新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

南九州旅行記(その10:熊本編の結)

2011-07-16 13:29:41 | 旅行記

7月8日の「南九州旅行記(その9:熊本城の巻⑥)」のつづきは、

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熊本城二の丸にある熊本県立美術館から。

熊本県立美術館では、「九州新幹線全線開業記念」と銘打って「細川コレクション 永青文庫の至宝展」が開催されていました(もう2か月以上も前に終了)。

110716_1_02 細川コレクションは、ほぼ1年前に東京国立博物館(東博)で「細川家の至宝-珠玉の永青文庫コレクション-」 を拝見して以来。

久しぶりにその時の記事(こちら)を見ると、「細川家の至宝」展専用サイトのドメイン「http://hosokawaten.com/」が妙なことになっています。用済みのドメインが怪しげなところに乗っ取られた気配…
取り急ぎ、気づいた範囲内でリンクを削除しましたが、漏れがあるかもしれません。その節はご容赦を

それはさておき、地元・熊本で拝見する細川家のお宝東博の「細川家の至宝-珠玉の永青文庫コレクション-」と比べれば小規模ながら、観客が非常に少なく(地方の美術館の利点)、一つ一つの作品をじっくりと鑑賞することができました。
とりわけ、ポスターやチケットにも使われている金彩鳥獣雲文銅盤とか金銀錯狩猟文鏡と、もともと私の興味の対象から離れている中国の青銅製品には目を見張りました
両作品ともショーケースを一人で独占してしげしげと拝見すると、なんと素晴らしい細工であることか… 感服いたしました。

ちなみに、ポスターやチケットで使われている菱田春草の「黒き猫」3月8日~4月3日の展示だったため、再会できませんでした…

東博での「細川家の至宝-珠玉の永青文庫コレクション-」との大きな違いは、熊本ならではの「写真にみる細川家と熊本の近代」のセクションがあったことで、旅行者の私にとっても興味深いものでした。

細川家の公私にわたる写真は、明治~昭和初期のハイソサエティ の世界を垣間見ることができましたし、冨重写真所による写真は、熊本の近代史を今に残す一級の歴史資料でした。

もう6年以上も前のasahi.comの記事を引用しますと、

熊本城のない熊本市が想像できるだろうか。西南戦争で焼失する前の姿が、「写真」という確かな記録で残されていなかったら、復元は難しかったと言われる。その撮影をしたのが、現在も同市新町2丁目で営業する「富重写真館」。明治初期に初代の冨重利平氏が開業し、約130年の間、4代にわたって技術と情熱を受け継いできた。写真機など貴重な近代資料も数多く所蔵され、国の重要文化財指定への期待が高まっている。

だそうです(下の写真は熊本城天守閣前にあった説明板)。

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明治初年の熊本城天守閣の写真(上の説明板に使われているのではなく、もっとアップした写真)を見ると、かなり天守閣が傷んでいたことが判ります。やはり、江戸時代の天守閣は「生活の場」でなかったことが偲ばれます。

ところで、上に引用したasahi.comの記事、かなりです。
タイトルからして、「『明治の熊本』照らす重富写真館」と思いっきり間違っているし、文字化けが出ているし「富重写真館」「冨重利平氏」「冨重写真所」「冨重家」と、「富重」なのか「冨重」なのか」、「写真館」なのか「写真所」なのか…?

ちょっと調べてみましょう。

国の有形登録文化財としての名称は「重写真」なのですが、建物に書かれているのは「重寫眞」、そしてタウンページでは「重写真」、そしてそして、お店の看板は「重写真」デス…

いったいどういうこと?

一方、個人の苗字としては、Wikipediaの脚注に、

一部の文献に冨重利平とあるが、戸籍や墓地では富重表記である。

と、一定の結論が出されています。
でも、写真館の名称としてはどれが正しいのでしょうかねぇ。
まぁ、私が悩んでもしょうがないことですけど…

それはさておき、冨重写真所のコレクション(会場では撮影機材も展示されていました)は、熊本市の宝だと思います 大事に次世代へ伝えていっていただきたいものです。

これで観覧料800円は安い と、俗な満足感も胸に、この日最後のポイント「旧細川刑部邸」に向かおうかと思ったら、外はすっごい雨

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傘は持っているとは言っても、この雨の中を歩く気にはなりません。
しばらく美術館の中をうろうろして小降りになるのを待ち、「旧細川刑部邸」に向かいました。

   

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雨を浴びた新緑がきれい

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さて、この「旧細川刑部邸」の説明がまた私の頭を混乱させてくれました。

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細川(長岡)刑部家(刑部少輔家)は、肥後藩細川家三代忠利公の弟、刑部少輔・興孝公が、正保3年(1646)に2万5千石を与えられて興しました。
本邸は城内の元加藤家の重臣 庄林隼人正の屋敷でしたが、延宝6年(1678)に子飼(熊本市東子飼町)にお茶屋をつくり、後に下屋敷としました。刑部家は代々刑部か図書[ずしょ]を名乗り、家禄1万石で活躍しました。子飼屋敷(別業)は、元禄年間や宝永年間にも造作が行われ、藩主もたびたび訪れました。
明治4年(1871)に熊本城が鎮西鎮台となり、城内の武家屋敷は一斉に城外に移りました。時の刑部家の当主興増公は、同6年(1873)、城内の屋敷も子飼に移して男爵家本邸として整えました。<中略>
熊本市では、平成2年度から「ふるさとづくり特別対策事業」によって、三の丸の用地を取得し、4ヵ年で移築復原したものです。<後略>

まず判らないのが、刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)家の石高家格
正保3年(1646)に2万5千石を与えられて興しました」となれば、大名です。ところが、「刑部家は代々刑部か図書を名乗り、家禄1万石で活躍しました」ともあります。いろいろ調べても、刑部少輔家が大名だった気配はなく、細川家の重臣だった感じ…。
また、どこで何があって、2万5千石が1万石になったのでしょうか

更に、三の丸に移築復原された現在の「旧細川刑部邸」が、城内にあった旧本邸ベースなのか、子飼下屋敷ベースなのか、明治期に城内から子飼に本邸が移されて成立した(?)新本邸ベースなのかよく判りません。

なんとも判らないことだらけの熊本ですが、それはさておいて、「旧細川刑部邸」を紹介します。

なんとも立派な長屋門をくぐると、

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粋に屈曲したアプローチの先で、ど~んと唐破風の「御玄関」が出迎えてくれます。

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この移築復原された広大なお屋敷を拝見してもっとも感心したのは、照明の使い方でした。

無粋な作り付けの照明器具はまったくなく、床に置かれたフロアランプと、ショーケースの蛍光灯と、床の間に外から見えないように取り付けられた蛍光灯しかありませんでした。

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ですから、かなり薄暗い…。でも、電灯のなかった時代には、こんな薄暗がりで暮らしていたのだと実体験できることは貴重なことです(最近の私は薄暗がりの中で仕事をしていますが…

そして、陽のあたる部屋の気持ちよいことといったらありません

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また、中庭の「狭さ」がいい

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敷地が狭くて仕方なく狭い庭しか造れなかったはずもなく、これは日本らしい「幕の内弁当」的美の追究なのだと思います。

一方で御湯殿(おんゆどの)と呼ぶらしい風呂場は広々としています。けど、やはり暗い

110716_1_13つくづく、昔の人はよくこんな暗いところで暮らしていたものだと感心(?)します。
日の短い秋~冬なんて、一日中真っ暗だったのではなかろうかと…。

やはり「節電」が始まる前の日本は、すべてが明るすぎたのかもしれませんナ。

そんなことを思いながら外にでると、曇り空の夕方にもかかわらず、かなり明るく感じられました。

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こうして「旧細川刑部邸」を楽しんだ私は、熊本城周遊バス「しろめぐりん」がやって来るまで、隣の三の丸駐車場にある四阿(あずまや)で一服

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こちらから眺めると、「旧細川刑部邸」の広さがよく判りますナ。

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そして「しろめぐりん」の終バス(といっても17:30にもなっていない)に乗って熊本駅に戻り、新幹線の時間まで、のんびりとちょっと早めの夕食を摂ったのでありました。

   

新幹線のコンコースに、こんな《風神と雷神》がありました。

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この《風神と雷神》は、九州新幹線全線開通の記念として、熊本大学教育学部美術科の学生たちが制作したものだそうで、5月末までの限定展示だったようです。
傍らの説明書きによれば、

この風神と雷神は、それぞれ風を吹かさず雷を鳴らさず、「争いや災いを封印」しています。

だとか。風神の袋には、の代わりに新幹線が入っていました。

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これ、発泡スチロールでできているのですって 全然そんな風には見えません
俵屋宗達の《風神雷神図屏風》を参考にしたとありますが、見事な本歌取りです

と、感心していると、もう新幹線が入線する時刻になっていて、ホームに上がるなり、新幹線がやってきました。指定の車両まで小走りデス

ということで、なんとも密度の濃い熊本での一日でした。

九州新幹線さくらの車内は、いかにもJR九州らしく個性的で、そしてオーガニックでした。

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もう日が暮れていましたので、車窓の風景を楽しむことはできませんでした。
もっとも、八代~鹿児島間はトンネルが多く、日中でも景色を楽しむのは難しいのではなかろうかと…

ふぅ~、やっと「熊本編」が終わった…。
南九州旅行記完結はいつになるのでしょうか?

コメント
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