ジーン・セバーグのことを書こうと思いながら、女優としてのの彼女に興味のない私は後回しにしてきました。
彼女の悲劇的な人生は、映画にもなっています。
ジーン・セバーグこそ究極のスタイルヒーロー|ハーパーズ バザー(Harper's BAZAAR)公式 (harpersbazaar.com)
『FBI vs ジーン・セバーグ』 | 荒野に向かって、吼えない… (fc2.com)
彼女の悲劇は、「子供のころから正義感が強かった彼女が有名になってから目立った政治活動から彼女を監視や脅しをしたFBIのせい」というようになっていますが、本当にそうだったのか、私は疑問が残ります。
まずは、日本語版Wikipediaのコピーを。
ジーン・セバーグ(Jean Seberg,1938年11月13日 - 1979年8月30日)は、アメリカ合衆国アイオワ州出身の女優である。 「セバーグ」と表記されることが多く、日本ではそれが定着しているが実際の発音は「シバーグ」または「スィバーグ」である。
来歴
アイオワ州マーシャルタウンにて、スウェーデンからの移民であった薬剤師[1][2]の父と、代理教員をしていた母との家庭に生まれる。 映画監督のオットー・プレミンジャーに見出され、1957年『聖女ジャンヌ・ダーク』でデビュー。 1958年の『悲しみよこんにちは』に出演。ベリーショートの髪型は「セシルカット」として流行した。同年9月5日、フランスの弁護士、フランソワ・モレイユと結婚[3]。 1960年公開のジャン=リュック・ゴダールの監督作品『勝手にしやがれ』に主演。ヌーヴェルヴァーグの寵児となる。 この年、夫のモレイユは映画監督への転身をはかり、フランソワーズ・サガンの短編小説を原作とする映画『La Récréation』の制作に着手。当時別居中だったセバーグを主役にすえた。同年、セバーグとモレイユは離婚した。
1961年、モレイユとファビアン・コリンが共同監督した『La Récréation』が公開。 アメリカやフランスで30本以上の映画に出演したが、ヒット作には恵まれなかった。 フランスの作家ロマン・ガリーは二人目の夫であり、ガリーの監督作品『ペルーの鳥』『殺し』に出演した。 プライベートでは公民権運動や反戦運動に傾倒し、全国有色人向上協会やブラック・パンサーをサポート[4]したためFBIからマークされてしまう。特に1970年、彼女の妊娠中に、お腹の子は彼女の夫との子供ではなく、ブラック・パンサーの幹部との子供であるといううわさを流された[5][6][7][8]。
セバーグは結局流産してしまうが、父親についてのうわさを否定しようと記者会見で流産した胎児の写真を自ら公表する[9]。胎児にはアフリカ系の特徴は見られなかったが、セバーグが精神面でバランスを崩し始めていることは誰の目にも明らかだった。その後は深刻なうつ病に悩まされたという。 1979年の8月に失踪し、11日後にパリ16区の自宅アパルトマン近くに駐められた自車のルノー後部座席の中からブランケットに包まれた遺体で発見された。アルコールとバルビツールによる自殺であると見られており、手にしていた遺書には『許してください。もう私の神経は耐えられません』と書かれていた。
(後略)
ジーン・セバーグを発見し、サガンの『悲しみよこんにちは』の映画の主人公を演じさせた監督は、オットー・プレミンジャー。
オットー・プレミンジャー(Otto Preminger, 1905年12月5日 - 1986年4月23日)は、オーストリア=ハンガリー帝国生まれの映画監督、映画プロデューサーである。1950年代 - 1960年代のハリウッドで活躍した。
人物・来歴
北ブコヴィナのヴィシュニッツ(現在のウクライナ・ウィシュニジャ(en))で生まれた。父は法律家で、その為、最初は法律の道に進み、ウィーン大学の法学生であったが演劇に対する情熱ゆえに17歳でマックス・ラインハルトの劇団に参加。最初は俳優だったが、後に舞台監督となる。しかし、ナチスが台頭したことで、1935年に20世紀FOXに招かれてハリウッドに渡るが上手くいかず、しばらくの間ブロードウェイで仕事をする。
彼はユダヤ人であったが、オーストリア訛りがあり、しかも悪役に向いた人相の持ち主であったため、皮肉なことに自分があれほど嫌ったナチの人物役を何度も舞台で演じることになった(後に同郷のビリー・ワイルダー監督の『第十七捕虜収容所』でも捕虜収容所所長の冷酷なドイツ軍人に扮し、はまり役というべき敵役ぶりを見せた。ワイルダーはこれを面白がり、プレミンジャー本人は閉口しながら演じたという)。しかし、この舞台での活躍が認められて、1940年代に映画界に戻り、映画製作に携わるようになった。
1944年、メロドラマ風のフィルム・ノワール『ローラ殺人事件』の脚本と製作を担当したが、監督のルーベン・マムーリアンの仕事ぶりはプロデューサーのダリル・F・ザナックにもプレミンジャーにも不満足なものであった。監督志望であったプレミンジャーはザナックに対して運動をかけ、結果ザナックもマムーリアンを即座に解雇して、プレミンジャーが後釜に座った。初監督作となった『ローラ殺人事件』でたちまち新進気鋭の映画監督として注目され、アカデミー監督賞にノミネートされた。その後『堕ちた天使』や『歩道の終わる所』などのフィルム・ノワールを成功させる。
さらに1950年代に入ると、プロデューサー兼監督として、タブーに挑む大胆な映画を次々と世に送り出す。まず1953年、ブロードウェイのヒット作の映画化『月蒼くして』では、バージンや妊娠といった性的な台詞が多すぎるということで、アメリカ映画製作者協会は自主規制をしようとしたが、これに反発したプレミンジャー側は協会を脱退して、映倫マークなしで公開を強行。結果、本作は大ヒットして、時代遅れの映画倫理規定を改正させるきっかけとなった。
以降も、すべて黒人俳優でかためたミュージカル『カルメン』や『ポギーとベス』、ロバート・ミッチャムとマリリン・モンロー主演の西部劇『帰らざる河』、麻薬中毒の恐怖をはじめて題材にしてフランク・シナトラが麻薬中毒者役を体当たりで演じた『黄金の腕』、フランソワーズ・サガン原作で主演したジーン・セバーグのセシール・カットが大流行した『悲しみよこんにちは』、ジェームズ・スチュアート主演でレイプ事件を真っ向から取り上げた法廷劇『或る殺人』などいずれも意欲作ながら様々なジャンルにわたって優れた作品を制作した。
(後略)
ジーン・セバーグの2番目の夫で自らも自殺したロマン・ギャリー。
ロマン・ガリー(Romain Gary, 1914年5月8日 – 1980年12月2日)は、フランスの小説家、映画監督、外交官。ロオマン・ギャリイ、ロマン・ガリ、ロマン・ギャリー等と表記されることもある。
生涯
1914年、ロシア帝国領ヴィリナ(後にポーランド領ヴィルノ、現在はリトアニア共和国の首都ヴィルニュス)で生まれた。出生名はロマン・カツェフ(Roman Kacew)[1]。 14歳の時、母と共にフランスニースに移り住み、フランスに帰化した。
第二次世界大戦後、フランス外務省に勤務し、ブルガリア、スイス、アメリカ各国の大使館参事官や、ロサンゼルス駐在領事を務めた。
1956年ロマン・ガリー名義(『自由の大地 天国の根』)と1975年エミール・アジャール名義(『これからの一生』)で、2度ゴンクール賞を受賞した。
映画女優のジーン・セバーグと結婚し、『ペルーの鳥』の監督など映画界でも活躍した。『レディL』など映画化された作品も多い。
1980年12月2日、拳銃自殺。自殺の直前にガリマール社の担当者へ、自分の死はジーン・セバーグの自殺とは関係ないことと、エミール・アジャールが自分であることを記した文書を送った。文書の最後は、「大いに楽しんだ。ありがとう。さようなら」と結ばれていた。
セバーグに影響を与えた2人は共に政治志向の強いロシア系(ウクライナもリトアニアもロシアでした)ユダヤ人。
フランス映画界、芸術界に影響を与えてきたアンドレ・ジッドも設立にかかわったガリマール出版。ここは、ジーン・セバーグが主役を務めた映画『悲しみよこんにちは』はじめサガンの本を出版した会社ですが、その創業者は、シュルンベルジュ一族でした。