三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「宗教者の使命―自死をめぐって―」

2013年10月15日 | 日記

某氏から「宗教者の使命―自死をめぐって―」2012シンポジウム記録『預けられたいのちを大切に』という冊子をいただいた。
パネリストは神道、仏教(曹洞宗、浄土真宗)、カトリックの宗教者の方たち。

それぞれの宗教では、自死をどう考えているのか?
神道

神道では自殺・自死を「悪である」と考える。

浄土真宗

いろいろな仏教の経典とか浄土真宗の聖典にあたってみましたが、直接的に自殺を否定するような部分はあまり見つけることができませんでした。(略)仏教の場合は、これから「自殺はいけないのだ」ということをもっと強く言っていく必要があると思いました。

カトリック

本当の意味での自死とは罪なのだ、赦されないことなんですよ、これを明確に打ち出しています。(略)自死でなくなったかたの魂の救い、永遠のすくいはどうなるのだろうか、いいことではないことをした人は神様が約束してくださっている救いに与ることはできないのか。それに対して、自死者の永遠の救いについて決して絶望してはならない、希望を持ちなさい、――これが教会の姿勢です。(略)神はご自分だけが知っておられる方法によって、救いに必要な悔い改めの機会を与えることもできるからです。たとえば入水でも、あるいは首つりでも、実際に行為に移ってから、息を引き取るまで、何秒か、零点何秒か、という時間はあるはずです。その中で、神様のはからいの中で、悔い改めの機会が与えられることも考えられるだろう、神のいつくしみとはからいにわたしたちは希望を置きたい、ということです。

自死を防止するためには、自ら命を絶ってはいけないと、自死を否定すべきなのだろう。
だからといって、自死は「悪である」とか「罪なのだ」と説いていては、自死遺族にとって耐え難いのではないかと思う。
だから、「与えられることも考えられる」とか「希望」という言い方をしているわけだろうが、そんな曖昧な言い方ではなくて、許容というか、救いを明確に説くべきだと思う。

それともう一つ気になったこと。
神道

「死にたい」と言う人はたいてい自死することはなく、大丈夫でしたね。「死にたい」と言ってくれれば助かると思います。

浄土真宗

相談に来られたかたが実際に自死をされてしまうということはありません。やはり本当に自死するかたは言わずにされる場合が多い。

「死にたい」と言っている人は死なないものだ、というのは俗説だと思う。
太宰治にしても、何度も心中未遂をして、そうして命を絶っている。
未遂をくり返して亡くなる人は少なくない。

ウツ病の場合は波があるから、ちょっと元気が出たので相談したけれども、またウツになって死のうとする人もいると思う。
正直なところ、気の抜けた話し合いだというのが感想です。

コメント (2)
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