あられの日記

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ルフィ?

2015年10月21日 04時50分01秒 | 歴史散歩
猿島の切り通しの左右に残る兵舎や弾薬庫の要塞施設、赤煉瓦のトンネルを抜けた。道が左右に別れていた。とりあえず左手から~。
まず目に入ったのは広場。そこに残る円形のーーって。
なぜにルフィ??
そういえば、猿島は非日常の要塞跡があり、「日本ぽくない感じに引かれてコスプレーヤーが撮影に訪れる」って記事を読んだ事がある。
ま。日にちが悪かったね。普段は1時間に1便しか発着のない猿島航路が、客をピストン輸送してますからね。一般客が写らないように撮影するには無理がある!日が悪かったと諦めたほうがいいよ。

とはいえ、猿島航路は往復1500円もかかるのだ!なんとかして撮影しようと撮影スポットを探してレイヤーさんは頑張ってます。無理だと思うけど、頑張ってくれたまえ。
さて、レイヤーさんたちがポーズを決めてる円形は模様ではありません。実はこれ砲台跡なのです。
説明板発見:日本が鎖国をしていた19世紀中ごろ、江戸幕府は異国船の江戸湾侵入を防ぐために、全国初の台場(大砲を据える台)を猿島に建設しました。以来、猿島は”要塞の島”としての歴史を歩み始めます。
やがて明治時代中期、明治政府は、東京湾の守りを固めるために、猿島に砲台と要塞を設けました、砲台には敵国の戦艦を迎え打てるようフランスから輸入した砲が配備されました。しかし海から空へと、戦法の主流が急激に変化したことなどにより、実践で使われる事はありませんでした。その後しばらくの間、猿島は軍事拠点としては忘れ去られていましたが、第二次世界大戦の激化とともに戦場が本土へと迫り、再び防衛施設として活躍されることになりました。(以降、画像状態が悪く読み取れません)まあね。円形が砲台跡と理解していただければ。

トップ画像の右奥に、下へ向う階段があるのが見えますか?階段を降りると磯が見えます。

上の画像奥が浦賀水道です。
トンネルを抜けた所で左右に別れていた場所へ戻り、今度は右手へ行きます。
と?下へ向う道を見つけました。
猿「島」だからね。高低差はあるのは分かってたけどね。
つ・辛い。そもそも米軍の空母、ロナルド・レーガンを見るために1時間行列した後でね、足がもう疲れてるの、下り坂の先にあったのは広場です。ここは台場跡(江戸時代末期)です。説明板によると、この付近の斜面一帯には幕末に建設された砲台である卯の崎台場がありました。
江戸幕府が異国船の江戸湾侵入を抑えるため島の3カ所に建設した台場のうちの1つで、弘化(1847)年に完成しました。ここ卯の崎台場には3門の大砲が据えられ、普段は雨覆いが掛けられていました。その後嘉永6(1853)年にはペリー提督が黒船を率いて猿島の脇を通過し、その際に猿島を「ペリー・アイランド」と命名したと伝えられています。」へえ~。

眼前の海に様々な船が行き交っています。
目を凝らすと第二海堡が見えました。
う~む。画像にはちっとも写ってませんが、歴史説明ツアーが次々とやってきます。この人ら、事前に申込んでた人かしら?猿島専門ガイド協会というのがありまして、1ツアー辺り3000円だったっけ?でガイドさんを雇って周れるのだ。

砲台跡はいくつも残ってます。これはたぶん昭和の高角砲のかな?違うか?

切り通しのトンネルに合流する場所があったので、暗いトンネルを抜けてみた。



なんつーか、切り通しはだいぶ掘り込んであってね。空は雲一つない晴れなのに、暗かったのね。

ピントがぼけぼけですみません。
ここにあった説明板によりますと、この部屋は向い側の台地上にあった第一砲台の関連施設だったと考えられています。台地の両側には27センチ加農砲が1門つづ設置され、砲台下には弾薬庫や弾を上げるための井戸が陸軍によって建設されました。その後、海軍が高角砲を設置し、その通路として弾薬庫を貫いてトンネルとし、現在に至っています。
左側に見えるトンネルは島の東側へ抜ける道で、出口が直角に曲がっており、海上から見えないよう工夫されています。」とか。
確かに、船が桟橋に着いた時、海から見たら島の中にこんな施設があるとは全く分からなかった。なにか映画の撮影で使えそう~。

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