Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

フィリッポ・ナルディのボス-12(行きついたのはギリシャの秘密組織「フィリキ・エテリア」)

2024年10月11日 | アニエッリ家・フィリッポ・ナルディ

フィリッポ・ナルディのボス-6(カルボナリとサンシモン主義と「ダンテとイタリア」) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

フィリッポ・ナルディのボス-7(ナルディ・マルケ~バジル・ザハロフ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

フィリッポ・ナルディのボス-8(武器商人とモナコ人脈が歴史を変えてきた?) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

フィリッポ・ナルディのボス-9(ザハロフの正体・アンソニー・アスキス監督の父と姉とビベスコ家) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

フィリッポ・ナルディのボスー10(ザハロフユダヤ人説~ナシ家とナクソス公国とワルキア公国) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

から:

 

ルーマニアのユダヤ人の歴史 - Wikipedia

を読んでみると、ユダヤ人の窮地を救った大物には、ナシ/ヴェンベニステ家、そしてマルト・ビベスコの母方の一族、マヴロコルダト(ス)がいました。

上記Wikipediaよりー

①数多くの公たちに融資を行っているトルコと在ワラキア及びモルダヴィアのユダヤ人たちは、宗主国トルコへの朝貢要求が増えると増加し、1550年以降役職をあてがわれた(1570年代では、ユダヤ系の強力なナクソス公  ヨセフ・ナシが知られる。彼はヘラクリデスとラプシュネアヌが公位に就いた際の黒幕であった)。

②1582年、シュキオプル公はユダヤ人医師ベンヴェニステの助けを得てモルダヴィア支配権を取り戻した。ベンヴェニステは、自分と同じ信仰を持つ者たちのために公に影響を及ぼすよう尽力した。

③モルダヴィアにおける最初の血の中傷(ルーマニアとしても同様に最初である)は、1710年4月5日、トゥルグ・ネアムツ(Târgu Neamţ)のユダヤ人が宗教儀式のためキリスト教徒の子供を殺害したと告発された時に始まった[14]。翌日、5人のユダヤ人が殺害され、その他は後遺症が残るほどの大怪我を負わされ、全てのユダヤ人の住宅が略奪にあった。ユダヤ人共同体の代表者たちは逮捕され拷問を受けた。一方で、一部の影響力を持つユダヤ人らはヤシにいるモルダヴィア公ニコラエ・マヴロコルダト(Nicolae Mavrocordat、モルダヴィア初のファナリオット支配者)へ願い出た。マヴロコルダトが調査を命じた結果、逮捕されていた者たちが釈放された。

④シュテファン・カンタクジノ(Ştefan Cantacuzino)公治下では重税と迫害にあい[17]、ワラキアのユダヤ人はニコラエ・マヴロコルダト公の時代(1716年-1730年)には価値のある特権を得た(マヴロコルダトは自分の宮廷にダニエル・デ・フォンセカというユダヤ人召使いを雇っていたことが知られる)

⑤露土戦争(1768年-1774年)の間、ドナウ公国のユダヤ人たちは非常な困難に耐えなければならなかった。全国ほぼ全ての町村で虐殺と略奪が起こった。平和が回復されると、モルダヴィア公アレクサンドル・マヴロコルダトとワラキア公ニコラエ・マヴロゲニ(Nicolae Mavrogheni)はユダヤ人に対する特別な保護を約束し、その状況は1787年、イェニチェリとロシア軍がポグロムに関係するまで順調であった。

 

ユダヤ系やギリシャ人(オスマントルコ、ロシア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ルーマニア等々支配者が変わることで国境が変わるので、本当わかりづらい。)にはこの家系は20世紀になっても特別なものだったでしょう。(ビベスコ家もおそらく同様。)

と思いながら、このwikipediaを読み続けると、

フィリキ・エテリア - Wikipedia

抜粋:

フィリキ・エテリア(ギリシア語: Φιλική Εταιρεία 友愛会の意)は19世紀前半にオスマン帝国統治下のギリシャにおいて活動した秘密組織。「トルコ」の支配を排し、ギリシャ人による独立国家の建設を目的としていた。

フィリキ・エテリアのメンバーは、ロシア帝国に在住するギリシャ人が中心となっていた。バルカン半島でのロシアの影響力を拡大しようとするロシア政府が、組織に物質的援助を与えていたと言われる。彼らの決起が1821年に始まるギリシャ独立戦争の嚆矢となった。

(中略)

オスマン帝国の弱体化に伴い、ロシア、イギリス、フランスの欧州列強三国による覇権争い、いわゆる東方問題が発生していた。その中、ギリシャは1774年にロシア、オスマン帝国間でキュチュク・カイナルジ条約が結ばれたことにより恩恵を受ける事となり、ロシアの保護を得たギリシャ商人らの活動が活発化することとなった。そしてフランス革命が勃発したことにより地中海東部からフランス商人らが消えたことにより、その代わりをギリシャ商人が務めることとなった[1]。

これらの活動は「トルコの軛(くびき)」から抜け出しており、ギリシャ人らに独立の気運を高める事となった。そして1800年、ロシアの保護下ではあったがイオニア七島連邦国が短期間ながらも設立され、憲法の制定などの政治的権利がギリシャ人らに与えられたことはギリシャが独立へ向かう一歩となった[1]。

その最中、18世紀末のウィーンにおいて、フランス革命の影響を受けたリガス・ヴェレスティンリスはギリシャ独立を目指して秘密結社を組織した。ヴェレンスティンリスはフランスで力を増しヨーロッパを席巻していたナポレオン・ボナパルトがギリシャに入った際には蜂起することを計画していた[2]。

ヴェレンスティンリスは『ルメリ、小アジア、エーゲ海諸島、およびワラキア・モルドヴァ住民の新政治体制』を著しオスマン帝国からのバルカン諸民族を解放してギリシャ共和国を建国する意図を持っていたが、これはオスマン帝国の知るところとなり、ヴェレンスティンリスは逮捕され絞首刑に処された[2]。

しかし、この意思はギリシャの人々に受け継がれ、1809年にパリでヘリノグロッソン・クセノドキオ(ギリシャ語ホテルの意味) (en) や1812年にはアテネでフィロムソスといった秘密結社が設立され[3]、さらに1814年、ウィーン会議の最中、バイエルンのルートヴィッヒ1世やロシアのアレクサンドル1世ら著名なギリシャ独立支持者らによって支援を受けたフィロムソス・エテリア(フィロムーソス協会とも)が設立され、ロシア外交官でギリシャ人のイオアニス・カポディストリアスが会長に就任していた[# 2][5]。

その秘密結社の中で最も重要な存在となったのがフィリキ・エテリアであった[3]。

(中略)

フィリキ・エテリアはカルボナリやフリーメイソンを参考に組織化され、位階制や入会儀式が取り入られた[2]。指導部は自らをInvisible Authorityと称して徹底的な秘密主義をとっており、周囲のメンバーの多くは、指導部にはギリシャ人にとどまらずより重要な人物、例えばロシアのアレクサンドル1世が支持していると広く噂していた[# 3][7]。実際には、この指導部は3人の創設者から成っていた。1818年までに5名のメンバーが追加され、スコウファスの死後には更に3人が指導部に加わった。1818年には名称を12使徒委員会に変えた。

 

フェリキ・エテリア自体は、カルボナリ同様衰退したとしても、そのネットワークは少なくとも20世紀まで続いているのではないか、と思います。

欧州映画界とブルジョア-12(米国とフランスのファッション&映画業界を結んだ立役者) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

(フィリッポ・ナルディが協力してきたアニエッリのジャンニ・アニエッリの顔はオナシスのようなギリシャ系に見えます。アニエッリ家はアルザスのユダヤ系やナシ家と結婚で結びついていますが、アニエッリ家の祖先がギリシャ系ということはないのでしょうかね。)


参考:

パリオリンピックのオープニングセレモニー-3(バルバラ・ブッチ・ギリシャ神話) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-10(コルシカのギリシャ移民とポッツォ・ディ・ボルゴ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

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フィリッポ・ナルディのボス-11(ルーマニアの王女、ギリシャの外交官の娘、ベルギーの王女とアルザスの富豪)

2024年10月11日 | アニエッリ家・フィリッポ・ナルディ

フィリッポ・ナルディのボスー10(ザハロフユダヤ人説~ナシ家とナクソス公国とワルキア公国) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
から:

フィリッポ・ナルディとも、バジル・ザハロフとも関係がないのですが、多くの共通の友人がいるだろう、ポール・ルイ・ワイラーとその息子ポール・アニック・ワイラーの話を。

 

ビベスコ家と同じ、ルーマニア、ワラキア公国のギガ家の王女と結婚したのが、アルザスJaval家繋がりで出てきたポール・ルイ・ワイラー。

彼の2度目の妻は

アルザスのJaval家-7(Paul Louis Weiller) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

抜粋:

1922 年 8 月 29 日にパリでアレクサンドラ ギカ王女と結婚し、娘のマリー エリザベート (妻のイリサリは 2006 年に死亡) をもうけたが、1931 年 3 月 25 日に離婚した。

二度目の結婚アリキ・ディプララコウ、ミス・ヨーロッパ1930年。アリキは外交官ゲオルギオス・ディプララコスの娘でした。彼女には 3 人の姉妹、大使アンドレ・ロドカナチと結婚したナダ・ディプララコス、作家ポール・クローデルの息子である外交官アンリ・クローデルと結婚したクリスティーナ・ディプララコス、スピロス・ヴァシロプロスと結婚したエドミー・ディプララコスがいました。必要]。アリキは 1945 年に 2 度目の結婚をし、サー ジョン (ジャック) リズリー ラッセル (1914 年 8 月 23 日 – 1984 年 8 月 3 日) と結婚しました。ジョン ラッセルの子孫であり、第 6 代ベッドフォード公爵であり、哲学者バートランド ラッセルの最初のいとこです。

彼らには、1965年にトラステヴェレのサンタ・マリアでローマで結婚した息子、ポール・アニク・ワイラー11(1933-1998)がいました。ドン アレッサンドロ トルローニア、チヴィテッラ チェージの第 5 王子、スペインのインファンタ オブ ブルボンの娘 (彼女自身はスペイン国王アルフォンソ 13 世とその妻ヴィクトワール ユージェニー オブ バッテンベルクの娘であり、ヴィクトリア女王の子孫です) としたがって、スペイン王フアン・カルロス1世のいとこ。

ギガ家

Ghica family - Wikipedia


ギガ王女と離婚して、再婚したのはギリシャ人ロマニオット(ユダヤ人)のギガアリキ・ディプララコウ。

Aliki Diplarakou - Wikipedia

Google翻訳:

アリキ・レディ・ラッセル(ギリシャ語:Αλίκη Διπλαράκου、本名アリキ・ディプララコウ、1912年8月28日 - 2002年10月30日)は、ミス・ヨーロッパのタイトルを獲得した最初のマニオット出身のギリシャ人出場者でした。彼女は以前、ミス・スター・ヘラス・コンテストで「ミス・ヘラス」(Μις Ελλάς)のタイトルを獲得していました。 家族 彼女は弁護士のゲオルギオス・ディプララコス[1]と彼の妻、元エレナ・ニコレッシの娘でした。[1]彼女には3人の姉妹がいた。 ナダ・ディプララコス(1911年~1966年)はフランスの外交官アンドレ・ロドカナチ(ロドカナチはフランスの上院議員ジョスラン・ド・ロアンの母であるロアン公爵夫人と再婚)と結婚した。 クリスティーナ・ディプララコス(1918年~1999年)はフランスの詩人で外交官のポール・クローデルの息子でニューヨーク市駐在のフランス総領事アンリ・クローデルと結婚した[2]。 エドミー・ディプララコス(1916年~1983年)はスピロス・ヴァシロプロスと結婚した[要出典]。

ディプララコス家はアテネに住んでいたが、もともとはペロポネソス半島のクリニ出身のマニオット人だった。元々の姓はヴァヴーリ(Βαβούλη)であったが、アリキの父方の祖母の旧姓であるディプララクーに変更された。 結婚 ディプララクーは2度結婚しており、夫は以下の通り。 ポール=ルイ・ワイラー、フランスの飛行士で、グノーム・エ・ローヌ複合企業の取締役。ラザール・ワイラーと妻アリス・ジャヴァル(フランス語)の息子。1932年10月31日のこの夫婦の結婚式には、作家のポール・モラン、詩人のポール・ヴァレリー、外交官フィリップ・ベルトロらが出席した。離婚前に2人の間には、ポール=アニック・ワイラー(1933年7月28日パリ – 1998年11月2日ジュネーブ)という1人の子供がいた。

彼らの息子は、1965年6月26日にローマのサンタ・マリア・イン・トラステヴェレでドンナ・オリンピア・エマヌエラ・トルロニア・ディ・チヴィテッラ・チェージ(1943年12月27日、ローザンヌ、モン・ショワジ生まれ)と結婚し、ルクセンブルクのシビラ王女をもうけた。

ジョン・ライオセリー・ラッセル卿(1914年8月23日 - 1984年8月3日)は、イギリスの外交官で、第6代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセルの子孫である。1962年から1974年まで、エチオピア、ブラジル、スペインの英国大使を務めた。1945年12月15日に結婚したラッセル夫妻には、ジョージアナ・アレクサンドラ・ラッセル(1947年生まれ、ブースビー夫人となる)とアレクサンダー・チャールズ・トーマス・ライオセリー・ラッセル(1950年生まれ)の2人の子供がいる。

経歴

1929 年、ディプララコウはミス アテネとして「ミス ヘラス」コンテストに出場しました。最大のライバルはミス テッサロニキのロクサーニ ステルギウ (Ρωξάνη Στεργίου) で、2 位になりました。ディプララコウはタイトルを獲得し、パリで開催されたミス ヨーロッパ イベントでギリシャ代表となり、1930 年 2 月 6 日にミス ヨーロッパに輝きました。 同年、18 歳のブルネットの美女は、ミス ユニバース コンテストでギリシャとヨーロッパを代表する機会を再び与えられました。このイベントは 1930 年 10 月 13 日にブラジルのリオデジャネイロで開催され、ディプララコウは準優勝しました。 彼女はアメリカを巡り、古代および現代のギリシャ文化について講演しました。母国語であるギリシャ語のほか、英語、フランス語、イタリア語も流暢に話しました。

(後略)

 

この2度目の結婚で生まれたポール・アニック・ワイラーが1998年に亡くなったときの記事です。

Obituary: Paul-Annik Weiller | The Independent | The Independent

彼が結婚したのは、ブルック・シールズの父親の家系の貴族

Olimpia Emmanuela Torlonia Borbón (1943 - d.) - Genealogy (geni.com)

で、二人の間に生まれたのが、ベルギーのギョーム王子と結婚し、4人の王子、王女を産んだシビラ王女です。

Prince Guillaume of Luxembourg - Wikipedia

Guillaume Marie Louis Christian vu Lëtzebuerg (Nassau), Prënz - Genealogy (geni.com)

Sibilla Sandra Weiller y Torlonia, Prinzessin vu Lëtzebuerg - Genealogy (geni.com)

 

いずれにせよ、大富豪(ユダヤ系含む)も政治家だけでなく、貴族、王族へと婚姻で繋がっていくケースが多いです。

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