「深谷までドライブ #2 紋編」のつづきです。
「旧深沢邸 中の家」の裏には竹が植わっていて、その隙間から青淵公園のサクラが見えました。
小川(清水川)の両岸に桜並木がつづき、その先には青淵公園の緑と、なかなかの風情なんですが、立っていた記念碑によれば、
平成17(2005)年6月13日、深谷コミュニティセンターで開催された「緑豊かできれいなまちづくり運動推進協議会(GCC競技会)」理事会において、新しい花の名所として青淵公園に桜を植樹しようとの提案がなされました。これを受けて7月27日には渋沢栄一記念館を会場に各協力団体が参集し、「青淵公園記念植樹実行委員会」が設立されました。
(中略)
平成18年2月13日には、渋沢栄一翁生誕の日を記念し、植樹祭を行いました。翁と誕生日を同じくする八基・豊里地区の老若男女●十名のご参加をいただき、関係者とともに、翁の遺徳を偲びました。植樹は平成18年3月と11月の2回に分けて行いました。全長1,320m、面積13.6ha、桜を中心に二百余本の植樹が完了し、これに加えて17基のベンチも設置しました。
かなり新しい桜の眺めなんですな。
「中の家」の敷地内東側に、3基の石碑が立っていました。
そのうち北側に並んでいる2基は、渋沢栄一の両親の慰霊碑で、向かって左側が「先妣澁澤氏招魂碑」と刻まれた、渋沢えい(ゑい)さんの、
そして、右側は「晩香澁澤翁招魂碑」と刻まれた、渋沢市郎右衛門さんの慰霊碑です。
この2基の慰霊碑の碑文を読んで、へぇ~ と思ったことが2つありました。
一つは、栄一の父・市郎右衛門さんの号が「晩香」だということ。
王子・飛鳥山の旧渋沢邸(曖依村荘:あいそんそう)跡に、1945年4月の空襲をくぐり抜けて現存する2棟の建物のうち、栄一が「迎賓館」として使ったという瀟洒な建物「晩香廬」は、父上の号が由来だったとは知りませんでした
渋沢栄一記念財団のHPでは、
栄一自作の漢詩の一節「菊花晩節香」から命名されました。
としていますが、仮に、栄一本人がそう説明していたとして、元をたどれば「父・澁澤晩香」が頭にあったことは間違いないと思います。
と書いたものの、こちらの資料によれば、
「晩香廬」の命名の由来について、従来、「バンガロー」の字音に合わせ、渋沢が自作の漢詩「菊花晩節香」からとったとされていたが、渋沢の詩作以前に既に渋沢の父をはじめ幕末明治には「晩香」と号する例はいくつかあり、渋沢自身も個人用箋には「晩香書屋」を印していたことを指摘し、「晩香」は、陶淵明の「飲酒其五」に由来する「雛籬晩香」にちなむ
という研究があるらしい…
でも、「陶淵明の『飲酒其五』に由来する『雛籬晩香』」とはどういうことなんだろ 「雛籬晩香」の4文字のうち「飲酒其五」に登場するのは「籬」だけなんだけど…
それはおいといて、もうひとつの「へぇ~ と思ったこと」は、父・市郎右衛門は明治4年11月、母・えいは明治7年1月に亡くなって、共に血洗島の「中の家」近くの墓に葬られたものの、栄一が、後に自分が眠ることになる谷中霊園の渋沢家墓所内に、この慰霊碑を建てたということ。
自分の近くに両親の霊を感じていたかったんでしょうねぇ。
ちなみに、撰文は、市郎右衛門碑が市郎右衛門の甥にあたる「あにい」尾高惇忠、えい碑が栄一自身、書はいずれも巌谷修です。
さて、「中の家」敷地内に立つもうひとつの石碑は、
渋沢平九郎とは、旧姓・尾高、栄一にとって従兄弟であり、妻・千代の実弟(=栄一の義弟)であり、養子でもある人物。
このあと訪れた「尾高惇忠生家」(平九郎の生家でもある)の駐車場に立っていた説明パネルに、平九郎の写真が載っていまして、これがまた、、、、
一部で話題になっているとおり、かなりのイケメン
それはともかく、この「追懐碑」の栄一による碑文の最後の方の読み下し文を転記します。
今ここに丁巳(大正6年:1917) (没後) 50年の命日に(平九郎)の遺墨を改めて広げてみると、追懐の情が止められなくなり、平九郎の書いたものを探し出し、その書いたものをまねて石に刻み、もってその志を見(あらわ)すものである。
没後50年を経て、平九郎の小さかった頃のことや、既に亡くなった平九郎のきょうだいたち(惇忠, 長七郎, 千代)のことなんかも思い出して、こみ上げるものがあったんだろうな…
この平九郎さんの慰霊碑も、ご両親の慰霊碑と同様に、谷中霊園の渋沢家墓所内に建てられたものだそうで、説明板によると、
渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。
だそうです。
確かに、ご両親のお墓にも近い「中の家」にある方が、これらの石碑を見てもらえる機会が増えて、栄一の意思にも沿うのではないでしょうか。
諏訪神社には、渋沢家(中の家) 累代当主を称える碑のほか、「澁澤青淵翁喜寿碑」がありました。
渋沢栄一の喜寿(77歳)をお祝いする碑です。
題額は、徳川慶久公爵。
徳川慶久さんは、栄一のかつての主君、徳川慶喜の七男で、徳川(慶喜)公爵家の2代目です。
そういえば、東京・日本橋の橋銘板は、徳川慶喜さんの筆によるものでした。
「澁澤青淵翁喜寿碑」に話を戻しまして、撰文は、渋沢栄一著「徳川慶喜公伝」のゴーストライターと言われる萩野由之博士。
文中から印象的な部分を紹介しておきましょう。旧字は新字に改めます。
翁は嚮(さき)に八基小学校の新築と其維持法とに就きて多くの援助を与へ、一村の子弟をして就学の便を得しめたり。
村社諏訪神社は翁が幼少の時境内にて遊戯し、祭日には村の若者と共にさゝらなど舞ひたる事あれば、村に帰れば先づ社に詣づるを例とし社殿の修理にも巨資を捐てゝ父老を奨励したり。今年は翁の喜寿に当りたれば、翁を迎へて彼のさゝらを催しゝに、翁は記念として拝殿を造りて寄進したり。
文中「さゝら」とあるのは獅子舞のことでしょうか?
また、「翁は記念として拝殿を造りて寄進したり」とありますが、その辺りは、つづきの「#4 建物編」で書くことにします。
つづき:2021/04/09 深谷までドライブ #4(最終回) 建物編
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