今日は午前中に『2011NEW環境展』に行き、午後は友人Rさんと遅い昼食をとろうと思っていたのですが、3日前から入院していた義父の調子がよくないので、急遽取りやめることになりました。
3日前の早朝、父は脳梗塞を起こし救急車で運ばれたものの、翌日には元気になり安心していたところ、昨日また他の箇所の脳梗塞を起こしてしまいました。
それでも案じたほど容態は悪くないので今後のリハビリでよくなるだろうとは思っていますが、それでも義父のことが気になり、夜も度々目を覚ましてしまいました。
身内に何かある-仮に今回の義父ほど重い状態でないとしても、健康だった身内一人が入院しただけで相当なストレスになります。まさにその最中であるから余計、今回震災・津波で家族の何人かを一遍に亡くされた人、家族が怪我をしたり避難地で病気が悪化したという人、被ばくの危険がある学校にわが子を送り出さねばならない福島の親たち・・・彼らの心の痛みや不安がいかほどのものだろうか、と改めて考えます。
さて、福島原発事故について丁度、朝日新聞のGLOBE、『チェルノブイリから130km。キエフの記録と教訓』(5月25日up)というレポートがありました。
http://globe.asahi.com/movers_shakers/110501/01_01.html
抜粋:
・・・大河ドニエプルを見下ろす丘に開けたキエフは、人口250万を超える近代都市だ。スラブ文明のふるさとと言われ、世界遺産のソフィア大聖堂やペチェールスカヤ大修道院が観光客を引きつける。
近年のロシア資本の流入もあって、市内では高級車が走り回り、一流ブランドのブティックが並び、着飾って散策する人々であふれている。
チェルノブイリから約130キロ。事故時は風上で、公式には放射能汚染の被害を免れたとされる。確かにいまの街並みに、当時をうかがう要素は乏しい。しかし人々の記憶はなお鮮明だった。
キエフ言語大学の日本語講師イリーナ・シェペリスカヤ(31)にとって、最も幼いころの記憶は6歳の時。
市内北部オボロニ地区にある9階建てマンション最上階の自宅で、窓を閉める母ナタリア(54)の姿だった。どうして閉めるの、暖かいのに。そう問いかけるイリーナに、母は答えた。「悪い空気が入ってくるからよ」
今思えば、それが原発事故の時だったと、イリーナは振り返る。
1986年4月26日未明の原発爆発について、ソ連は当初、一切事実を公表しなかった。翌日の夜から28日にかけて、北欧各国で放射能が検出されて騒ぎとなり、問い合わせを受けて渋々認めた。西欧ではニュースが駆けめぐったが、情報を遮断されたキエフの市民には伝わらない。
ソ連当局は29日から、キエフへの外国人の立ち入りを禁止。キエフの状況も外に漏れなくなった。
もっとも、事故のうわさが市民の耳に届くのに、さほど時間はかからなかった。救援に入った消防士らが伝えたからだ。
イリーナの家の周囲で事故の情報を最初に入手したのは、母の同郷の友人タチアナ・スキビナ(54)だった。夫が26日、仕事先で「原子炉が爆発したらしい」と聞き込んだのだった。
しかし、ニュースも新聞も、何も報じない。「だから、冗談だと思ったんです」とスキビナ。消防署員の親せきから28日に「早くキエフから逃げなきゃ」と諭された。親しいナタリアに伝え、2人の郷里のウクライナ東部アルチェフスクに避難することにした。
列車のチケットはすでに奪い合いだった。切符を取れない母親が見知らぬ乗客に「この子を連れて逃げて」と子どもを預ける姿もあったという。
30日、タチアナとナタリア、イリーナはようやく確保した3等車に乗って、親戚の元に身を寄せた。
5月に入ると、キエフから子どもの影が消えた。大人ばかりの妙な街になってしまった。散水車が毎日、街路に徹底的に水をまき、積もったほこりを洗い流した。
ろう学校教師のナタリアは、勤務のため5月初旬にキエフに戻ったが、祖父母に預けられたイリーナはアルチェフスクにとどまり、現地の幼稚園に通った。
「知らない子ばかり。早くキエフに帰りたい一心でした」。半年あまり後に帰宅するまで、だだをこね続けたという。
イリーナの父ユーリ・シェペリスキー(54)は、87年1月から約1年間、チェルノブイリに食料品を運ぶ仕事に携わった。
現在、リクビダートル(事故処理を担った人)としての補償を受ける。「何も怖くなかった。放射線は見えないからね」と笑う。
ウオツカを飲めば放射能が消える、といわれて、朝から晩まで飲んだ。「お陰でみんなアル中になっちゃったよ」とユーリ。ウオツカが放射線から体を守るという説は、ウクライナやロシアで広く信じられている。チェルノブイリ事故後に買い占められて、キエフの酒屋から商品が消えたともいわれる。
情報不足は、パニックを招いただけではない。食品による内部被曝の情報がなかった結果、ミルクなど汚染された飲食物を摂取して甲状腺がんをわずらうことになる人が相次いだ。当時、食品の危険性についてソ連当局はほとんど広報をしなかった。
イリーナの家庭でも食物には特に注意を払わなかったという。「何も知らなかったから」。
危険を市民に知らせる点で、当時のソ連のシステムは全く機能しなかった。ソ連の社会でいかに安全が軽視されていたか、人命が軽んじられていたか。
キエフでのこうした経緯と、今回の日本での事態との間には、大きな差があるのは事実だ。だが、まったく次元を異にするとも言えない。・・・
「キエフ の経緯と、今回の日本での事態との間には、大きな差があるのは事実だ。だが、まったく次元を異にするとも思えない」と筆者は述べていますが、これには「当事のソ連政府より日本の方がマシ」というニュアンスが含まれています。
しかし、特に福島の学童のことたちのことを思うとき、「果たしてそう言えるのか?」と考えてしまいます。
追記:冒頭に書いた友人Rさんですが、彼女は左のブックマークにある“my favorite things”のブログの管理人です。彼女の5月14日の『それぞれのチェルノブイリ』に、ロシア人ご友人の以下の言葉が紹介されています。
「チェルノブイリはウクライナにあるけれど、ソビエト全体にとって大変大きな試練だったわ。知識も十分な経験もなくてどうしていいのかわからずに、さまざまの国籍の人たちが参加して対処した。当時はまだ子供だったけれど、放射能雲がとても恐ろしかったことをよく覚えているし。25年経って、あの大災害をなんとか解決できたと思えるわ。 ・・・だから、ロシアの人々は他の国より日本の人々の気持ちを理解してあげられると思うの」
http://favorite-fountain.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-13c4.html
福島だけでなく、日本全土の子供たちは、今回の震災、津波、原発事故について、政府や大人達のことを、将来どう評価するのでしょう。