欧州映画界とブルジョア-31(イタリア喜劇俳優トトとフリーメイソン) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
より:
トトの本名は非常に長いのですが、本人が芸名の「トト」以外に本人を名乗るときに使った名前が、アントニオ・デ・クルティス。
抜粋:
本名はアントニオ=グリッフォ=フォカス=フラヴィオ=アンジェロ=ドゥカス=コムネオ=ポルフィロゲニト・ガリアルディ・デ=クルティス=ディ=ビザンツィオ Antonio Griffo Focas Flavio Angelo Ducas Comneno Porfirogenito Gagliardi De Curtis di Bisanzio、通常はアントニオ・デ=クルティス Antonio De Curtis。 イタリア喜劇の象徴的な俳優であり、「爆笑の王子」と呼ばれた彼は、また喜劇のみならず映画及び舞台俳優としても重要な一人としてみなされており、また演技の他にも作家、歌手、作曲家としての活動も見られた。20世紀を代表するイタリアのアーティストである。 出生名アントニオ=ヴィンツェンツォ=ステファノ・クレメンテAntonio Vincenzo Stefano Clementeとして軍人の父ジュゼッペ・デ=クルティスの婚外子として母アンナ・クレメンテAnna Clementeの間に生まれたアントニオは、軍人のフランチェスコ=マリア・ガリアルディ=フォカスの養子となった。
実の父は、1873年生まれ:
marchese Giuseppe de Curtis (1873 - 1944) - Genealogy (geni.com)
(トトの祖父:
Luigi de Curtis (1839 - 1926) - Genealogy (geni.com))
このトトの実父と2歳違いの人物に、『帰れソレントへ』の作曲者の、エルネスト・デ・クルティスがいます。
抜粋:
エルネスト・デ・クルティス(伊: Ernesto De Curtis、1875年10月4日 - 1937年12月31日)はイタリアの作曲家。
経歴
ナポリ生まれ。父Giuseppe De Curtisと母Elisabetta Minnonの息子。彼は作曲家のサヴェリオ・メルカダンテのひ孫であり、詩人ジャンバッティスタ・デ・クルティス)の弟である。彼は兄のジャンバッティスタと歌曲「帰れソレントへ」(Torna a Surriento)を作曲した。 彼はピアノを学び、ナポリのサン・ピエトロ・ア・マイエラ教会音楽学校(Conservatorio di San Pietro a Majella)で学位を取った。
エルネストの兄のジャンバティスタは1860年生まれ。
Giambattista De Curtis - Wikipedia)
抜粋Google翻訳:
ジャンバッティスタ・デ・クルティス (1860 年 7 月 20 日 - 1926 年 1 月 15 日) は、今日では歌詞で知られるイタリアの画家、詩人です。 略歴 ナポリの貴族の家に生まれたデ・クルティスは、フレスコ画家のジュゼッペ・デ・クルティスとその妻エリザベッタ・ミノンの長男で、作曲家サヴェリオ・メルカダンテの曾孫でした。彼は最初に絵画に興味を示し、父から絵画を学び、それを極めたため「現代のサルヴァトール・ローザ」と呼ばれるようになりました。彼は完全な芸術家で、ポピュラーソングの詩だけでなく、詩や演劇作品も書き、彫刻家でもありました。
(中略)
デ クルティス兄弟の芸術的なつながりは、1897 年に「A primma vota」が出版されたことに始まり、他の成果も生みました。このつながりは、エルネストが 1920 年に米国に移住した後も続き、その後も 2 人は手紙で共同作業を続けました。
トトの父親との関係を調べたところ、Facebookに書き込まれている文章に、以下のものがあるようです。
Dedica del 1948 di Totò allo zio Eugenio de Curtis (fratello di Ernesto de Curtis, autore delle celebri Canzoni Napoletane).
1948年、トトが叔父のエウジェニオ・デ・クルティス(有名なナポリの歌の作者、エルネスト・デ・クルティスの弟)に献呈。
トトの父親ジュゼッペの情報はGeniやwikipedia情報では確かなものではないし、Facebookにある文章(私はFacebookを開くことはできないので、インターネットの検索上で出てきたものだけしかわからない)の信ぴょう性は更にわかりません。
でも、もし本当にトトの父親が、エルネスト、ジャンパティスタ、エウジェニオの兄弟/異母兄弟であったなら、彼らはイタリア・オペラに影響を与えたのサヴェリオ・メルカダンテと曽祖父/縁でつながっていて、そのおかげで芸術界とフリーメイソンにコネができたのかもしれません。
抜粋:
サヴェリオ・メルカダンテ(Giuseppe Saverio Raffaele Mercadante, 1795年9月17日アルタムーラ受洗? - 1870年12月17日ナポリ)は、イタリア人の作曲家。オペラ作曲家として大量の作品を発表したほか、器楽作品も多い。
ロッシーニ・ベッリーニ・ドニゼッティらに代表される19世紀前期のオペラとヴェルディに代表される後期のオペラを結ぶ移行期の作曲家であり、イタリア・オペラの重要な改革者と考えられている[1]。
生涯
メルカダンテは貴族のジュゼッペ・オラツィオ・メルカダンテの私生児として生まれ[1][2]、正確な生年月日や生地はわかっていないが、1795年9月17日にアルタムーラで受洗した記録と、1797年6月26日にナポリで受洗した記録が候補にあがる[2]。はじめ腹違いの兄から音楽を学び[2]、1808年にナポリのサン・セバスティアーノ音楽院にはいった[1]。音楽院でさまざまな楽器の演奏と、1813年以降作曲を学んだ[2]。1817年に音楽院の管弦楽指揮者となり、協奏交響曲や多くの協奏曲を書いた[2]。
Saverio Mercadante - Wikipedia
参考: