先日、江田島の旧海軍兵学校(海上自衛隊第1術科学校)を見学した。
海軍の史料が展示されている教育参考館を見て、この展示は海軍の美しい歴史だと感じた。
将軍や士官の写真や遺墨が展示されており、彼らの経歴を読むと、いずれも武勇、智略、人望を兼ね備えた方ばかりである。
それなのに戦争になってしまい、連合艦隊はこてんぱんにやっつけられて、結局は負けてしまったのはどうしてなのかと思った。
海軍に召集された新藤兼人脚本の『陸に上った軍艦』で描かれたしごき、いじめは教育参考館からはうかがうことができないし。
歴史は美しいことばかりではなく、暗部もあることは言うまでもない。
石光真人編著『ある明治人の記録』を読む。
柴五郎という人が残した遺書を石光真人がまとめ、解説を加えたものである。
柴五郎は安政6年(1859)会津に生まれ、のちに陸軍大将になっている。
明治元年、柴五郎10歳の時に官軍が会津を攻め、祖母、母、兄嫁、姉、妹は自死した。
その後、会津藩あげて下北半島斗南に移封されて開拓に励むも、寒さと飢えに苦しみ、辛酸の歳月をすごす。
そのために柴五郎たち会津人の薩長に対する恨みは深く、西南戦争には競って従軍している。
西郷隆盛の自刃、大久保利通の殺害の際には喝采をあげたという。
明治政府のこうした扱いは会津藩に対してだけではない。
たまたま結城昌治『森の石松が殺された夜』を読んでたら、「博徒さむらい」に、黒駒の勝蔵が相楽総三の赤報隊の一員として戦ったとあったのにはいささか驚いた。
黒駒の勝蔵は清水の次郎長の敵役にされているが、実際は次郎長よりもはるかに立派な親分だったらしい。
結城昌治氏はこう書いている。
「戦争に一人でも多くの手兵が欲しい事情は倒幕派も幕府側も同じで、双方ともさかんに各地の博徒を集めて即成の一線部隊をつくった」
「官軍について命がけの戦いをした博徒も、もはや厄介者でしかなかった。利用価値がなくなれば捨て去るのが権力政治の論理」
「彼ら博徒の多くは、時代の流れに乗ったつもりで、結局は権力に利用されて捨てられるという運命を辿った」
黒駒の勝蔵は明治3年、休暇届の期限内に帰隊しなかったというので脱走と見なされて斬首された。
結城昌治氏は、次郎長に関する資料を読みあさるうちに、次郎長がいよいよ嫌いになったという。
「次郎長のように要領のいい者だけが、新しい権力に取り入って、後の世までうさん臭い名声を博している」
赤報隊については、長谷川伸『相楽総三とその同士』に詳しいが、読み直すのが面倒なので省略。
「yahoo!百科事典」には、「総督府は農民層を多く編成したこの隊が、民衆と結ぶことを恐れて弾圧し、相楽らは3月に「偽官軍」の名の下に信濃国下諏訪にて処刑された」とある。
東山道軍の先鋒として活躍した相楽総三たちも、結局は利用されて捨てられた厄介者だったのである。
ついでに書くと、明治政府の宗教政策も無茶苦茶で、神仏分離、廃仏毀釈を強制したため、各地で一揆が起きている。
岐阜県東白川村と奈良県十津川村では寺が破壊され、今でも寺院がないそうだ。
安丸良夫『神々の明治維新』によると、竹生島では弁財天をもって都久夫須麻神社と改称せよと命令した強引なやり方に寺院は抗議したが、県庁はそれに対して「左程迄に仏法を信ずるなれば、元来仏法は天竺より来りし法なれば、天竺国へ帰化す可し」と強要している。
熱心な仏教信仰を続けた山階宮晃親王は明治31年、その死にさいして仏式の葬儀をするように遺言した。
しかし、「仏葬式の可否は枢密院に諮られたが、皇族の仏葬を許すことは「典礼の紊乱」をもたらす恐れがあるという理由で、山階宮の仏葬式は認められなかった」そうだ。
面白いと思ったのが、慶応4年、山陵稜汚穢についての審議である。
「その趣旨は、山陵は天皇の死体を葬ったものであるから穢れたものとすべきかどうかということであった。死体によって穢されたとすれば、僧侶にその管理を任せなければならないことになるのである。この問題の検討を命ぜられた国学者谷森種松は、天皇は現津御神であるから、現世でも幽界でも神であり、穢れるということはない旨を答えた。そうして、天皇霊は、寺院と僧侶から切り離されて、べつに祀られることになった」
サギを烏だと言いくるめるこういう御用学者はいつの時代にもいるものである。
柴五郎の遺文を読んだ石光真人は「いったい、歴史というものは誰が演じ、誰が作ったものであろうか」という疑問を『ある明治人の記録』に述べている。
「古事記以来、私どもはいくたびか数えきれないほど、しばしば歴史から裏切られ、欺かれ、突き放され、あげくの果てに、虚構のかなたへほうり出された」
「一藩をあげての流罪にも等しい、史上まれにみる過酷な処罰事件が、今日まで一世紀の間、具体的に伝えられず秘められていたこと自体に、私どもは深刻な驚きと不安を感じ、歴史というものに対する疑惑、歴史を左右する闇の力に恐怖を感ずるのである」
歴史とは事実を叙述したものではなく、恣意的に作られるものだなと思った。
『「東京裁判」を読む』のあとがきでも、井上亮氏は「歴史とはある意味、勝者によって刻まれた史観であり、地下には必ず敗者の歴史が埋もれている」と書いている。