三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

広瀬健一「学生の皆さまへ」8 ポア

2009年07月19日 | 問題のある考え

広瀬健一氏の説明によると、ポアの理屈はこういうことである。
「麻原は「ヴァジラヤーナ」の教義に基づく救済を説きはじめました。現代人は悪業を積んでおり、苦界に転生するから、「ポア」して救済すると説いたのです。「ポア」とは、対象の命を絶つことで悪業を消滅させ、高い世界に転生させる意味です。この「ポア」は、麻原に「カルマを背負う―解脱者の情報を与え、悪業を引き受ける―」能力があることを前提としています」


「麻原は仏典を引用して、「数百人の貿易商を殺して財宝を奪おうとしている悪党がいたが、釈迦牟尼の前生はどうしたか」と出家者に問いました。私は指名されたので、「だまして捕える」と答えました。ところが、釈迦牟尼の前生は、悪党を殺したのです。これは、殺されるよりも、悪業を犯して苦界に転生するほうがより苦しむので、殺してそれを防いだという意味です。それまでは、虫を殺すことさえ固く禁じられていたので、私にはこの解答は思いつきませんでした。しかし、ここで麻原は、仏典を引用して「殺人」を肯定したのです」

仏典の引用ということで思いだしたのだが、ある坊さんが釈尊は死刑を肯定しているとして、指が毒に犯されてそのままにしてたら死ぬとしたら、腕を切り落とせと釈尊は言っている、という話をした。
私は不勉強にしてこの話を知らないが、たとえというのはどういうふうにも解釈できる。
釈尊は場合によっては人を殺すこともやむを得ないと説いていると、この坊さんが主張するのなら、ポアという理屈で殺人を正当化した麻原彰晃に反論できないと私は思う。

ポアについて別の信者はこう語っている。
「論理的には簡単なんですよ。もし誰かを殺したとしても、その相手を引き上げれば、その人はこのまま生きているよりは幸福なんです。だからそのへん(の道筋)は理解できます。ただ輪廻転生を本当に見極める能力のない人がそんなことをやってはいけないと、私は思います」
(村上春樹『約束された場所で』)
「彼らはカルマの法則を信じて、来世に天界にいくと信じている。ポアされたのは素晴らしい良縁なんだという幹部の話を信じている」
(瀬口晴義『検証・オウム真理教事件』)

これからの人生で悪いことをして悪道に落ちるのがわかっていたら、罪を作る前に殺すことは悪道に落ちることを防ぐのだから慈悲になる、というポアの理屈は、カルマの法則を信じるならば筋が通っている。
これまた以前に書いたことなのだが、日本やチベットの仏教でも呪殺が行われていた。
羽田野伯猷『チベット人の仏教受容について』によると、11、12世紀にチベット仏教では、Vajrabhairavaというタントラが度脱に関する代表的聖典であり、呪殺による度脱を最たる目的としていた。
もっともこのタントラは、当時のチベット密教によってすらも外道の烙印を捺されていたそうだ。
Rwa翻訳官という「度脱においてはチベットにおける第一人者と称して差し支えない人物」がいて、Rwa翻訳官は多くの僧や外道たちを度脱、すなわち呪い殺していたということで有名だった。
Rwa翻訳官は「度脱、呪殺事業は利他行である。方便善巧の大悲行である。仏の大悲である」と、オウム真理教と同じことを言っている。
当時のチベットでは、Rwa翻訳官に限らず優れた僧とされていた者はこうした能力を有しているとされており、そういった呪力を持つ者が畏れられ、尊敬されていたという。

輪廻、霊魂、カルマなどの実体化は殺人を肯定する理由になるわけだ。
ただし、日本やチベット仏教の場合、直接に手を下して殺したわけではないし、呪殺できる能力を持つ者が行なっていたわけで、上の者が命令して殺させたオウム真理教とは違っているが。

殺人は罪だが、場合によっては許されるという理屈、これは脳死による臓器移植もそうだ。
脳死が人の死であることに決めて、脳死だから殺人ではないとしただけのことである。
またまた死刑だが、
・罪の償い→カルマの清算
・再犯防止→ポア
だからOK、ということになると思う。
戦争も同じ。
渡部昇一氏が南京虐殺を否定する意見の中で、便衣兵はゲリラのようなもので一般人と見分けがつかない、だから便衣兵だと間違えられて一般人が殺されるのはやむを得なかった、ということを言っていた。
こんなふうに例外をどんどん作っていけば、戦争における殺人はすべて正当化される。

カール・メニンガーという精神科医によれば、「すべての自殺は殺人だ」そうだ。
では、安楽死や尊厳死という自殺はどうか
ロバート・I・サイモン『邪悪な夢』によると、
「年配者や慢性疾患や不治の病に冒された人びとの、考え抜いた末の自殺が、理性的であるかどうかの判断は難しい」
「多くの場合、そばに付き添っていた人びとは、患者が、もう十分に長く生きたから、ここらで死のうと理性的判断を下したものと思っている。だが、そういう患者はたいてい抑鬱状態にあり、ほんとうのところは理性を失っての自殺だ」
「末期患者が治療を拒否すれば、自殺を図っていると思われがちだが、かならずしもそうではない。彼らは死にたいのではなく、苦しいだけの無意味な治療から自由になって生きたいのかもしれない」

となると、安楽死や尊厳死もそう簡単に認めるわけにはいかなくなる。
殺してもかまわない特例を認めるとして、その特例の是非を判断する人によってどのようにでも恣意的なってしまう。
安楽死・尊厳死を認め、そうして臓器移植しようとする人が出てきそうな気がする。
だから、どんな場合でも人を殺すことは認めるべきではない。

で、疑問。
ロバート・I・サイモンは「殺人が細部に至るまで緻密に計画されたものであっても、犯人がそれを悪い行為だと判断できるとはかぎらない」と言うが、これはまさにオウム真理教の事件が相当する。
広瀬氏たちオウム真理教の信者は「私はいわゆる幽体離脱体験(肉体とは別の身体が肉体から離脱するように知覚する体験)などもあったので、私たちの本質は肉体ではなく、肉体が滅んでも魂は輪廻を続けるとの教義を現実として感じていました。そのために、この世における生命よりも、よりよい転生を重視するオウムの価値観に同化していました」と地獄や来世の実在を信じ、生まれ変わるのだから死んでも死なないと考え、
「私たちは地下鉄にサリンを散布する指示を村井秀夫から受けました。麻原の意思とのことでした。その指示は、当時の私には、苦界に転生する人々の救済としか思えませんでした。一般人が抱くであろう「殺人」というイメージがわかなかったのです」
つまり殺意はなかったということになる。
ロバート・I・サイモンは「ビルから飛び下りても怪我をしないと思い込んでいる人間に、死ぬ意思はあるのか?この場合、自殺の意思はなかった、と私は考える」と問うが、同じように、死は終わりではない、来世もしくは死後の世界があると信じている人が殺人を犯し、殺意がなかったと主張したら、裁判官はちょっと困るんじゃなかろうか。
オウム真理教の信者にとっては、罪を自覚することがオウム真理教の教義を離れたということになると思う。

コメント
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