Various Topics 2

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マイノリティ出身の成功者-ワルド―派&「アルノー」

2021年12月24日 | ベルナール・アルノー~ベルンハイム~ドレフュス

マイノリティ出身の成功者-序 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

を書いてから、大分日があいてしまいました。

「マイノリティの成功者」というと、どうしても「ユダヤ系」の成功者を書くことが多くなってしまいますが、実は「自分たち以外のマイノリティを支援してきたマイノリティ」に目を向けることが鍵と思うようになってきました。

その結果として、どうしてもワルド―派に行きついてしまうのですが、人物で有名どころというと、それこそ「リカルド・イッリ」くらいしか見つかりません。

英語のWikipedia

Waldensians - Wikipedia

には、ワルド―派には福音派やメソジストなどだけでなく、モルモン教と提携したりしていることが書かれています。

現在、世界を動かしているのは「ユグノー」と前に書きましたが、ユグノーに分類される中で、「ワルド―派など、迫害を受けた人たちの力が案外あるのではないか?」と思えてきます。

たとえばウィキペディアの末尾に紹介させられている、

アンリ・アルノー。

Henri Arnaud (pastor) - Wikipedia

アンリ・アルノー| フランスの聖職者 (delphipages.live)

彼は、フランス、イタリア、ドイツ、そしてイギリスでも活躍。

 

直系ではないのせよ、アンリ・アルノーより前の世代の「アルノー」には、カトリックから異端とされたジャンセニストも。

「アルノー」姓では、

アントワーヌ・アルノー - Wikipedia

シモン・アルノー・ド・ポンポンヌ - Wikipedia

Arnauld family - Wikipedia

現代では、

ベルナール・アルノー - Wikipedia

彼は、「ユダヤ系」と間違って報道されたことがあるようですが、それこそ「ワルド―派」ということだってあるのではないか、と。

 

そんな中、興味深い記事を発見。

View of From Turin to Boston (and back): A Transatlantic Feminist Network | USAbroad – Journal of American History and Politics (unibo.it)

抜粋(ひどい部分もありますが、そのままGoogle翻訳を張り付けます。):

1970年、トリノの新左翼は、女性の解放運動への注目が高まっていることを示しました。 1970年7月に開催されたロッタコンティニュアの最初の全国会議36で、トレントを拠点とするグループCerchio spezzatoのフェミニスト過激派は、コレッティボCrの女性とともに、女性委員会のアイデアを発表しました37。両方のグループのメンバーになり、その時、彼らはアメリカのフェミニストの資料について直接の知識を得るようになりました38。彼女が「トリノのグループ」を組織したかったので、何人かのアメリカのフェミニストの連絡先の詳細。39一方、イタリアのカトリック反対派の代表であったMovimento Politico deiLavoratoriのGiannaFaccioliは、 1969.40のニューハンプシャーへの研究旅行中の女性の図書館

1970年9月、コレッティヴォCrの女性たちは、ボストン滞在中にマリアテレサフェノリオ(「M.T.」としてよく知られています)が集めたアメリカのフェミニスト運動による記事や考察の翻訳を開始しました。 Informazioni internazionaliの第3号から始まり、アメリカの紀要Il movimento di liberazione delledonneがこの出版物に定期的に掲載されるようになりました。それは、新聞の編集スタッフを内部から変革し、イタリアで最初のフェミニストグループの1つであるコレッティヴォデッレコンパーニュの設立を奨励したという点で基本的な経験を構成しました41。 Lise alle compagne italianeは、この手紙が「クラスカット」を通じてアメリカの女性の動きの進化を理解するのに役立つことを説明する簡単な編集コメントによって紹介されました42。アメリカの女性活動家によって書かれたこの手紙は、運動は、マルクス主義者による「女性の解放」と「ブルジョアのフェミニズム」の両方の精緻化を批判している。次に、それは、イタリアとアメリカの運動の間の深い距離を(イデオロギー的および実際的な用語で)表現したときに、状況の複雑さを回復するための重要な試みをしました。 ]、ここで私たちはお互いに話し合っています。」43

実際、イタリアの議会外左翼の強力な階級差別的アプローチは、特にトリノの最初のフェミニストグループにも浸透しました44。米国からのニュースとの関係は、常にマルクス主義のカテゴリーで参照を探す必要性によって媒介されていました同様に、多かれ少なかれ明示的な形態の過激派の拒絶。コレッティヴォ・デッレ・コンパーニュに最初に参入したバイス・フビニは、この側面に関する彼女の見解を次のように表現しています。

私は常に、労働者階級の都市であるトリノの特​​徴が、当時形成され、解散し、私たちの運動であるその継続的なプロセスで互いに再会した女性のさまざまなグループの進化に影響を与えたと思っていました45。

トリノの状況は、フィアットの自動車工場の存在と一般的な第二次産業の影響を強く受け、「都市工場」の定義を獲得しました46。1967年にトリノで反抗運動を開始した学生の抗議-権威主義的および第三世界の特徴は、闘争の「労働者の中心性」へのますます顕著な関心を高め、それは1969年に労働者学生議会と議会外左派運動の最初のグループの出現で最高潮に達した。 Collettivo Crは、異常なグループであるにもかかわらず、新聞Informazioni internazionaliの最初の号から始まるアメリカの労働者階級に関する多数の記事からも明らかなように、これらの影響を受けました。トリノのフェミニスト運動も同じように影響を受け、ピエラ・ズマグリーノによれば、そのルーツの一部は労働組合運動にあるとされている48。

Collettivo delle compagneは、この最初のフェーズでは、反対のイニシアチブではなく、Informazioniinternazionaliの編集作業による横断的な連続性の操作を反映しています。フランカ・トロンカは、同時に「政治的精緻化グループ」ではなかったグループで、「政治分野で何かをする」という個人的な必要性に続いて、コレッティボCrに加わったと言います。49M.T。 Fenoglioは、このアプローチを、議会外の左翼の「集団主義」をどういうわけか拒否したグループに共有しました。

 

トリノの女性解放は、ワルド―派ともつながりを感じるカフェから、というのもありました。

トリエステのイッリ兄弟とワルド派-2(チョコレートとコーヒー、トリノとトリエステ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

スイスのチョコレートの発展とトリノ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

参考:

ユグノー(カタリ派)-2(トゥールーズ公とランバル公妃マリー・ルイーズとフランス革命) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン」のブログ記事一覧-Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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