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タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-5(ポーランド広報センターの『戦時中のポーランド外交2』)

2023年09月13日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-番外編(戦争と語学) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で少し脱線しましたが、

タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-3(映画『バトル・オブ・ポーランド』には出てこない諜報部員たち) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-4(レティンガーはポーランド愛国者か?) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の続きになります。

 

ポーランド広報センターの『戦時中のポーランド外交2(13-24)』
Instytut Polski w Tokio

にユゼフ・レティンガー(ユゼフ・レティンゲル)とタデウシュ・ロメルのことが載ってました。

抜粋1:

14.芸術家、作家、学者が外交任務に就く

第二次世界大戦中に外交任務を果たした人々の中には、1939年以前は外務省の職員ではなかった数多くの人々がいます。錯綜した新状況下において、それらの人々の知識・経験・人脈は、ポーランドの外交政策の観点から、大きな価値をもつものでした。外交職を任せられたのは、例えば、イェジ・ギェドロイツとユゼフ・レティンゲルです。戦前は保守陣営の協力ジャーナリストだったギェドロイツは、1939年にブカレストでロジェ・ラチンスキ大使の秘書になり、ポーランドからの避難民とポーランドを脱出した公務員の救済活動に加わりました。1940年11月にポーランド共和国大使館が閉鎖された後もブカレストに留まり、駐チリ領事館のポーランド事務所を統括しました――同事務所が、ルーマニア在留ポーランド人の権益を代表するようになったからです。1946年に文学研究所を開設し、月刊誌「文化」の刊行を始めました。同研究所は、亡命先におけるポーランド思想の中心的機関になりました。シコルスキ首相の政治顧問であったレティンゲルは、1941年にソ連との外交関係が復活すると、代理大使として、復活した駐モスクワ ポーランド大使館の最初の長になりました。戦後は欧州統合と大西洋を隔てた欧米の協力を訴える、最も影響力のある人物の一人でした。

 

抜粋2:

21.シコルスキ将軍死後の外交

ジブラルタルにおける飛行機事故でヴワディスワフ・シコルスキ首相が落命した後、新たに組閣されたポーランド共和国内閣首班に就任したのは、スタニスワフ・ミコワイチクです。1943年7月14日、その内閣において、タデウシュ・ロメルが、外務大臣の地位に就きました――元駐ポルトガル及び日本公使、元駐モスクワ ポーランド共和国大使(1942年からポーランド・ソ連国交断絶まで)です。彼が外務大臣の地位にあったのは、ポーランドの国際的地位が弱体化していく時期でした。

1943年末のテヘラン会議では、ポーランド代表不在のまま、ポーランド国境の原則的な線引きがなされました。ソ連政府は当時、既成事実を積み上げるという方法を実行していました――赤軍占領下の東部ポーランド地域に自らの行政組織を構築し、ポーランド国民解放委員会という自らに服従する権力機構を作り上げたのです。ポーランド政府の弱体化した地位を表徴していたのは、1944年8月におけるミコワイチクのモスクワ訪問で、首相は戦闘を続けるワルシャワへの援助すら取り付けることができなかったことです。西側同盟諸国は、ポーランド側がソビエト・ロシアに妥協して、ポーランド国家の国境と統合を認知させる要求を諦めるように求めました。

1944年11月、対外政策、ポーランド・ソ連関係、ポーランド国家の将来像をめぐる内部対立に引き裂かれたミコワイチク内閣は、総辞職しました。トマシュ・アルチシェフスキが中心になって組閣された新内閣で、駐ロンドン ポーランド共和国政府の同盟諸国によって認証された、最後の外務大臣に就任したのは、駐ブルガリア ポーランド共和国公使だったアダム・タルノフスキです。政府がポーランド問題で下される諸決定に及ぼす影響力から引き離されてしまったことは、西側諸国の指導者たちがポーランドをソ連圏に譲り渡すことに合意した、1945年2月のヤルタ会議において最も顕著になりました。アルチシェフスキ政権は、決定に激しく異議申し立てを行いましたが、この抗議文は発表すら許されなかったのです。

 

残念ながら、『戦時中のポーランド外交1(1-12)』は削除されていて読めませんが、このウェブサイトが見つかってよかったです。

ホームページはこちらから。

Instytut Polski w Tokio

 

 

ところで、タデウシュ・ロメルが外務大臣になったのは、シコルスキポーランド亡命政府首相/将軍が亡くなってからですが、1943年のシコルスキの事故死前にも、彼と一緒に4人で映る写真があります。(この写真はモスクワで撮ったものしょうか?)

Romer, Sikorski, Anders, Klimecki - Tadeusz Romer – Wikipedia, wolna encyklopedia

一緒に映っていた2人。
Tadeusz Klimecki – Wikipedia, wolna encyklopedia

Władysław Anders – Wikipedia, wolna encyklopedia

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