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欧州映画界とブルジョア-36(ジャン・リュック・ゴダールの政治活動・従兄にジャック・シラク顧問も)

2024年10月01日 | 欧州映画界ネットワーク

ゴダールの『勝手にしやがれ』に挫折し続けて、どうにか全部視聴できたので、今日、これまた挫折し続けていた『気狂いピエロ』に挑戦しましたが、3分の一に届かぬ間に挫折。

この映画もまた、最初にベラスケスのから始まり、ルノワール含む絵のポスターや絵葉書を貼った部屋がでてきて(ただし、この映画では絵の好き嫌いの話はなし)、基本的に『勝手にしやがれ』の焼き直しにしか見えませんでした。

この『気狂いピエロ』はゴダールファンに人気が高く、批評家の評価も高いですが、1965年のベネチア映画祭で上映された時には、ブーイングがおこったそう。

(イタリアと言えば、『勝手にしやがれ』でアメリカ娘パトリシアの苗字がイタリア風、犯罪仲間がイタリア人、ミシェルがたびたびイタリア語の挨拶を使ったのはどうしてなんでしょう。犯罪者=イタリア系というイメージ?)

気狂いピエロ - Wikipedia

 

さて、映画監督のジャン・リュック・ゴダール、ブルジョア出身でした。

ジャン=リュック・ゴダール - Wikipedia

ジャン=リュック・ゴダール (Jean-Luc Godard, 1930年12月3日 - 2022年9月13日[1]) は、フランスの映画監督。編集技師・映画プロデューサー・映画批評家・撮影監督としても活動し、俳優として出演したこともある。 はじめ映画批評家として出発したが、『勝手にしやがれ』(1960年)ほかの作品でトリュフォーやシャブロルと並ぶヌーヴェルヴァーグの旗手とみなされるようになり、独創的なカメラワークや大胆な編集技法によって映像表現の世界に革命をもたらした[2]。注目度の高さから、20世紀の最も重要な映画作家の一人とも称される[3]。

生涯 1930年代 

1930年12月3日、フランス・パリ7区コニャック=ジェ通り (Rue Cognacq-Jay) 2番地に生まれる[4]。父方[注 1]は平和主義を信念に第一次世界大戦さなかの1916年にスイス・ジュネーヴ近郊に移住した。母方はジュネーヴ在住のフランス系プロテスタントの著名一族で、母方祖父はBNPパリバ創業者の一人である。少年期のジャンは1940年のパリ陥落時まではパリにいたが、同年にブルターニュの伯母方に移ってからフランスを横切りスイスに移動した。

(中略)

1960年代 

1960年3月、初の長編映画『勝手にしやがれ』が公開[5]。ジョルジュ・ド・ボールガール製作。ジャン・ヴィゴ賞、ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した。同年3月末から5月末にかけて[注 2]スイスのジュネーヴで長編第2作『小さな兵隊』を撮影(公開は1963年)[7]。 1961年3月3日、『小さな兵隊』に主演女優として出演したアンナ・カリーナと結婚。同年7月、『女は女である』でベルリン国際映画祭銀熊賞受賞。 1964年、アンナ・カリーナと独立プロダクション「アヌーシュカ・フィルム」( - 1972年)設立。設立第1作は『はなればなれに』。同年12月、カリーナと離婚[8][9]。 1965年7月、『アルファヴィル』でベルリン国際映画祭金熊賞受賞。同年11月、『気狂いピエロ』一般公開。

(後略)

彼はこの後、極左の政治活動をはじめ経て

ジガ・ヴェルトフ集団 - Wikipedia

商業映画を作るようになりますが、彼は逮捕されたり、監視の対象にはならなかったのでしょうか?

 

ジャン・リュック・ゴダールの3か月違いの従兄には、ジェローム・モノーがいます。

Jérôme Monod — Wikipédia (wikipedia.org)

ジェローム・モノー(Jérôme Monod)は、1930年9月7日にパリ7区で生まれ、2016年8月18日にルールマラン1で亡くなった、フランスの上級公務員、実業家、政治家である。 政界ではジャック・シラク氏との共演で知られる。彼は特に 1976 年と 1978 年に共和国集会 (RPR) の事務局長を務め、2000 年からはジャック シラクの顧問を務めました。ビジネスの世界では、1980 年から 1997 年までリヨネーズ デ ゾーの CEO を務めました。

バイオグラフィー

起源と形成

ルイ 15 世時代には、革命中にフランスに定住する前に、退位より亡命を好んだペイ ド ジェクス家のプロテスタントの大家族の出身であるジェローム モノーは、ジャン モノー (1765 ~ 1836 年) の 1,200 人の子孫の 1 人です。その多くのメンバーは、医学、芸術、大学、銀行業、宗教などのさまざまな分野で一定の悪名を獲得しています2。 銀行家と牧師の孫、外科医の息子であるジェローム・モノーは、映画監督ジャン=リュック・ゴダール3、生物学者のジャック・モノー、ジャーナリストのクララ・デュポン=モノー、博物学者テオドール・モノーのいとこです。 1964年に彼はカトリック教徒で、元コレーズ市の急進議員で第4共和制下で何度も評議会議長を務めたアンリ・クイユの孫娘であるフランソワーズ・ガロと結婚した。彼はジャーナリストであり、Initiés-tv4 の創設者であるファブリス モノーの父親です。

(中略)

政治 1970年代以来、ジェローム・モノーはジャック・シラクの最も耳を傾ける政治的友人の一人であり(彼は1975年にはマティニョン首席補佐官だった)、RPR創設の立役者の一人である。 1976 年、マリー=フランス・ガローとピエール・ジュイエ 3 の勧めで、RPR の初代事務総長に就任した。その後、統一右翼政党は 1978 年までのすべての選挙 (州、市、議会など) で勝利し、1 年後に政界から離れてビジネス界に参入しました。 彼は 2000 年に再びジャック・シラクの最も側近の政治顧問の 1 人になり 11、2002 年の大統領選挙と人民運動連合 (UMP) の設立の両方の準備をしました。シラクが共和国大統領に選出した大統領顧問のモノーは、エリゼ通りのサロン・ダルジャンに事務所を構えている。大統領の真の「高名な悪人」12、アラン・ジュペ(UMP の大統領に就任)とともに、彼は 2004 年の地方選挙の準備を含め、この組織の内部交渉に緊密に参加した(特に彼は、大統領選挙に関する立場を提案した)ロズリーヌ・バシュロ、ノエル・ルノワール、リュック・フェリーなどの元大臣の2004年の欧州選挙のリスト)。

(中略)

2002年、ジャック・シラク氏と国連事務総長コフィ・アナン氏の要請を受けて、彼はグローバル・コンパクト・プロジェクトに取り組みました。この「グローバル・コンパクト」では、世界の大手企業に対し、人権と企業の義務に関する9つの原則への自発的なコミットメントを求めています。 10番目のポイントは、「あらゆる形態の汚職に対して行動する」というジェローム・モノーの主導により追加された。この分野における優れた企業慣行は、国連の専用サイトに掲載されています。協定を遵守しない企業はサイトから削除され、特にウェンデルの場合がそうでした。 2008 年 6 月の時点で、120 か国の 5,800 社がこの協定に参加しています。 ジェローム・モノーはまた、政治イノベーション財団の設立でも中心的な役割を果たし、2004 年 10 月 14 日まで同財団の会長を務め、その後も同財団の名誉会長を務めました。彼によれば、危機から抜け出すためには政治の役割が不可欠である16。 彼はジャック・シラクに近いコンコルド財団の会員であり、特に「経済活動と起業家精神の促進」を目的としてさまざまな人物を結集させた。

(後略)

 

参考:

Descendance de Jean Monod et de Louise de Coninck — Wikipédia (wikipedia.org)

サルトルの母親がモノー家に1919年に嫁いでいます。(再婚)

Gustave Adolphe Monod (1885-1968)
Marie Louise Schweitzer (1894-1988),

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