三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

小川一乗『親鸞が出遇った釈尊』

2010年08月22日 | 仏教
小川一乗『親鸞が出遇った釈尊』は〈シリーズ親鸞〉の第二巻、〈いのち〉という言葉がやたらめったら頻出する本である。
「生死の世界から出離する〈いのち〉」
「輪廻に流転する〈いのち〉」
「すべて生きとし生ける〈いのち〉」
「〈いのち〉(霊魂)」
「理性ではどうにもならない〈いのち〉の事実」
「すべての〈いのち〉は無条件に平等である」
というふうに、〈いのち〉には種々のあり方があることがわかる。
だけど、こんなにたくさんの意味がある概念を、どうしてわざわざ〈いのち〉という言葉でひとくくりにしなければならないのかと思う。
たぶん、それら〈いのち〉に共通するものがあるからなんだろうけど、それは何なのかとなるとはっきりしないのではないか。
わざわざ「いのち」という意味不明の言葉を乱用するよりも、仏教語をそのまま使ったほうがよっぽどいいと思う。

それとか、「私たちの〈いのち〉の本来的あり方であるゼロ」と小川一乗師は言っていて、「ゼロ」とは何なのかというと、そのあとに「ゼロ(空)」とあって、つまりは空のことらしい。
だけど、読者としたらゼロとは無のことだと思うのではないだろうか。
これにしても、「空」をそのまま使ったほうが誤解が減ると思う。

で、阿弥陀の「いのち」と「生命」とは違うらしい。
小川一乗師は「私たちの〈いのち〉は、生命という物質的存在としてだけでありえているわけではない。生命も、私たちの〈いのち〉を〈いのち〉たらしめている因縁ではあるけれども、それだけではない」と言っている。
御遠忌テーマの英訳は「Your life and my life are a part of one Life」だそうだ。
lifeとLifeの違いが「生命」と「いのち」の違いということか。
でも、「one Life」とはアートマンみたいな感じで、何だかあやしい。

以下は、『親鸞が出遇った釈尊』のまとめである。
「私たちの〈いのち〉とは「縁起する〈いのち〉」であり、本来的にゼロ(空)である、ということが釈尊によって覚られた。ゼロ(空)であるにもかかわらず、もろもろの因縁によって、ただいま「生かされている私」としてありえている。その〈いのち〉が必ず浄土に往生していくことによって、釈尊の覚りが私たちに実現される。
この〈いのち〉への感動と歓喜とをもって、私たちの〈いのち〉が生きていく。それこそが浄土思想の内実である」
この文章をどう思うか、海野孝憲氏の感想を聞きたいものです。
コメント
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