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欧州映画界とブルジョア-35(『勝手にしやがれ』とルノワール)

2024年10月01日 | 欧州映画界ネットワーク

昨日は、ジャン・ポール・ベルモンドとジーン・セバーグ主演、ジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』を始めて全編視聴。

(中学生のころジャン・ポール・ベルモンドファンになった私は、彼の映画自体は実はあまり観ていなくて、『勝手にしやがれ』もいつも最初の方だけ観て挫折していました。ヌーベル・バーグの申し子となったジャン・ポール・ベルモンドも、ジャン・リュック・ゴダールの作品にその後出演はしたものの、シナリオを渡さないゴダールに「芸術映画はもうごめんだ。商業映画で何が悪い?」ということを言って、彼を離れました。)

勝手にしやがれ (映画) - Wikipedia


視聴していて、ふと気になったのが、ジーン・セバーグ演じるパトリシアが、滞在するホテルの部屋に貼るポスター。

新しく購入したと思われるオーギュスト・ルノワールの『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』。

部屋にジャン・コクトー、ピカソの絵のポスター、扉にクレーの絵のポスター、ルノワールの絵のポスターはなんとバスルーム、しかもビデの上に貼ることになるのですが、この絵は会話のためか、長々と映し出されます。

 

オーギュスト・ルノアールの息子は、映画監督のジャン・ルノワールです。

ジャン・ルノワール - Wikipedia

ジャン・ルノワール(Jean Renoir、1894年9月15日 - 1979年2月12日)は、フランスの映画監督、脚本家、俳優。印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男で、ジャン・ルノアールと表記される場合もある。

来歴

 1894年9月15日、パリのモンマルトルに父・ピエール=オーギュスト・ルノワールと母・アリーヌの次男として生まれる。幼いころに南フランスに移住し、父の絵のモデルを務めさせられていた。各地の学校を転々とし、ニースの大学で数学と哲学を学ぶ。第一次世界大戦には騎兵少尉として参戦し、後に偵察飛行隊のパイロットを務めたが、偵察中に片足を銃撃され、終生まで傷の痛みに悩まされていた。その療養中にD・W・グリフィスやチャールズ・チャップリンらの作品を観て、映画に興味を持つ。

1920年、前年に亡くなった父の絵のモデルをしていたカトリーヌ・エスランと結婚。大戦終結後は陶器を作っていたが、イワン・モジューヒンの『火花する恋』やエリッヒ・フォン・シュトロハイムの『愚なる妻』等の影響を受けて、映画監督を志す。 1924年、カトリーヌ主演の映画『カトリーヌ』に出資し、脚本を執筆する。同年にカトリーヌ主演の『水の娘』で監督デビューを果たす。1926年、『女優ナナ』を監督。高い評価を得、彼のサイレント期の代表作としたが、興行的には失敗し負債を抱え、父の絵を売却して借金返済を行う。1934年、季節労働者の姿をドキュメンタリータッチで描いた『トニ』を発表。徹底したリアリズムで描き、のちのネオレアリズモに影響を与えた。

1937年には反戦映画の名作『大いなる幻影』を監督。他にも『のらくら兵』(1928年)、『どん底』(1936年)、『ゲームの規則』(1939年)など、興行的には失敗が多いものの傑作と評価されるべき作品を発表していき、ルネ・クレール、ジャック・フェデー、ジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネとともに戦前期のフランス映画界を代表する映画監督となった。 1939年、イタリアに渡って『トニ』『ピクニック』で助手を務めた当時32歳のルキノ・ヴィスコンティを助監督にして『トスカ』の撮影を行ったが[注 1]、撮影中にイタリアが第二次世界大戦に参戦したため、製作を放棄してフランスに戻った。

1940年にドイツがフランスに侵攻したため、戦火を避けるべく12月にマルセイユとポルトガルを経由して、シボニー号に乗ってアメリカに渡った。この船でサン=テグジュペリと相部屋になり、親交を結ぶ(『人間の土地』を製作しようとしたが、ハリウッド上層部の無理解で実現しなかった)。12月31日にアメリカに到着し、ロバート・フラハティに迎えられる。同じ頃、ルネ・クレールやジュリアン・デュヴィヴィエも渡米し、ジャック・フェデールはスイスに逃れていた。

20世紀フォックスと契約を結び、ハリウッドの撮影システムに困惑しながらも『南部の人』や『自由への闘い』等の作品を創り上げた。1946年に市民権を獲得するが、フランス国籍は捨てなかった。 1949年にインドに渡り、1951年に彼の初のカラー映画『河』を撮る。父親譲りの美しい色彩感覚が評価され、ヴェネツィア国際映画祭国際賞を受賞した。1952年にイタリアで『黄金の馬車』を撮った後、フランスに戻り、『フレンチ・カンカン』を発表する。商業的な成功を収めることができたが、戦前のように作品は当たらず映画を撮る機会が次第になくなっていった。 1969年のテレビ映画『ジャン・ルノワールの小劇場』が最後の監督作品となり、その後は亡命時代の知己を訪ねアメリカで暮らし、終生フランスに戻ることはなかった。 1974年に『ジャン・ルノワール自伝』を出版。翌1975年にアカデミー賞名誉賞をハワード・ホークスとともに受賞。同年、レジオンドヌール勲章コマンドゥールを受章。

1979年2月12日、ビバリーヒルズの自宅で死去。アメリカで失意の底にあったルノワールを精神面で支えていたのは、ルノワールを師と仰ぐヌーヴェル・ヴァーグの旗手フランソワ・トリュフォーだった。オーブ県エソイエ(フランス語版)のエソイエ墓地に、両親と共に埋葬されている。

ジャン=リュック・ゴダールやトリュフォーなどのヌーヴェルヴァーグ、ロベルト・ロッセリーニやルキノ・ヴィスコンティらのネオレアリズモ、他にロバート・アルトマンやダニエル・シュミットなど、多くの映画作家に影響を与えた。また、ジャック・ベッケル、ジャック・リヴェット、ヴィスコンティやロバート・アルドリッチなど、後に各国を代表する映画監督が、ルノワールの下で助監督を務めている。著名な写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソンも、写真家としてデビューする前にジャン・ルノワールのもとで助監督を務めていたことがある。

(後略)

 

『勝手にしやがれ』の監督がジャン・リュック・ゴダールということは知っていましたが、原案がフランソワ・トリュフォーであろことは、wikipediaを見るまでわかりませんでした。

フランソワ・トリュフォー - Wikipedia

 

ヴィスコンティにジャン・ルノアールを紹介したのが、ココ・シャネル、

欧州映画界とブルジョア-30(“ピノキオ”~チャップリン~ヴィスコンティ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ヌーベルバーグの監督たちに敬愛されたジャック・ネッケルは画家セザンヌからジャン・ルノアールを紹介され、モディリアニの伝記映画を作りましたました。

欧州映画界とブルジョア-6(『モンパルナスの灯』とモディリアニの遺児) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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