力を持ったマイノリティークエーカー教徒とロックフェラー - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
の追記です。
このサイトのホームページは繋がらないため、どのような方が書かれたものか、わかりません。
しかし興味深いことが書かれていますので、最初の部分をコピペさせてもらいました。
(このサイトの管理人様
作者の方、消した方が良いのであれば、お手数ですがメッセージ欄かコメント欄からご連絡ください。コメント欄から連絡をくださった場合でも、未表示にします。)
薩長因縁の昭和平成史(6) (asahi-net.or.jp)
YS/20061012
薩長因縁の昭和平成史(6)
戦前の日本人クリスチャンが多数参加した太平洋問題調査会(IPR)という国際的な組織があった。IPRはハワイのYMCA(キリスト教青年会)の汎太平洋YMCA会議の発展組織として1925(大正14)年に設立され、この年ホノルルで行われた第一回会議に始まり、58(昭和33)年の第13回ラホール(パキスタン)会議を最後に消滅している。
加盟各国に独立した支部が設けられ、日本IPRは36(昭和11)年の第6回ヨセミテ(米国)会議を最後に解散、戦後再結成された日本IPRの復帰は50年の第11回ラクノウ(インド)会議まで待たなければならなかった。
初期日本IPRを背負ったのは日本近代資本主義の父・渋沢栄一(評議委員会会長)、井上準之介(初代理事長)、そして新渡戸稲造(二代目理事長)である。その発祥にYMCAの存在があったこともあり、活動の中心は新渡戸の一高時代に影響を受けた新渡戸人脈の高木八尺(一時クエーカー)、前田多門(聖公会からクエーカー)、鶴見祐輔(晩年クエーカー)、高柳賢三、那須皓らに委ねられることになる。
樺山愛輔も第3回京都会議に参加しており、樺山の弟子とも言える松本重治や牛場友彦、樺山の女婿の白州次郎がIPRに送りこまれた。IPRは新渡戸、渋沢、樺山の弟子達の集会場所のような存在となっていた。
樺山も満州事変直後に険悪となった日米関係の修正を図るべく渡米、訪問先には米国エスタブリッシュメントが一同に集まるボヘミアン・クラブも含まれていた。また、グルーを通じて米国金融史に輝かしい実績を残したモルガン家とつながる。グルー自身がモルガン家と姻戚関係があり、グルーの妻アリスの大叔父は黒船を率いて来航したペリー提督にあたる。しかも、井上準之助亡き後、モルガン家が築いたJ・P・モルガンの社史に残る名会長として知られるトマス・ラモントとの親交を引き継いだのも樺山であり、戦後樺山の長男である丑二はモルガン銀行東京支店顧問に就任している。
樺山の人脈はロックフェラー家にも及ぶ。樺山は薩摩の松方正義の孫にあたる松本が携わった国際文化会館事業を通じてジョン・D・ロックフェラー三世と親密な関係になる。松本とロックフェラー三世はIPRで出会う。そもそもIPRはロックフェラー財団がスポンサーとして名を連ねており、その意味ではロックフェラー家が今なお深く関与するトライラテラル・コミッションやウィリアムズバーグ会議の前身とも言える。このロックフェラー三世人脈は後に吉田茂へも引き継がれることになる。
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