フィリッポ・ナルディのボス-6(カルボナリとサンシモン主義と「ダンテとイタリア」) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
フィリッポ・ナルディのボス-7(ナルディ・マルケ~バジル・ザハロフ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
フィリッポ・ナルディのボス-8(武器商人とモナコ人脈が歴史を変えてきた?) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
フィリッポ・ナルディのボス-9(ザハロフの正体・アンソニー・アスキス監督の父と姉とビベスコ家) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
フィリッポ・ナルディのボスー10(ザハロフユダヤ人説~ナシ家とナクソス公国とワルキア公国) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
から:
を読んでみると、ユダヤ人の窮地を救った大物には、ナシ/ヴェンベニステ家、そしてマルト・ビベスコの母方の一族、マヴロコルダト(ス)がいました。
上記Wikipediaよりー
①数多くの公たちに融資を行っているトルコと在ワラキア及びモルダヴィアのユダヤ人たちは、宗主国トルコへの朝貢要求が増えると増加し、1550年以降役職をあてがわれた(1570年代では、ユダヤ系の強力なナクソス公 ヨセフ・ナシが知られる。彼はヘラクリデスとラプシュネアヌが公位に就いた際の黒幕であった)。
②1582年、シュキオプル公はユダヤ人医師ベンヴェニステの助けを得てモルダヴィア支配権を取り戻した。ベンヴェニステは、自分と同じ信仰を持つ者たちのために公に影響を及ぼすよう尽力した。
③モルダヴィアにおける最初の血の中傷(ルーマニアとしても同様に最初である)は、1710年4月5日、トゥルグ・ネアムツ(Târgu Neamţ)のユダヤ人が宗教儀式のためキリスト教徒の子供を殺害したと告発された時に始まった[14]。翌日、5人のユダヤ人が殺害され、その他は後遺症が残るほどの大怪我を負わされ、全てのユダヤ人の住宅が略奪にあった。ユダヤ人共同体の代表者たちは逮捕され拷問を受けた。一方で、一部の影響力を持つユダヤ人らはヤシにいるモルダヴィア公ニコラエ・マヴロコルダト(Nicolae Mavrocordat、モルダヴィア初のファナリオット支配者)へ願い出た。マヴロコルダトが調査を命じた結果、逮捕されていた者たちが釈放された。
④シュテファン・カンタクジノ(Ştefan Cantacuzino)公治下では重税と迫害にあい[17]、ワラキアのユダヤ人はニコラエ・マヴロコルダト公の時代(1716年-1730年)には価値のある特権を得た(マヴロコルダトは自分の宮廷にダニエル・デ・フォンセカというユダヤ人召使いを雇っていたことが知られる)
⑤露土戦争(1768年-1774年)の間、ドナウ公国のユダヤ人たちは非常な困難に耐えなければならなかった。全国ほぼ全ての町村で虐殺と略奪が起こった。平和が回復されると、モルダヴィア公アレクサンドル・マヴロコルダトとワラキア公ニコラエ・マヴロゲニ(Nicolae Mavrogheni)はユダヤ人に対する特別な保護を約束し、その状況は1787年、イェニチェリとロシア軍がポグロムに関係するまで順調であった。
ユダヤ系やギリシャ人(オスマントルコ、ロシア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ルーマニア等々支配者が変わることで国境が変わるので、本当わかりづらい。)にはこの家系は20世紀になっても特別なものだったでしょう。(ビベスコ家もおそらく同様。)
と思いながら、このwikipediaを読み続けると、
抜粋:
フィリキ・エテリア(ギリシア語: Φιλική Εταιρεία 友愛会の意)は19世紀前半にオスマン帝国統治下のギリシャにおいて活動した秘密組織。「トルコ」の支配を排し、ギリシャ人による独立国家の建設を目的としていた。
フィリキ・エテリアのメンバーは、ロシア帝国に在住するギリシャ人が中心となっていた。バルカン半島でのロシアの影響力を拡大しようとするロシア政府が、組織に物質的援助を与えていたと言われる。彼らの決起が1821年に始まるギリシャ独立戦争の嚆矢となった。
(中略)
オスマン帝国の弱体化に伴い、ロシア、イギリス、フランスの欧州列強三国による覇権争い、いわゆる東方問題が発生していた。その中、ギリシャは1774年にロシア、オスマン帝国間でキュチュク・カイナルジ条約が結ばれたことにより恩恵を受ける事となり、ロシアの保護を得たギリシャ商人らの活動が活発化することとなった。そしてフランス革命が勃発したことにより地中海東部からフランス商人らが消えたことにより、その代わりをギリシャ商人が務めることとなった[1]。
これらの活動は「トルコの軛(くびき)」から抜け出しており、ギリシャ人らに独立の気運を高める事となった。そして1800年、ロシアの保護下ではあったがイオニア七島連邦国が短期間ながらも設立され、憲法の制定などの政治的権利がギリシャ人らに与えられたことはギリシャが独立へ向かう一歩となった[1]。
その最中、18世紀末のウィーンにおいて、フランス革命の影響を受けたリガス・ヴェレスティンリスはギリシャ独立を目指して秘密結社を組織した。ヴェレンスティンリスはフランスで力を増しヨーロッパを席巻していたナポレオン・ボナパルトがギリシャに入った際には蜂起することを計画していた[2]。
ヴェレンスティンリスは『ルメリ、小アジア、エーゲ海諸島、およびワラキア・モルドヴァ住民の新政治体制』を著しオスマン帝国からのバルカン諸民族を解放してギリシャ共和国を建国する意図を持っていたが、これはオスマン帝国の知るところとなり、ヴェレンスティンリスは逮捕され絞首刑に処された[2]。
しかし、この意思はギリシャの人々に受け継がれ、1809年にパリでヘリノグロッソン・クセノドキオ(ギリシャ語ホテルの意味) (en) や1812年にはアテネでフィロムソスといった秘密結社が設立され[3]、さらに1814年、ウィーン会議の最中、バイエルンのルートヴィッヒ1世やロシアのアレクサンドル1世ら著名なギリシャ独立支持者らによって支援を受けたフィロムソス・エテリア(フィロムーソス協会とも)が設立され、ロシア外交官でギリシャ人のイオアニス・カポディストリアスが会長に就任していた[# 2][5]。
その秘密結社の中で最も重要な存在となったのがフィリキ・エテリアであった[3]。
(中略)
フィリキ・エテリアはカルボナリやフリーメイソンを参考に組織化され、位階制や入会儀式が取り入られた[2]。指導部は自らをInvisible Authorityと称して徹底的な秘密主義をとっており、周囲のメンバーの多くは、指導部にはギリシャ人にとどまらずより重要な人物、例えばロシアのアレクサンドル1世が支持していると広く噂していた[# 3][7]。実際には、この指導部は3人の創設者から成っていた。1818年までに5名のメンバーが追加され、スコウファスの死後には更に3人が指導部に加わった。1818年には名称を12使徒委員会に変えた。
フェリキ・エテリア自体は、カルボナリ同様衰退したとしても、そのネットワークは少なくとも20世紀まで続いているのではないか、と思います。
欧州映画界とブルジョア-12(米国とフランスのファッション&映画業界を結んだ立役者) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
(フィリッポ・ナルディが協力してきたアニエッリのジャンニ・アニエッリの顔はオナシスのようなギリシャ系に見えます。アニエッリ家はアルザスのユダヤ系やナシ家と結婚で結びついていますが、アニエッリ家の祖先がギリシャ系ということはないのでしょうかね。)
参考:
パリオリンピックのオープニングセレモニー-3(バルバラ・ブッチ・ギリシャ神話) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
ナポレオンが大物になった背景-10(コルシカのギリシャ移民とポッツォ・ディ・ボルゴ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)