが痕跡ですね。

現存させてる国分寺市が凄いと思うんだ。
さて、ここからJR中央線国分寺駅まですぐです。え~と?どれくらい歩いたんだろうか?ーーーえ?18000歩超え?これ、帰宅したら20000歩に乗るよね?つーか、カウンター壊れてるんじゃないの??(尾てい骨と脇腹が途端に痛み始めてしまった…)つ・疲れた…。
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国分寺歴史散歩

2014年11月20日 01時28分40秒 | 歴史散歩
JR中央線国分寺駅南口徒歩2分にある殿ケ谷戸庭園を見学した後、国分寺崖線を下り、西を目指しました。
殿ケ谷戸庭園から約1キロ程のところに、細い昔テイストの水路に沿った道があります。

これがお鷹の道です。
江戸時代に終わり徳川家のお鷹場だったことに由来して、「お鷹の道」と名付けられた散策道です。
湧水群の清流には、「ホタルが生息しています。貝を取らないで下さい」といy看板が立ってます。
う~む…。国分寺の自然力凄いなあ~。

お鷹の道はウォーキングに最適のようで、ウォーキングを楽しむ人が多く行き交ってます。

ここ、画像右手に八百屋さん、画像の左側には直売の果物屋さんがあります。果物屋さんは、畑にみかんや柿が植えてあり、もぎたてを販売しています。
でも目的地は画像奥にある真姿に池湧水群です。ここは東京都指定名勝&環境省選定名水百選&都名湧水57選の三冠を獲得しています。

なんか、ペットボトルに水を詰めてる方がいました。
これ、散歩していると、たま~に見かける光景です。でもさ。ここの水をゲットするのって難易度高そうだ。だっておばさんの足元はただの杭なんだもん。
ま。もっとも、万一小川に落下しても水位は5センチ程と見えるので危険は低いのでしょうが…。
去年2013年11月29日に訪問した時、真姿の池湧水群のポイントでお鷹の道へ引き返してしまいました。でも今回は目の前の国分寺崖線を登るのだっ!

雑木林が茂る石段を上がると、そこは市立歴史公園 史跡武蔵国分寺跡・僧寺北東地域の歴史ポイントがあるのです。
上の画像の右上、赤い区画が僧寺の北限です。そして現在地。境界溝の一部を残し公園になっています。
発掘したトレンチ跡が一部見れる様になってました。
幅2、1メートル 深さ0.8-1.2メートルあり、地下に埋没した溝の様子を復原した断面ですね。平成14年発掘調査において採取された北辺遺構の剥ぎ取り標本を元に作成。遺構が検出した高さに展示してあるそうです。
お鷹の道へ戻り西へ。まもなく国分寺市おたかの道湧水園が見えてきました。

ちょうど歴史ウォーキングイベントが開催されているようで、小さなグループが案内人に連れられて、次々と移動していきます。奥にケヤキの大木が見えてます。園の入口は、江戸時代後期の弘化3年(1848)に建てられた旧国分寺村の名主家の長屋門があります。案内してる方が「もうすぐ改修に入ります」と言っていたので、興味のある方はお早めに~。入場料100円。休館日:月曜
さて。歩き疲れたので、設置してあるベンチでおやつ休憩を。
時刻は14時17分になってました。
休憩の木のベンチ&机は人気です。ウォーキングの方達の利用頻度が高い。私らも次の人に席を譲り移動です。すぐに見えてきたのがトップ画像。
国分寺楼門です。市の重要有形文化財。東久留米市の米津寺(米津出羽守田盛の菩提寺として創建された寺)の楼門。明治28年に移築したもの。 長くなったので明日に続きます。明日は武蔵国分寺跡を散策します。

うちは商店街の中にあります。そこそこ人通りが一日中あるためか、今日は散発的に一日中選挙活動が行われてます。具体的にはマイクパフォーマンスですね。
え=と?既に解散したんだっけ??
最早選挙活動していいんだっけ?
今回の選挙は「国民に信を問う」為とか安倍さんは言ってるようですが、投票先がないんですが、どないしたら…。こう振り上げた拳を降ろす先がない!というのが正直なところです。
安倍さんは景気回復~とか言ってましたが、うちの商店街は去年の後半から悪くなる一方です。
具体的には年配の商店主が消費税増税に心折れたのか、次々と店を畳んでいってます。それは倒産でなく廃業なので、景気調査などの統計には反映されないのでしょうか?シャッターの降りた店の割合が去年の後半からどんどん増えていくのよね。たまに新規開店する店もないことはないのですが。急に寂れた印象は拭えません。といって、我が家の財布のヒモもぎゅうぎゅうに絞ってるので、商店街にそうそうお金は落とせないんだけど。

またマイクパフォーマンスを下でやってます。日が暮れて聞き取り易くなってきて、どこの誰がやってるのか分かりました。
犯人は民主党のごとうさんです。
なんか、党で攻め方を決めたのかな?同じセリフを延々繰り返してます。
いわゆる刷り込み&洗脳狙いなのでしょうか?セリフの長さは原稿用紙1枚超えないくらい。
耳に甘くいいことを言ってるんだけど、民主党は言った事を実現しても国の借金を増やしまくっただけの政治だっただけに、聞けば聞くだけ不快さがまして行く。つーか、うるさいんじゃ!他へ行けや。
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学園の中に江戸・明治?

2014年02月03日 05時55分48秒 | 歴史散歩
啓明学園は多摩川に面して立ってます。園内のグラウンドや体育館は川に面してありまして、建物は斜面の上に立ってます。

啓明学園のそぐ外の多摩川には、戦国時代に武田vs北条が戦った古戦場なのかな?信玄つつみが現存しています。信玄は2万の軍勢でもって攻め拝島に陣を敷きました。ちなみにトップ画像の奥に写っている川向こうの小高い山は、滝山公園です。滝山公園は多摩川と秋川の合流点にありました。かつては北条氏の枝城でした。
ちなみに上の地図の上下に分けるのは江戸時代に昭島・立川をうるおしてきた立川堀の跡です。
さて、旧三井家拝島別邸北泉寮の外観を見学した跡、案内人に連れられて向かったのは学園の最奥に広がる森です。森の中に江戸の昔の八王子から拝島を抜ける道が残ってます。
こちらが八王子方面。
下り坂です。
こちらが拝島駅方面。かつての道は本当に狭いよな~。
森の中にポツンと建つレトロな建物。

三井家別邸時代の建物です。こちらは「放置」されてるのかな?外観をぐるりと巻くように散策路を進みました。



覗いてみた。これは…。ビリヤード場??わからん…。つーか、案内人は説明してたのやもしれませんが、この日のツアー参加者は30人超えでして、列の先頭の案内人の声は届きません。
なのでポツポツ写しつつ列についてきます。







訪問したのは11月14日でした。既に紅葉が始まってます。去年の秋は早かった。







思いがけず早めの紅葉を楽しんだら、旧三井家拝島別邸の建物に戻ります。

建物の周りは今は駐車場になってまして。木の隙間にポツポツ車が止められてて…。こういう駐車場昔はよくあったよなあ~。

さて、玄関に回りました。でも上の画像は旧鍋島藩のお殿様の建物部分じゃなく三井家の時代に増設した部分だったハズ。
あ。こちらが入口です。


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旧品川宿文化財ウォークラリー2

2014年01月26日 06時09分09秒 | 歴史散歩
チェックポイント一つ目、法禅寺を訪れた後、旧東海道に戻り下る。2つ目は養願寺さんです。
ンでも…。観光協会でいただいた地図はもうざっくりで場所が…。
ん?
来い来い??前方で手招きするおばさんが??
何かしら~?

おばさんは、旧品川宿ウォーキングラリーのボランティアさんでした。
ラッキー~。つーか、このイベント至れり尽くせりだなあ~。
その前に…。
おばざんが示す養願寺さんの入口の道の反対側に、なんか小さいけど派手なお寺?があるのだ。これは…。

一心寺さんでした。

一心寺さんの由来:1854年、日本開国の機運が迫る中、安政2年(1855)に大老井伊直弼が「鎮護日本・開国条約・宿場町民の安泰を願え」との霊験を得て開山したと伝えられます。<別説あり>
江戸33観音霊場30番札所。東海道七福神の寿老人です。
本尊:成田山の分身の不動明王
実は、由来の詳しい案内板を撮影してあったんですが、影の部分が真っ暗で判読出来ません。あ~、こんな事ならウォークラリー直後に記事を書いとけば…。こういうのも後悔先に立たずって言うんですかねえ。
さてウォークラリーポイントへ戻ります。
2)養願寺(虚空蔵尊)
いただいたコピーによりますと、「明鏡山善行院と号する天台宗の寺で、正安元年(1299)の創建と伝えられています、江戸時代初期の寛文年間(1661-73)に再興されました。
かつては阿弥陀如来が本尊で、境内に別に虚空蔵堂があり、「品川の虚空蔵さま」と言われて親しまれていました。
現在、虚空蔵菩薩は本尊として本堂内に祀られており、4月の第二土曜日と11月の第二土曜日には大祭が行われ、護摩が焚かれ、多くの参詣人が訪れています。丑年寅年生まれの守護神でもあります。

本堂が飾り立てられているのは今日がお祭だからか~。
ンでも、ここの境内は狭い。出店も出てない。
「2時より護摩焚きをします。希望者は本堂までお越し下さい~」
時刻を確認すると、13時25分。う~む。待っていてはウォークラリーの受付時刻に間に合わない~。諦めます!奥に木造不動三尊像(品川区指定文化財)これって、今日が特別なのかな~?
頭を捻っていると。近在の歴史好きのおばあさんと境内で行き合う。
「この近くにね、小泉長屋があったのよ~。ご存知?」
「いえ、全く。品川へ来たの、今日が始めてなんです~」
「あら?行ってみる??」
「ぜひ~」
っと、小泉長屋はすぐそこだった。ンでも、今では街中の小さな公園でした。そこに説明板が残ってました。
小泉長屋:北品川宿の字名で、面積5反8歩(4984平方メートル)の地域です。寛文4年(1664)に板倉主税の抱地になった地で、その後、祐心という人物の所持となって百姓地となり、寛延のころ(1748-50)に祐心が小泉屋金左衛門に譲り、同地に貸長屋を建てたため小泉長屋と呼ばれました。」だそうで。
「この後、どうなさるの?」とご婦人は尋ねるので「ウォークラリーの次のポイントが品川神社なんですが」
「なら、この前の道を抜けると近いわよ?」
「や~。さっきちらっと見えたレンガ塀を近くで見たいんです」
「あら?そうなの?じゃあこっちからね~」と。とても親切です。
歴史巡りをやっていると、ちょいちょい歴史好きな方を行き合う事がありまして…。そうなればもうラッキーなのです!!

赤れんがを抜けると、出店が一杯!!
これは何~~!?
「虚空蔵尊のお祭だから」
そうなのです。第一京浜から旧東海道を結ぶ北馬場通りが、虚空蔵尊まつりで賑わってました!ウォークラリーが11月9日と、東京都文化財ウィークの開催期間からすると、少し遅めだったのはここのお祭合わせに設定したからの模様。
「あれが品川神社さん」

う。階段登場です。
つーか、なぜに鳥居より上に人が一杯いるのか~???

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旧品川宿文化財ウォークラリー

2014年01月25日 05時55分41秒 | 歴史散歩
東京都ではより多くの人々へ文化財を見近に感じてもらうため、都内にある文化財を一斉に公開する事業と、文化財めぐりや講座を行う企画事業を、毎年11月3日を中心とした1週間に行っています。
数多い公開事業のうち、去年は2本の文化財巡りに申込みました。ところが、10月26日に開催だった小金井市・滄浪泉園から調布市・近藤勇生家跡ウォーキングは、台風襲来で中止となってしまいました~。せっかくウォーク申込してあったのに…。
そして、もう一つ申込んであったのが、11月9日に開催された旧品川宿文化財ウォークラリーです。
すっかりこれ、既にブログ記事にしてると思ってたのですが、記事に既出なのは旧品川宿ウォークラリーの前に訪問した新宿御苑の皇室ゆかりの菊花展でした。 その記事はこちら。新宿御苑皇室の菊花壇展2013(2013年11月19日)の記事 新宿御苑菊は段後編(2013年11月20日)の記事
ってな事で、早速、2013年11月9日(土曜)午後1時から開催されたウォークラリーをご紹介しますね。
私、こういうどこかが主催するイベントに参加したのはこれが始めてだったのですが、いや~、期待以上に素敵でした。
受付は午後1時から1時半に、京急北品川駅徒歩3分の旧東海道観光案内所へ集合。
当選ハガキ持参で、保険料50円を支払うとウォークラリーセットを渡されて各自スタートです。

ちなみに、上の画像のうち、オレンジのカードケースと、絵はがきセットは完歩記念で渡されたもの。画像のうち、ボールペン・A4クリアケース・地図・ポイント解説コピーが最初に渡されたもの。
文化財ウォークラリーは、設定時刻内にポイント通過しなければなりません。
1)法禅寺 受付時刻13:00-13:45
2)養願寺 受付時刻13:15-14:00
3)品川神社 受付時刻13:30-14:30
4)長徳寺 受付時刻14:00-15:15
5)天妙国寺 受付時刻14:00-15:30
6)品川寺 受付時刻14:15-15:45
7)海雲寺 受付時刻14:30-16:00ゴール
ではスタートです。
 
ン。チェックポイントを目指して歩いてるのですが、道中の道はかつての旧東海道なのです。トップ画像がその道です。かつて日本で一番有名な道だった東海道ですが、今見ると道幅が狭いのね。道のあちこちにかつての東海道の名残があります。ついつい立ち止まってしまいます。
上の画像は、左が問答河岸跡の碑。右が土蔵相模跡です。
説明板発見:土蔵相模跡
旅籠屋を営む相模屋は、外壁が土蔵のような海鼠壁だったので、「土蔵相模」と呼ばれていました。
1862年、品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉晋作や久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、同年12月12日夜半に焼き討ちを実行しました。幕末の歴史の舞台になったところです。」以上。

旧東海道の道筋には、関東大震災の後はやった看板建築の建物がちらほら現存してます。

さて、13時11分。チェックポイントの一つ目。法禅寺に到着です。
法禅寺は浄土宗の寺で、開創は至徳元年(1384)と伝えられています。本尊は阿弥陀如来座像です。
浄土宗の宗祖法然上人は、治承3年(1179)、念仏を広めるために、奥州に派遣していた弟子に、自らが彫った自分の像を届けさせました。
使いの陰陽師が奥州に下る途中、品川の草庵で一夜を過ごし、翌朝出立しようとすると、法然上人の像が動きません。この地が念仏に所縁があることを感じた陰陽師は、この像を安置して立ち去りました。後に言誉(げんよ)上人が堂宇を建立し、法禅寺と称したのがこの寺の由来であるといわれています。(コピーより)
以下は、法禅寺さんでみかけたあれこれです。
 
品川小学校発祥の地の石柱。 流民叢塚碑(品川区指定文化財)
説明板発見:流民叢塚碑は、天保の大飢饉の際に、品川宿でも多くの餓死者が出ました。北品川宿では餓死者を法禅寺に葬り、塚を築いて、正面左右に各3体の六地蔵を安置しました。流民叢塚碑は、明治4年(1871)に建てられ、この塚の由来が記されています。
 
法禅寺板碑(品川区指定文化財)
安政元年(1854)、品川御殿山で品川台場築造のため土取り作業をしていたところ、多くの板碑が出土したため、この寺に納められ供養されました。
最も古いものは徳治3年(1308)、最も新しいものは延徳2年(1490)の銘が確認されていて、破片も含めて総数121基ある。
ちなみに板碑は木製ではありません。石材は、主として秩父長瀞産の緑泥片岩(青石)が使われています。

法禅寺のイチョウ(品川区指定天然記念物)
推定樹齢350年から400年。樹高25メートル。幹の周囲は約3、4メートルの大木です。
この辺りで気付いたのですが、このウォークラリーは、各自でチェックポイントを自由に周るのですが、観光協会の指定時刻にいけば、現場でボランティアさんの解説付きです。もちろん法禅寺さんでも解説付き。
しかも分かりにくい場所だと、旧東海道の入口でボランティアさんが場所案内をしてくれる至れり尽くせりでしたっ!うわ~~、テンション上がって来た~~っ!!

うきうきしながら次のポイントへ向かいます。
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武蔵国分寺跡僧堂金堂・尼寺

2013年12月05日 05時09分46秒 | 歴史散歩
「天平13年(741)、聖武天皇は鎮護国家を祈念して、諸国に国分寺(僧寺【金光明四天王護国之寺】と尼寺【法華減罪之寺】)を建立するように命じました。武蔵国では国府(現府中市) 武蔵国府跡(2011年4月22日)の記事 に近く、都へ通じる東山道武蔵路沿いの広大な平地と東西に連なる国分寺崖線の麓、豊かな湧水をもつ現在の西元町一帯が好所として選ばれました。
国府とともに政治・文化の中心として栄えましたが、鎌倉時代末に分倍河原の戦いで焼失しました。
武蔵国分寺跡と関連する遺跡は、東西1、5キロ。南北1キロにおよび、諸国の国分寺跡と比べ規模が大きく、歴史的に指定されました。現在は、僧寺中枢地区の史跡整備を行っています。(国分寺の歴史と観光マップより)」
トップ画像は、昨日の記事最後に出て来た真言宗国分寺から南へ徒歩数分の所にある武蔵国分寺跡僧寺金堂跡です。
柱が乗っていた基盤の石しか残ってない。や。これだって、元からあったかわからない。
再現図解のある説明板発見:

金堂は本尊仏を安置する重要な建物です。現在は、基壇の高まりとともに19個の礎石が往時のまま残っていました。」
おおっ!この石は国分寺がこの地にあった頃に実際に使われてた石なのですね。それは凄いです。
「金堂は桁行7間(東西約36、1メートル)梁行4間(南北約16、6メートル)の四面庇建物です。
軒の出は、16~17尺と推定され、組み物を多用した大きな屋根がかかっていたと考えられます。

基壇
深さ1、3メートル程の彫り込み地業を伴う版築工法により積み上げられ、外装は河原石による乱石積です。規模は東西約45、4メートル。南北約26、2メートルを測り、外周には雨落石敷がめぐります。高さは北東部分で約95センチ。北面中央で約80センチ。東西で約125センチと場所により異なります。

礎石
本来は36個の礎石が存在していましたが、後世に持ち去られ、19個の礎石が残存しています。礎石は多摩川上流から運ばれたものと思われます。」
画像に写っている生徒達は、校外学習中の…中学生かな?校外学習は複数班に別れて実施中。
私の田舎にも母神山という古墳群があります。ンでもきちんと保存されてなく、あんまり学習には役立たない。ちゃんと遺跡調査発掘してなおかつ保存してる国分寺市は偉い。キミ達がどんなに恵まれてるか大人になり『我がふるさとの歴史』に興味が出た頃にたぶん気付くよ。
さて、金堂を見た後、どっちへ行けば…。
あ。校外学習の別の班が西伸びる道からやってきた。あっちに何かあるんだな。
行ってみた。
と。中学校の校舎の一角に、文化財資料展示室発見!
国分寺市文化財資料展示室は入館無料。(休館日:月曜・9:00-17:00)。
中学校内から出土した瓦・土器・鉄製品などが展示されています。ここからすぐの国分尼寺の整備事業を紹介する資料もある。

上の画像は、今から20年前の国分寺市の空撮写真に、天平の国分寺史跡を重ねたらかつての国分寺がとても大きかった事がわかります。ちなみに、上の画像の上部1/3程の所を横に連なる緑の部分、だいたいこの辺りに国分寺崖線があると思って下さい。あと、画像中央に四角が二重・三重に重なっている部分が先ほど見て来た金堂跡です。
資料展示室でとても丁寧に説明して下さったおじさんに感謝です。ちなみに、昨日・今日の記事に何度も登場する『国分寺歴史・観光マップ』はここでいただきました。先に手に入れる事が出来ていたら、真姿の池湧水群の所で崖線を上ってました!くう~~。
さて、おじさんに教えてもらった武蔵国分尼寺跡に向かいます。
JR武蔵野線の線路の下をくぐるとすぐに見えて来た。
「平成19年に日本の歴史公園100選」に選定されました。
尼寺は東山美道武蔵路の西側に建立されました。現在は史跡の保存整備も終了。

公園には尼寺の主要伽藍の規模、基礎工事の様子を見学出来るように、堀立柱塀の一部復元や、東門、中門の位置表示、尼坊の礎石復元、指定金堂跡の基壇復元。基壇版築のはぎ取り標本の観察施設などがあります。(国分寺歴史・観光マップより)」
復元図もありました。



この木株もただモノではない。
尼坊跡の復元図もある。

尼坊は、尼僧(女性の僧侶)の住まいです。桁行き15間(約44、5メートル)、梁行き4間(約8、9メートル)の東西等暦石建物)の本瓦、切妻造りでした。
柱の下にあった礎石70個は全て失われましたが、基礎工事の礎石据付掘方が規則正しく並んでいます。

ナナメに突き出した丸太は、どう竿(かん)跡です。
上の画像奥に、尼寺の北側の壁の一部が再現されています。
また、尼坊跡に置いてある礎石は、整備にあたり往時と同じ多摩川産の石を新たに据えたものです。
尼寺は、奈良時代中頃、聖武展王の詔により、鎮護国家を祈願する官立寺院として国分寺(僧寺)とあわせて国分尼寺が国ごとに建立されました。尼寺の正式名称は、「法華現在之寺」と定められた。「法華経」は女人成仏を説いており、尼寺の成立には女人救済を願う光明皇后の意向が大きく働いたものとも考えられています。
尼寺は東西約150メートル。南北160メートル以上の範囲を素堀溝で区画した中に、南大門(未確認)・中門・金堂・講堂(未確認)・尼坊を中軸線上に並べてありました。
以上、説明板に詳しく書かれてました。

国分尼寺跡には公園が隣接しています。木は秋色でとても綺麗です。
さて、次は…。「国分寺の歴史・観光マップ」を取り出すと、すぐ北に伝鎌倉街道があります。
ン?鎌倉街道って、町田の薬師池公園近くにもあったよね?あれのこと??

行ってみた!
いい感じに紅葉してた。ここを歩くのも楽しそうだ。
っと…。反対側まではすぐだった!ちぇっ。

さて、またまらマップを広げてみる。と。伝鎌倉街道の両側に、伝祥応寺と塚跡というのがありました。
階段発見!上がってみた。

うん。何もないっ。しかも落葉が多くて礎石があるかどうかも分からない。
説明板発見:伝祥応寺跡(中世寺院跡)
本跡は尼寺伽藍の一部とする説もあったが、近年の調査によって、鎌倉時代末頃に建てられた寺跡と判明し、本多4丁目の祥応寺の前身にあたると考えられている。旧鎌倉街道と言われる切り通しに東面して土塁(基底部幅3メートル・高さ1、2メートル以上)と溝とで東西30メートル、南北45メートルの長方形の区画が形づくられている。現存する大小15個の礎石の分布などから、東西9メートル、南北18メートルほどの規模の堂がその中央にあり、瓦を用いない建物だったと推定される。
とありました。階段を降りて伝鎌倉街道へ。反対側には塚跡ああるハズ…。って、つ・疲れた。最早階段を上がるのが嫌!坂道も嫌!!
なので。塚跡はパスします。つー事で、もうJR西国分寺駅を目指そうかな~??
いや。ここまで来たならば。
『ブラタモリ』でタモリさんが歩いてた道が見たい。
って事で、再び武蔵国分寺公演を目指す事に。ああ…JR武蔵野線の上部を横断する道の階段が辛い…。
 
そんなこんなで到着した市立歴史公園、史跡東山道武蔵路です。
上の画像は、東山道武蔵路の南側の延長にあります。わかりにくいのですが、画像の手前から奥に伸びる赤い線。これは画像の左側にも伸びてますね。この幅にかつて道が走ってました。一見してもわかりませんが、かなり広いです。先日、旧品川宿東海道を北品川駅から青物横丁駅まで歩きましたが、旧東海道の倍以上広いかも?これが奈良時代、天平の時代に奈良まで続いていたとはっ!!びっくりですね。
ちなみに、タモリさんが歩いていたのはこちら。下の画像のとても広い歩道の左右に、不自然な黄色いペンキみたいにあるのが、かつての東山道武蔵路の跡です。
国史跡
日陰になって分かりにくいので、説明板の上から見た写真を。
 
約340メートルの直線道路跡が復元されています。つーか…。なぜに奈良時代にこんなに広い道を作る必要があったんだろう…。こんなに広い道が必要なのってーー巨人なの?
何言ってんだ~~っ!!自分にツッコミしたものの、頭の中で進撃の巨人の紅蓮の翼が鳴り続けちゃいましたっ!!
この後、JR西国分寺駅へ向いました。最後に落し穴…。駅の入口が分からない~~。何でや~~っ!!
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東京・神奈川の紅葉2013

2013年12月5日:12月3日に撮影した新宿御苑の紅葉の画像を約20枚追加しました。
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