新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

南九州旅行記(その9:熊本城の巻⑥)

2011-07-08 14:03:59 | 旅行記

南九州旅行記(その8:熊本城の巻⑤)のつづきは、いよいよっつうか、ようやく天守閣です。

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上にリンクを貼った公式サイトの説明を引用しますと、

現在の天守閣は昭和35年(1960年)に、総工費1億8,000万円をかけて、鉄筋コンクリートで外観復元されたものです。復元にあたっては多くの市民が協力し、中でも松崎吉次郎(まつざききちじろう)翁からは5,000万円という巨額の寄付がなされました。
天守閣内部は熊本博物館分館となっており、1階は加藤家時代、2階は細川家時代、3階は西南戦争関連の資料を展示しています。
また最上階は展望所となっており、熊本市内はもとより遠く阿蘇(あそ)の山並みを見ることもできます。

ということで、「鉄筋コンクリートで外観復元されたもの」で、内部は博物館と展望所となれば、大阪城天守閣と似たようなものです。

   

それはともかくも、入場しましょう。

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かなりバリアフリーに入場できるのですが、スロープから下を見下ろすと、
110708_2_03 櫓内部の階段同様に、かなりきつい傾斜の石段です。

通路も、狭いし曲がりくねっています。
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戦のとき、天守閣は最後の砦ですから、敵が攻め込みにくくするため、門を小さく、石段を急に造るのはもっともなことです。
観光施設として造ったわけではないですから。

さて、天守閣の内部は、天守閣の内部というよりも博物館そのものでした。

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往時の熊本城のジオラマとか、

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天守閣の構造模型とか、

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天守閣内部の復元模型とか、結構私の趣味デス

でも、基本的に熊本城天守閣の見どころは外観と、展望所からの眺めでしょう。

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と、ここまでずいぶんと引っ張った割には、至極あっさりと天守閣から下りた私でした。

   

西大手櫓門を抜け、

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空濠の向こうに戌亥櫓を眺めながら二の丸へと退出。

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櫨方門(はぜかたもん)から入城したのが12:50で、二の丸へ退出したのが15:20でしたから、2時間半にわたって熊本城内の散策を楽しんでいたことになります。
入場料500円でこれだけ楽しめるとは、相当にコストパフォーマンスが高い

   

次の目的地、熊本県立美術館を目指して二の丸を歩いていると、こんな石碑を見かけました。

110708_2_11神風連 賀屋霽堅 斉藤求三郎 等戦死之跡」と彫られています。

私、「神風連の乱」という「士族の反乱」があったことは歴史の授業で習った記憶がありますが、熊本で起こったことまでは覚えていませんでした。

せっかくですから、熊本城の公式HPからあらましの部分だけを抜き書きしますと、

神風連は城内千葉城にあった林桜園の私塾「原道館」の門下生でつくる「敬神党」の別名です。神風連は神道を重んじる復古主義、攘夷主義の思想団体でした。
明治9年(1876年)3月の「帯刀禁止令」の太政官布告、同6月の熊本県布達「散髪令」に憤激し、新開大神宮に「うけい」を立て、挙兵を認める宣示が下ったとして、熊本鎮台を攻めた旧士族の反乱です。

Wikipediaによれば、「神風連の乱」での神風連側の死者が124人(他に刑死者あり)、政府軍側の戦死者が約60人だそうですから、かなりの内乱です。
同じくWikipediaで「士族反乱」を見ると、1874年2月の「佐賀の乱」に始まり、1876年10月の「神風連の乱」と「秋月の乱」(福岡県)と「萩の乱」、そして翌年の「西南戦争」へとつながっているのですが、不思議に西日本ばかり、しかも明治政府の基盤をなす主要旧藩の地(薩長土肥のうち3藩)で発生しています。

西南戦争終結で士族の反乱が落ち着いた後、次に社会を動かすことになる自由民権運動絡みの騒擾事件が、1881年:秋田事件、1882年:福島事件、1883年:高田事件(新潟)、1884年:群馬事件加波山事件(栃木・茨城)・秩父事件(埼玉)・飯田事件(愛知・長野)・名古屋事件、1985年:大阪事件、1886年:静岡事件と、東日本が主だったことと対称的です。

自分の人生で「10年」というスパンを考えれば、明治維新後の10年間変化の大きさときたら計り知れないものがあります。士族反乱を起こしたり加わった人たちに対して、現代人からすれば「時代の流れに逆らってなんと愚かな人たち」と思いがちですが、主体性を持った人たちほど、急速かつ大きな時代の変化についていくのは大変だったのだろうと思います。
ある意味、戊辰戦争の旧幕府軍の人たちよりも、もっと複雑な事情と思考で行動を起こしたことでしょう。

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南九州旅行記(その8:熊本城の巻⑤)

2011-07-08 00:08:30 | 旅行記

7月2日の記事「南九州旅行記(その7:熊本城の巻④)」のつづきです。

私は以前、お殿様たちお城の天守閣で暮らしているものだと思っていました。

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ところが、実際には天守閣ではなく、別に建てられた御殿で暮らしていたようで、細川の殿様は、「その4」で触れた花畑公園にあった御殿に住んで、熊本城通勤されていたそうです。
そりゃそうですな。
基本的に天守閣の各階は狭いし、別の階に移動しようとすれば、現代の建築基準法からすればあり得ない急な階段を上り下りしなければなりません。
天守閣というものは「生活の場」ではなく、軍事的あるいは政治的な建築物だということでしょう。

そんなわけで(?)、熊本城本丸で城主の生活&政務の場となったのが、本丸御殿だったそうです。

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1877年(明治10年)の謎の火災で焼失し、130年ぶりに再建・公開された本丸御殿は、まだまだ「新築」でした。

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いやいや「新築」どころか、まだまだ未完成で、大広間なんて、

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壁や襖が真っ白
まさしく、「あなた色に染まります」って感じ…

そんな中、「往時はこうだったんだろうな…」と思わせたのは、若松之間と、

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復元された本丸御殿の目玉、昭君之間でした。

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伝説の美女「王昭君」の生涯を描いた障壁画で飾られた最高格式の部屋です。

天井もきれい

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私のBlu-rayディスクコレクションの一つに、08年2月にNHKが放映した「ハイビジョン特集『蘇る桃山文化 熊本城本丸御殿復元』」があります(私のコレクションは再放送された時のもの)。
この番組によると、昭君之間の障壁画の復元だけで3年近くかかったのだそうです。
なにせ、焼失前のこの部屋の様子についての画像データがまったくなく、「王昭君が描かれていた」という文書と、絵師の画風や当時の図象の研究をもとに「想像復元」したのだとか。

計画されているのかどうか知りませんが、大広間の「白地」を桃山に染めるとすれば、どれだけの研究と製作期間が必要となるのでしょうか…
想像するだに恐ろしい…

    

ところで、「君之間」「」に使われている「」の字、現代の日本人にとっては、「和』の『」として馴染み深いものだと思います。

しかし、驚くことに、「」の字が一般的になったのは、大正の次の元号が昭和になってからのことのようです。

猪瀬直樹さんの名著(だと思う)、「天皇の影法師」にこんな記述が出てきます。

「(次の元号は)昭和というんです」
「なに?」
「昭和です」
「正直の正か? 平和の和か?」
「いや日へんにおめしの召しっていう字です」
「なに、そんな字があるのか
板倉主筆はあわてて辞書を引き出した。

天皇の影法師 (日本の近代 猪瀬直樹著作集) 天皇の影法師 (日本の近代 猪瀬直樹著作集)
価格:¥ 1,260(税込)
発売日:2002-09

いろいろ横道に逸れながらも、次回はいよいよ天守閣デス

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