あられの日記

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小仏関所跡

2015年03月20日 00時07分56秒 | 歴史散歩
2015年3月15日に訪れた高尾梅郷梅まつり、点在する梅林の中で一番見頃だったのは荒井梅林でした。旧甲州街道に引き返し、街道を東京方面へ歩きます。
と、間もなく、雅なお琴の音色が聞こえてきました。小仏関所跡です。ちなみに、梅まつりスタンプラリーのチェックポイントでもあります。スタンプは残り1カ所です。いや~~、残りは散歩開始の遊歩道梅林入口のすぐそばにあぅったんだけど、スルーしてしまいました!ああ~、京王高尾山口駅から来たのが敗因です。スタンプ設置の遊歩道小名路会場は、遊歩道梅林入口近く、JR高雄駅側にあったのです…

さて、チェックポイントの小仏関所跡ですが、お琴で演奏される童謡を聴きつつ江戸の名残りを探します。

説明板発見:国指定史跡 小仏関跡
小仏関所は、戦国時代には小仏峠に設けられ富士見関ともよばれた。武田・今川・織田などの周辺の有力氏が滅ぶと麓に一度移され、その後、北条氏の滅亡により、徳川幕府の甲州道中の重要な関所として現在地に移されるとともに整備された。
この関所は、道中奉行の支配下におかれ、元和9年(1623)以降4人の関所番が配備された。
関所の通過は、明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)までとし、しかも手形を必要とした。鉄砲手形は老中が、町人手形は名主が発行。この手形を番所の前にすえられた手形石に並べ、もう一つの手付き石に手をついて許しを待ったという。
手形石と手付き石が説明板の隣にありました!
特に、「入鉄砲に出女」は幕府に対する謀反の恐れがあるとして重視し厳しくとりしまった。抜け道を通ることは「関所破り」として「はりつけ」の罪が課せられるなど厳しかったが、地元の者は下番を交代ですることもあって自由な面もあったらしい。明治2年(1869)1月の太政官布告で廃止され、建物も取り壊された。
*許可無くしてい地域内の地形の変更・石の移動、施設の設置、改修などを行うことはできません。   八王子市教育委員会」だそうで。まあ、知らなきゃただの石だよな。

取り壊されてしまった建物はこんな絵が設置してあったんだけど~?分かる?

説明板の隣のサンシュユが綺麗です。
さて?ところでなんで「梅」まつり会場なの?適当な広場がなかったから~?と。ダンナがくるのを待ってたら何か貼り付けしてあった!
国史跡「小仏関所」の植木剪定について
国史跡「小仏関所」の梅木につきましては、バスの運行の支障となっていたほか、樹木の成長に影響が及んでいた枝もあったため、平成26年11月に強剪定を行いました。
その影響により、開花が少なくなり、今年の梅花を楽しみにされていた方には申し訳ありませんが、ご理解いただきたいと思います。
なお、今後につきましては、樹勢を考慮して梅木の剪定を行い、長く梅花を楽しんでいただけるよう維持管理を行ってまいります」
そっか~。剪定しちゃったのね。
ちなみに、上の小仏関跡の絵図ですが、こんな解説がついてました。
「この絵図は(左側の絵図)、関所番だった4家のうち、川村家に伝わっていたものです。残念ながら、戦災により焼失し、現存していません。
小仏関は、四方を木柵などで囲われ、東西に門が置かれていました。北に山、南に川という地にあり、当時ここを通行していた人々を厳重にチェックしていたようです。
こちらの絵図(右側の絵図)は、千人同心組頭塩野適斎らによって記された「桑都日記」のものです。
もともとあった小仏からここ駒木野に移され、関所の東が駒木野宿、西が小仏宿と呼ばれるようになり、関所も「小仏関」や「駒木野関」と呼ばれていたようです。 八王子市教育委員会」だそうで。
さて。旧甲州街道へ戻ります。
ン?何かまたあった!

さすがに江戸時代からの街道だから色々残ってるのね。実は散歩途中に他にもアレコレあったのですが、途中まで撮影せずにスルーしちゃいました。つ・疲れてたんです。反省~。

なんか、病院ですが、階段と建物の壁に楽しい絵が描かれてました。

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