三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

大阪2児遺棄事件

2010年08月04日 | 日記
児童虐待のニュースほど気がめいるものはないが、大阪2児遺棄事件はただただため息である。
新聞によると、容疑者は「子供の世話が嫌になり、いなければよかったと思い、2人を残して家を出た」「風俗店の仕事がしんどくて、育児もいやになった」「子供なんていなければ良いと思った」「自分の時間がほしかった」「もっと遊びたくて育児が面倒になり、家を出た」などと供述しているそうだ。
この記事を読んで、川口浩史『トロッコ』という映画に、夫を亡くし、8歳と6歳の息子を抱えた母親が「同年代の人で子どものいない人をみるとうらやましく思う時があるんです」というようなセリフがあったのを連想した。
そして、秋田の連続児童殺害事件の畠山鈴香が「離婚した時、無理に引き取らなければよかった。彩香がいなければ職を探しやすいのに」とたびたび口にし、登校中の児童の列に車が突っ込んだニュースを見て、「あの中に彩香がいたなら、人生変わっていたかもしれない」と友人にメールしたということも思いだした。

もっとも、『トロッコ』はフィクションだし、北羽新報社編『検証秋田「連続」児童殺人事件』によると、裁判の鑑定医は「子育てのストレスから、この子がいなかったらと思うのは不思議ではない」と言ってるしで、子どもを抱えた夫のいない母親の似たような発言であっても、この三つを単純に並べるわけにはいかない。
だけど、「この子がいなければ」という思いが浮かんだことのない人は少ないのではないかと思う。
以前、知人の女性に児童虐待をどう思うかと尋ねたことがある。
ある女性は、子どもの夜泣きがひどい時にマンションのベランダから落とそうかと思ったと言ってた。
別の女性は、育児放棄をする気持ちはわかる、30分でもいいから一人で喫茶店でゆっくりコーヒーを飲みたいと思って、そうしたらそのうちそれが当たり前になってくる、といった話をしてくれた。
もちろん、この女性たちが実際に虐待や育児放棄をしたわけではない。
多くの人はそういう気持ちがふっと浮かぶことがあり、だけどもその衝動を抑える。
それは自分の力ではなく、愚痴を言う人がいたとか、ほっと一息つける機会があったとか、そういうことなのかもしれない。
では、どうして一線を越えてしまうのか。

新聞には、「大阪市西区のワンルームマンションで幼児2人が遺体で見つかった事件で、死体遺棄容疑で逮捕された母親の風俗店従業員、下村早苗容疑者が「大阪には育児などを相談できる友人がいなかった」と供述していることが、捜査関係者への取材で分かった。下村容疑者は今年1月から初めて大阪で生活。大阪府警西署捜査本部は、慣れない土地で仕事や子育てに追われ心理的に孤立したとみて、事件との関連を慎重に調べる」
しかし、「子育てに嫌気がさしていた下村容疑者が、子供を親類などに預けようとした形跡はないという」
どうして助けを求めなかったのか。

『検証秋田「連続」児童殺人事件』によると、畠山鈴香は娘が死んだ時の記憶がないらしい。
あとがきに、「検証取材を進める中で、彩香さんの水死事件は判決が認定したような殺害事件ととらえることに疑問を抱かざるを得なくなりました。そこで、本書の表題では、連続殺害に疑問符を付ける意味を込め、「連続」殺害と、連続をカッコでくくることにしました」とある。
娘を殺そうとして橋の欄干から突き落としたのか(検察)、抱きついてくる娘を誤って払い落としたのか(弁護側)、無理心中未遂なのか(一審の鑑定医)、娘はピカチューの人形を落としてしまい、それを取ろうとして誤って川に落ちたのか(控訴審の精神鑑定)、真実はどうだったのかわからない。
また、男児を殺した理由もはっきりしない。
控訴審で、裁判長から「どうして豪憲君を殺したのかな」と聞かれ「分かりません」と答えている。
「気持ちだけでなく、行動も覚えていないところが多い。なぜ覚えていないのか自分でもよくわかりません」
本人もなぜ殺したのか、その時は本人なりのちゃんとした理由があったかもしれないが、それを覚えていないようなのである。
『検証秋田「連続」児童殺人事件』を読む限り、ウソを言っているわけではないと感じる。

精神鑑定によると、畠山鈴香は社会性、主体性がない。
「社会性の欠如とは、社会との交わりが持てない未熟さ、内向性のほか、部屋の片づけもほとんどできない、だらしなさにも顕著に見られる」
「馬鹿正直は、実直さや誠実さとは無縁で、すぐバレると分かるうそをついたり、通常なら胸に秘めることでも思わず口にし、自分に不利になることを思わずしゃべってしまう自己防衛の貧弱さを指す」
別の鑑定医は「なぜそうなったのか本人も説明できないのではないか」と言い、性格傾向を「場当たり的」と指摘し、「幼少期の被虐体験などに基づく被告の「処世術」のようなものと説明。意図的に人をあざむき、その場を上手に乗り切ろうとするタイプではないとし、統合失調症質人格障害など複合的な人格障害、広汎性発達障害の影響がみられる」という。

『検証秋田「連続」児童殺人事件』は次のようにまとめている。
「控訴審判決は、被告の記憶の後退を、被告の「作為」と切り捨て、彩香さん事件や豪憲君事件の動機を含む事実認定や、二つの事件の関連性もすべて社会常識の範囲内に押し込み、分かりやすいように解釈し、罰を下したという印象が残る。何かどこかがズレており、そこに事件の全容があるとは思えなかった」
「結審までのわずか5カ月、計13回の審理で、何がどう明らかになったのかというと、はなはだ疑問だ。そこには検察側と弁護側の両極端の主張があるのみで、審理を尽くしたとは言いがたい。また、裁判員制度は、裁判への市民感覚の反映が狙いとされる。法的解釈や常識で裁くことの限界のようなものすら感じられた。この事件が裁判員裁判の対象となっていたとするなら、どうなっていただろうかと考えると、途方もない戸惑いを覚える」

私も本を読んで、検察が主張するわかりやすい解釈は間違っていると思った。
大阪の事件についても、なぜに対するどんな答えも隔靴掻痒の感をまぬがれないだろう。
それにしても、新たに高速道路や新幹線などを建設するよりも、児童相談所の人員を増やすなど児童虐待を防ぐことに税金を使ってもらいたいと思う。
コメント (10)
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