三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

仏教的な「ほどこしの文化」

2013年10月11日 | 仏教

塩見鮮一郎『貧民の帝都』に、「仏教的なほどこしの文化」という言葉がある。
福田(ふくでん)という考えである。

福徳を生み出す田、幸福を育てる田地の意。人びとが功徳を植える場所。(略)布施し、信奉することによって幸福をもたらすとされる対象。(中村元『仏教語大辞典』)

福田には三つあり、その一つ悲田は「貧者・病者など、あわれむべきもの」である。
つまりは、情けは人のためならず、与える者に福があるということである。

松本清張『砂の器』に、ハンセン病の親子が全国を巡礼して歩くが、それができたのは施しをする人たちがいたからである。

穂積重遠(渋沢栄一の孫)

母親のお栄さんが実に天性の慈善家で、かわいそうな人を見ると、うっちゃって置けず乏しい人に逢うと、無性に物が恵みたいという、性分だつたそうです。

 

ある日、お栄が近所のおかみさんたちと入浴していると、例のハンセン病患者がやってきた。その女を見ると他の者はみな気味悪がって逃げだしたが、お栄だけはひとり残り、彼女の背中を流してやったという。栄一は晩年、癩予防協会の資金集めに尽力したが、その動機の一つに、幼い頃うけた母親の薫陶があったといわれている」(佐野眞一『渋沢家三代』)

「ハンセン病患者を見て気味悪がって逃げだした農民のなかにも、空腹の旅人におむすびのひとつもさしだすのにまよいはなかった」と、塩見鮮一郎氏は渋沢栄一の母親について記した後に書いている。

『福翁自伝』に福沢諭吉は母親についてこんなことを書いている。

母もまた随分妙なことを悦んで、世間並みには少し変わっていたようです。一体、下等社会の者に付き合うことが数寄(すき)で、出入りの百姓町人は勿論、えたでも乞食でも颯々(さっさ)と近づけて、軽蔑もしなければ忌(いや)がりもせず、言葉など至極丁寧でした。また宗教について、近所の老婦人たちのように普通の信心はないように見える。例えば家は真宗でありながら、説法も聞かず「私は寺に参詣して阿弥陀様を拝むことばかりは、可笑(おか)しくてキマリが悪くて出来ぬ」と常に私共に言いながら、(略)とにかくに、慈善心はあったに違いない。
ここに誠に汚い奇談があるから話しましょう。中津に一人の女乞食があって、馬鹿のような狂者(きちがい)のような至極の難渋者で、自分の名か、人の付けたのか、チエ、チエといって、毎日市中を貰ってまわる。ところが此奴が汚いとも臭いとも言いようのない女で、着物はボロ/\、髪はボウ/\、その髪に虱がウヤ/\しているのが見える。スルト母が毎度のことで天気の好い日などには、「おチエ此方に這入って来い」と言って、表の庭に呼び込んで土間の草の上に座らせて、自分は襷掛けに身構えをして乞食の虱狩を始めて、私は加勢に呼び出される。拾うように取れる虱を取っては庭石の上に置き、マサカ爪で潰すことは出来ぬから、私を側に置いて、「この石の上のを石で潰せ」と申して、私は小さい手ごろな石をもって構えている。母が一匹取って台石の上に置くと、私はコツリと打潰すという役目で、五十も百も、まずその時に取れるだけ取ってしまい、ソレカラ母も私も着物を払うて糠で手を洗うて、乞食には虱を取らせてくれた褒美に飯を遣るという極りで、これは母の楽しみでしたろうが、私は汚くて/\堪らぬ。今思い出しても胸が悪いようです。

塩見鮮一郎氏は「日本の社会にあったこのような精神、仏教的にして感傷的な同情心はいつごろまであって、いつ消えてしまったのか」と問う。
まだ消えていないと思いたい。

渋沢栄一

小児が井戸に陥ったのを見ていながら救わぬでも可(い)いものだろうか。
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