三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

広瀬健一「学生の皆さまへ」5 恐怖心の喚起

2009年07月03日 | 問題のある考え

オウム真理教では、悪業を作ると地獄に落ちるぞと脅していた。
広瀬健一氏はこのように書いている。
「オウムの教義にもまた、ある思考や行動を宗教的悪業として規定するものがありました。たとえば、私が出家した直後の平成元年四月二日、麻原は次の内容の説法をしています。
「わたしたちの修行を妨げる眠気、貪り、怒り、真理(オウムの教義と考えていただいて差しつかえありません)を否定したくなる気持ちは悪魔であり、取り返しのつかない迷いの生を繰り返す」
「現代人は快楽を追求し、真理の実践をしていないので、三悪趣(地獄・餓鬼・動物)に生まれ変わる」
「説法を復習せず、聞き流すとサマナ(出家者)をやめるという結果になり、迷いの生に入り、三悪趣に生まれ変わる」

また、クンダリニーが覚醒すると、「魔境」に入りやすくなるとされていました。これは、「これ以上ない人生の挫折」、「生まれ変わっても続いてしまう恐ろしい修行の挫折」とされる状態です。そして、「魔境」に落ちないためには、「正しいグル(解脱した指導者)を持つ」、「功徳(神とグルに対する布施と奉仕)を積む」、「強い信を持つ(グルと真理を強く信じる)」、「真理の実践をする」ことが必要と説かれていました。
この類の教義はほかにも多数ありましたが、これらは信徒にとって、麻原、教団、あるいは教義からの離脱を困難にし、そして、麻原や教義に従うよう思考や行動を統制するものでした。このような作用は、信徒が違法行為の指示に従ったり、事件が明らかになった後でも脱会しなかったりする原因の一つと思います」

悪業を作ったら地獄に落ちるのだから、悪業とされる行為はたとえ命に関わることであってもできなくなる。
「(苦界に転生する)その恐怖のために、たとえ自身の生命や健康が損われる事態に直面しても、悪業となる行為はまったくできません。私の経験としては、次のことがありました。
地下鉄サリン事件のとき、私がサリン中毒になったので、あらかじめ指示があったとおりに、送迎役の信徒が車で教団の付属病院に連れて行ってくれました。ところが、病院関係者に話が伝わっておらず、事情がわからないようでした。しかし、私はサリン中毒と伝えられませんでした。「ヴァジラヤーナの救済」の任務に関することを関係者以外に話すと悪業になったからです」
死後の生のあり方を重く考えて現在の命を軽視するということでは、エホバの証人の輸血拒否と通じる。

信者にとっては三悪趣に落ちるということは脅しやたとえではなく、具体的なイメージを持つ事実なのである。
広瀬健一氏はこういう経験をしている。
「気味悪い暗い世界のヴィジョン(非常に鮮明な、記憶に残る夢)や自分が奇妙な生物になったヴィジョン―カンガルーのような頭部で、鼻の先に目がある―などを見ました。この経験は、カルマが移り、自身が苦界に転生する状態になったことを示すとされていました」

悪業とされることは日常的なことであってもできなくなる。
「私は釣りが好きだったのですが、それは悪業になるので、クンダリニーの覚醒以来一度も行いませんでした。そのほか虫も殺せなくなるなど、恐怖のために、教義で悪業とされる行為はできなくなったのです」
虫を殺さないのは慈悲のためとかいうのではなく、堕地獄の恐怖からである。
在家で生活をしていたらどうしても悪業を作らざるを得ないので、三悪趣に落ちたくなければ出家するしかないということになってしまう。
そういうふうにして信者を縛りつけ、言いなりにさせていたのである。

でもまあ、脅して不安にさせてだますというのは悪徳商法、インチキ宗教の基本的テクニックだし、まともだとされる宗教でもその点では同じ。
ユダヤ・キリスト教でも罪を犯した者は地獄の業火に永遠に苦しむと説いていた。
「当時(イエス在世のころ)のユダヤの民衆は、到底守りきる事は不可能は六百をこすユダヤ教の厳しい戒律のもとで、地獄の恐怖にもまたおびえていた」(井上洋治『法然』)

オウム真理教の信者が感じた地獄に落ちる恐怖心は、ユダヤの民衆や平安時代、鎌倉時代の人たちと共通するものだろうと思う。
源信『往生要集』に地獄の様相が具体的に描かれているが、その描写を当時の人は文字通りに信じていたのである。
西行は次の歌を詠んでいる。
「みるもうしいかにかすべき我心 かゝるむくいのつみやありける」(地獄絵を見るだけでも心が重苦しく辛い。本当にどのようにしたらよいのだろうか、業の深い私の心を。このようなむくいを受ける罪が自分にもあったのではないだろうか)
「ここみみしつるぎのえだにのぼれとて しもとのひしをみにたつるかな」(以前に好んで見ていた剣、その剣が枝になっているその木に獄卒は、登れ、登れ、とせきたてて、笞の刺す股をこの身につきたてることだ)
(井上洋治『法然』)
西行のような人でも、地獄の苦しみを自らのものとして恐れていたのである。
あるいは、高砂の老いた漁師夫婦は法然にこういう悩みを訴えている。
「わが身は、この浦のあま人なり。おさなくよりすなどりを業とし、あしたゆふべに、いろくづの命をたちて、世をわたるはかりごとゝす。ものゝ命をころすものは、地獄におちてくるしみたえがたく侍なるに、いかがしてこれをまぬかれ侍るべき。たすけさせ給へ」(私はこの浦の漁師です。幼いころより漁を仕事とし、朝に夕べに魚を捕って生活をしています。生き物の命を殺すものは地獄に堕ち、その苦しみは耐え難いと聞いています。どうして地獄の苦しみをまぬがれることができるでしょうか。どうか助けてください)
親鸞も、比叡山を下りた理由は妻の恵信尼の手紙に「ごせをいのらせ給ける」とあるように、後世(死後)の不安なのである。

地獄で脅すのは昔の話ではない。
念仏宗無量壽寺とかエホバの証人のように、○○教を信じなければ救われないと説く宗教は今でも珍しくないが、それはおいといて、毎日新聞にこういう記事があった。
「遺族同士が集まり体験や思いを語る分かち合いの会「藍の会」「自死遺族ケア団体全国ネット」の運営者によると、自殺者の遺族が通夜や葬儀の法話で僧侶から「命を粗末にした人間は浮かばれない」「自殺は許されないことだから地獄に落ちる」と言われたといった話をよく聞くという。
ある遺族は息子の位牌の戒名の最後に「自戒」という2文字を入れられた。「自戒」が自殺を意味すると知った遺族は本山に抗議したが、僧侶は戒名のつけ直しに応じたものの、さらに戒名料を請求したという。戒名に「痴」という文字を入れられた遺族もいる。
ほかに、夫の戒名料を50万円出そうとしたら「自殺だから位牌は書かない。(戒名料が)80万円なら書く」と僧侶に言われ、やむなく払った▽子どもが自殺し菩提寺に葬儀を頼んだが、断られた上に墓にも入れられないと言われた--などの例もある。仏教だけでなく、カトリックでも葬儀で「好ましくない死に方だ」と説教する神父がいるという」
(毎日新聞6月4日)
今どき、「自殺したら地獄に落ちる」などと言う坊さんがいるとは信じられない話である。

広瀬健一氏は「恐怖心を喚起する思想も極めて有害です」と言っているが、恐怖心の喚起はおそらくすべての宗教に大なり小なり当てはまると思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする