三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『ザ・コーブ』と表現の自由

2010年08月10日 | 日記
『ザ・コーブ』をめぐって表現の自由について論議があるらしい。
イルカ漁の中止を求める映画を製作する自由、その映画を上映する自由、その映画の上映中止を求める自由、そして上映を中止することは自由な言論を弾圧することだという主張。
報道の自由、表現の自由とは何かについては平川宗信『報道被害とメディア改革』が参考になる。

なぜ報道・表現の自由が大切なのか、平川宗信氏によれば民主主義を守るためである。
「もともと、報道・表現の自由は、テレビ局や新聞・雑誌社の利益追求のために憲法が保障したものではありません。報道・表現の自由は、もっと高次元の目的のために保障されているのです。それは、「民主主義」という、現代国家・憲法の基本原理に関わります。
民主主義社会は、人民主義を基本原理としており、主権者は一人ひとりの市民です。主権者である市民が政治や社会に関わるさまざまな問題について意見交換・議論してコンセンサスをつくり、それにもとづいて政治や社会を動かしていくのが民主主義です。その意味では、民主主義の本質は、市民による自治、すなわち市民自治にあります。日本では、多数決が民主主義のようにいわれることが少なくありませんが、「多数派の支配」が民主主義なのではありません。議論の積み重ねによる市民自治こそが民主主義の本質なのであって、多数決は議論を積み重ねたうえでの最後の決定方法にすぎません。
したがって、民主主義の基礎となるのは、市民間の徹底した意見交換・議論です。
そのためには、政治や社会に関するさまざまな情報が必要です。具体的な情報がなければ、現実に何が起こっているのか、何が真実なのかがわかりませんし、事実に即した意見交換・議論ができず、自分の意見・判断を形成することもできません。民主主義・市民自治には、意見形成や議論の前提となる情報が必要です。そして、自分の意見を自由に表明することができなければ、意見交換や議論はできません。民主主義・市民自治には自分の意見を表明する自由も必要です。
このように考えるならば、民主主義・市民自治が成り立つためには、政治や社会の問題について意見を形成し議論するのに必要な情報を市民が入手する権利すなわち「知る権利」が認められなければならず、また自分の意見を自由に表明する権利が認められなければならないことになります」
「それゆえ、メディアの報道の自由の中核も、民主主義・市民自治に必要な情報を伝えて市民の「知る権利」に奉仕することにあります」

知っていなければ、その問題について議論できないし、自分なりの判断をすることもできない。
ということは、『ザ・コーブ』を見なければ、『ザ・コーブ』上映の是非について議論できないということになるから、上映を中止すべきではないという、何やらこんがらがった話になる。
このあたりポルノの規制と同じだと思うのだが、あるポルノ映画が猥褻かどうか、そのポルノ映画を見ないと判断できない。
かといって、問題あるポルノ映画を公開したのでは社会の秩序が紊乱してしまう、という矛盾。
これはカルトと表現の自由とか、そういう問題とも通じると思う。
ウィキペディアによると、わいせつ物と表現の自由との関係について定説がないそうで、なかなか微妙なのである。

また、メディアに報道の自由があるといっても、報道される側の人権を守らなければならない。
実際、『ザ・コーブ』は水産庁の役人や太地町の人たちを悪者扱いしていて、あれはひどいなと思う。
しかし、平川宗信氏は「報道被害防止・救済のためであっても、報道の自由を不当に侵害・抑圧することがあってはなりません」と言う。
それはなぜかというと、
「参政権が保障されていなければ、民主主義は成り立ちません。それと同様に、報道・表現の自由の保障がなければ、やはり民主主義は成り立ちません。その意味で、報道・表現の自由は、参政権と同じように民主主義を底支えする一種の政治的権利と考えられます。
そして、一般の人権が侵害された場合には民主的なプロセスでこれを回復することが可能なのに対して、報道・表現の自由が失われた場合には民主的なプロセスでこれを回復することは不可能です」
「報道・表現の自由が失われた場合には、そのことを社会に訴え、これを問題として市民間で意見交換し議論すること自体が不可能になります。報道・表現の自由が失われると、民主的なプロセス自体が失われ、民主的なプロセスによる回復は不可能となります。
そうだとすると、報道・表現の自由に関しては、とくに手厚い保護が必要だということになります。そのため、報道・表現の自由は、他の人権に優越する「優越的権利」とされ、他の人権以上の「優越的保護」を受ける特別の権利とされています」
ということで、基本になるのは民主主義なのである。

もっとも、どんな報道であろうとも優越的権利があるわけではなく、報道の中身によって違ってくる。
「報道・表現の自由には、その本来の意義に基づく限界があります。
報道・表現の自由が優越的保護を受ける優越的権利とされるのは、その本来の意義が、市民の民主的自治に必要な情報を伝えて市民の「知る権利」に奉仕して民主主義を底支えすることにあるためです。そうだとすれば、優越的保護を受けるのは、市民自治に必要な情報を伝えて市民の「知る権利」に奉仕する報道・表現に限られるはずです。そうではない報道・表現は、民主主義とは無関係であり、優越的保護を受ける趣旨から外れます」
「たとえば、政治家、高級官僚、大企業・大労組の幹部等の社会に対して大きな影響力をもついわゆる「公人」については、市民の批判・監視のもとに置いて、場合によっては選挙等でその地位を左右する必要があります。このような人びとの行実は、場合によってはプライバシーをも含めて市民自治に必要な「知る権利」の対象になると考えられます」
「しかし、これに対して一般の市民の場合は、その私的な行実が政治や社会の動きに影響することはありません。それゆえ、一般市民のプライバシーは、市民自治に必要な「知る権利」の対象ではなく、その報道は許されないということになります」

公と私ということだが、『ザ・コーブ』はどっちなんだろう。
たとえば、イルカは絶滅の危機に瀕しているにもかかわらず大量のイルカを殺しているとか、イルカには許容量以上の水銀が含まれているのを隠してイルカの肉を販売しているということであれば、これは公共のために報道の必要性がある。
だけど、「イルカのようにかわいくて賢い哺乳動物」は殺してはいけないというのは個人的な価値観というか感情論にすぎない。
たとえば、インド人が「牛のような神聖な哺乳動物を殺してはいけない」と屠畜業者に抗議したとして、それは個人の宗教的価値観に基づいた抗議だと思う。
あるいは、農作物に害を加えるというのでイノシシを駆除し、その肉を食べることを非難する人はまあいないだろうけど、ニホンザルなら私も抵抗がある。
イノシシならOKで、ニホンザルならダメ、というのは感情的なものだと思う。
イルカはかわいくて、サメなら殺してもいいというのも同じ。

ついでに言うと、製作側が『ザ・コーブ』で主張したいのは、哺乳類であり、知能が高いイルカを殺すことがいけないということか、水銀汚染されているから食べてはいけないということか、そこらがはっきりしない。
もう一つついでだが、日本人の中にも、今の日本ではクジラやイルカを食べなければならない必然性はないと言う人がいる。
食料の廃棄率を考えたらその通りだが、だったらマグロや鯛やヒラメといった高級魚を食べなくても死ぬことはない。
なぜクジラやイルカは特別なのか。
『ザ・コーブ』は、日本人は魚を食べすぎるから魚類が減っているとも言っていて、牛や豚を食べるのはいいが、海洋生物はダメだということなのか、と築地市場のシーンを見ながら私は憤然としたのでした。

「個人の幸福は、他人に迷惑をかけない範囲で追求すべきものです。他人の幸福を犠牲にして自分の幸福を追求する権利は、誰にもありません。したがって、このような自由は、他の人権に優越するものではなく、それが他者の人権を侵害する場合には引き下がらなければなりません。この見地から、興味本位の覗き見的な報道や、他人のプライバシーを暴露するような報道は、許されないことになります」
私は『ザ・コーブ』には「興味本位の覗き見的な報道や、他人のプライバシーを暴露するような報道」という要素が感じられる。
事実をそのまま写し出したというよりも、かなり作為があるし。

で、表現の自由について、結論としては平川宗信氏の次の意見ということになるだろう。
「市民の誰にも必要かつ可能なことは、メディアをさまざまな視点から分析・評価して読み解き、メディアを使いこなし、情報を受動的に受けとるだけでなく、自分からも積極的に発信して相互に伝えあうコミュニケーション能力をさまざまな形で身につけることです。このような力は、「メディア・リテラシー」と呼ばれます」
「市民がメディア・リテラシーを身につけ、メディアに対してより批判的・積極的に関わり、より多くの人が報道被害・メディア問題NPOに参加するようになれば、メディアも変わらざるえません。それが、報道被害の防止、減少にもつながります。
市民が動けば、メディアも変わります」
コメント (6)
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