あられの日記

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桂昌院と清揚院の名前ばっかり~

2013年07月30日 05時26分51秒 | 墓所巡り
これを「墓所巡り」のカテゴリーに入れていいのか?それとも神社・仏閣?いやいややっぱ歴史散歩??と。随分迷ったのですが、本日紹介する石燈籠は、そもそも芝増上寺の徳川将軍家の墓所に奉納された石燈籠だったという由来から、「墓所巡り」に分類してみました。
そもそも、芝増上寺にあったハズの石燈籠が、埼玉県所沢市の狭山不動尊にある訳は昨日の記事で確認していただくとして、今日は石燈籠の見方をまず書きますね。
まずはトップ画像右端、ここに「増上寺」の文字が確認出来ますか?
この位置に石燈籠が奉納されたお寺の名前が入ります。
中央「桂昌院殿 尊前」の文字。
これが奉納する墓所のあるじの名前です。戒名が入ります。桂昌院の場合、生きてる時から桂昌院の名前を使用していたので、名前に馴染みがありますが、墓所巡りの場合、「徳川なにがし」とかの名前で探しても絶対見つからないので、事前に探す人のおくり名(法名)を調べた上で探さねばなりません。
続いて、日時。これは石燈籠を奉納した日が刻まれています。
「宝永二年(干支が入ります)六月二十二日」とあるのは、西暦1705年のこと。桂昌院は、宝永2年6月に病没してるので、この石燈籠は桂昌院が亡くなってすぐに献納されたと思われます。
最後、左端。ここに石燈籠を奉納した人物の冠位と名前が入ります。
小さく刻んであって、一番確認しづらいのもこの部分。この場合「従四位下侍従兼…~~大概ここに○○の守とか知行場所が入ります。ん「佐倉」とあるのは読めるけど…。その後、最後に奉納者の名前が入ります。
~~~~現場でもっと保存状態のいいのを探せばよかったぜ。
ギブアップです。旧字体で刻まれてるのは確実なんだけどな~。よ~め~な~い~~っ。
撮影した石燈籠は丁字門近く、本堂裏のもの。
あ!
桂昌院が誰か書くまでもないか…。でも念のため、桂昌院は徳川家光の側室にして、5代将軍徳川綱吉の生母です。夫である家光が亡くなった時に落飾し、お玉の方から桂昌院になりました。
ちなみに、一説によると、西武グループが徳川将軍家墓所跡にホテルを建設する時、1万基の石燈籠が放置されてたとか。んで、「欲しいお寺手を挙げて」と希望者に配りまくったそうなので、関東の仏閣を散策してると、あちこちに元増上寺の石燈籠があるのですね。
変だと思ったんだ~。今までにあちこちにあるから、「何でだってばよっ!?」って。ずっと疑問だったのだ。
ちなみに、狭山不動尊には当然一杯ある!

ちなみに、本堂周辺はぐるりと石燈籠が置いてあります。意味ないよな。
あ。
本堂右手にある青銅の宝塔。

上の画像右手前のね。これは桂昌院の宝塔です。
たくさん石燈籠があるので、名前を確認して歩いていると、桂昌院以外の名前が刻まれてました。

読めます?
右から「増上寺」
中央「清揚院殿 尊前」
清揚院とは、徳川家光の三男、徳川綱重の事です。
5代将軍徳川綱吉の兄であり、6代将軍・徳川家宣の父でもあります。
綱重には縁があるなあ…。
綱重の母は側室お夏の方(順性院)。綱重を懐妊した時、父の家光は厄年でした。災厄を避けるために姉の天樹院(千姫=流転の生涯を送った千姫は、豊臣秀頼の妻であり、姫路城の城主の妻でもありました)にお願いしたの。
んで、天樹院は当時江戸城の竹橋近くに住んでまして、お夏はここで出産したのだ。
既出記事に、千姫とお夏の方の墓地を訪問した話もありますので、興味がある方はぜひ記事を見て下さいね。豊臣秀頼の妻・千姫のお墓(2012年3月20日)の記事  こちらに千姫のお墓の画像があります。
さてそれたので元に戻ります。
清揚院と刻んである左手には「寛永7庚寅年9月14日」とあるのは、1630年のこと。
ってアレ??寛永年間って…。
寛永7年に綱重は生まれてませんでした。
「寛」じゃなくてコレ「寶」ですかね?なら宝永7年だから1710年です。
え~と…。徳川綱重が死んだのは、延宝6年9月14日だから1678年のこと。
あ。命日が同じだから、これ追善法要の時に奉納された石燈籠ですね。しかも33回忌の折り。誰が奉納したか気になるなあ…。
そんで左端にある誰が奉納したか?ですが、これは…。判別は全く出来ませんでした!撮影の角度がイカンかった模様。反省。次回から撮影する時に気をつけよう。
あ。疲れた。も限界なので、続きは明日の記事で。
ちなみに、オークラホテルの庭に残る、旧井伊家江戸屋敷の庭の石燈籠は…。
近江彦根藩井伊家屋敷跡(2012年9月2日)の記事 こちらに井伊家の殿が、徳川家光に献納した石燈籠の画像があります。家光の墓所は、ご存知のように日光にありますが、日光の前に一旦寛永寺に葬られていた事があるので、その隙間に献納されたのかな?
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