三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

広瀬健一「学生の皆さまへ」7 神秘体験

2009年07月09日 | 問題のある考え

広瀬健一氏がどうしてオウム真理教にはまったかというと、それは神秘体験の影響が大きい。
広瀬氏の指導教授は法廷で「結局、神秘体験だと言っていた」と証言している。

広瀬氏は「私にとっては、現代人が苦界に転生することと、麻原がそれを救済できることは、宗教的経験に基づく現実でした」と、「宗教的経験」という言葉を使っている。

そもそも広瀬氏は、高校三年生のときに「生まれた意味」の問題を明確に意識するようになり、たまたま麻原彰晃の著作を読む。
「偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年のときでした。その後、関連書を何冊か読みました」
「本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行の過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一か月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。
眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。
「クンダリニーの覚醒―」
意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニーが覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。
続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーとのことでした。そして、それはゆっくりと背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。(略)
私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意思に反して、クンダリニーは上昇を続けました。
クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした」

本を読んだだけで神秘体験を経験するとは驚きだが、広瀬氏はそれだけ暗示にかかりやすい体質なんだろうと思う。
滝本太郎弁護士によると、中川智正被告などは子供のころから神秘体験を経験しているそうだ。
「同人に特異なことは、幼いころからさまざまな「神秘体験」をしてきており、これが不安のままに成長してきたところ、麻原彰晃に出会ってしまったということであった。被告人としては、実際に前生の自分を見ていて、日常的に物理的に麻原彰晃が光っており、麻原彰晃を見ると心臓が喜び同心円状に体に広がっていった、と言うのである。(略)法廷で麻原を見るとやはり光り輝いて見えると言うのである」
(「オウム裁判10年を振り返る」)

広瀬健一氏は出家した後にこういう体験をしている。
「私は解脱・悟りのための集中修行に入りました。第一日目は、立位の姿勢から体を床に投げだしての礼拝を丸一日、食事も摂らずに不眠不休で繰り返しました。このときは、熱い気体のような麻原の「エネルギー」が頭頂から入るのを感じ、まったく疲れないで集中して修行できたので驚きました。
この集中修行において、最終的に、私は赤、白、青の三色の光をそれぞれ見て、ヨガの第一段階目の解脱・悟りを麻原から認められました。特に青い光はみごとで、自分が宇宙空間に投げ出され、一面に広がる星を見ているようでした。これらの光は、それに対する執着が生じたために、私たちが輪廻を始めたとされるものでした」

そりゃはまるわな、と思う。

こうした経験は広瀬健一氏だけではない。
「多くの信徒が教義どおりの宗教的経験をしていたのです」
「多くの信徒は教義の世界を幻覚的に経験しており、その世界を現実として認識していたのです」

信者たちはこのように神秘体験によって「オウムは真実だ」と確信したのである。

「生きる意味」を求めているうちに神秘体験をしたということでは、諸富祥彦氏(明治大学教授・日本トランスパーソナル学会会長)も広瀬氏と同じである。
すでにブログに書いたことだが、諸富氏は中2の時から7年間、「人は何のために生まれ、いかに生きていくべきか」、「人生の、ほんとうの意味と目的」という問いの答えを死に物狂いで求め、心身はボロボロになり、自殺未遂までした。
そして「七年もの間、人生の意味と目的を求め続けた結果、私は「答え」を手に入れることができた」とはっきり書いている。
その答えとは何か。
「私は、中学三年生の春から、おおよそ七年もの間、「人生の意味」を求め、いくら求めてもそれが求まらずに苦しんでいました。(略)
そんな思いで生きていたある日のこと、私はついに決意したのです。
もうこのままでは仕方がない。これから三日間、飲まず食わず寝ずで、本気で答えを求めよう。そしてそれでもダメだったら、今度こそきっぱりと死のう、と。
三日後……「答え」は見つかりませんでした。(略)
「もう、どうにでもなれ」。心身の疲労が限界にきていた私は、なかば魔が差したのも手伝って、実際に、その場に倒れこんだのです。うつぶせに。けれど、何かが、いつもと違う……。からだがとても軽いのです。不思議だな、と思って、あおむけになってみると、横たわった私の、おなかのあたりの、ちょうど一メートルほど上の位置でしょうか、そのあたりに、何かとても強烈な「エネルギーのうず」のようなものが見えたのです。
「あああぁぁ……」。言葉に、なりませんでした。
けれども、なぜだか見たとたん、わかったのです。「これが私の本体である」と。
ふだんこれが自分だと思っていた自分は、単なる仮の自分で、むしろその「エネルギーのうず」こそが、自分の本体だ。疑うことなく、そう思えたのです。
「何だ、そうだったのか」。その瞬間、すべてがわかりました。私は何であり、これから私がどうしていけばいいのか、も。(略)
その「エネルギーのうず」は、ときには私と一体化し、ときには私の頭上に場所を移して、今も私を導いてくれています」
(『人生に意味はあるか』)
なんなんだこれは、という告白で、最後の段落には頭が痛くなってしまう。
どう考えてもあやしいと思う。

広瀬健一氏がオウム真理教に入信したのは、「複数のグル(修行の指導者)の指導を受けると、その異なるエネルギーの影響で精神が分裂する」との麻原の著書の記述に不安になったからである。
「クンダリニーが覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーをコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです」

実際、神秘体験によって「精神が分裂」することがあるそうだ。
たとえば真光。
「霊障とは怨霊など先祖の霊が現在の自分人生の邪魔をしている現象のことです。霊動とは手が自然に震えたり、涙が出たり、自分の意志には反して身体が動く現象のことです。浮霊とはその名の通り霊が現れる現象のことです。そこで起こる体の動きを霊動と定義しております。
が、私は霊動はただ手が震えたり、涙が出てくる程度のもの全般を霊動と言っております。浮霊すると目つきや言葉遣い、体力までもおかしくなります。はっきり言ってあのような状態の人を今思い出しているだけでも恐いです」

高橋紳吾『超能力と霊能者』に、S教団の手かざし治療を受けて憑依状態になって女性(B子)のことが書かれている。
「親戚の女性に勧められて、S教団の道場へでかけ、「○○のわざ」という手かざし治療をうけた。(略)そのときはなんとなく頭が軽くなり、気分が好転した。その日いらいよく眠れるようになったので、以後、会社の帰りに何度も立ち寄り、手かざし治療をうけるようになった。
三度目に行ったところ、B子の合掌している手が震えだし、しだいに身体が前後左右に揺れるようになった。それが「浮霊」現象で、B子に憑いている霊が浮かんできたことを示していると教えられた。またB子自身も他者に「○○のわざ」を行なうことができると言われた。
あるとき、妹にこれを行なっている最中、かざしている自分の手が勝手に動きだし、止まらなくなった。そして「私は○○という武士である」と言い、顔つきがすっかりかわって、激しく身体をゆさぶり、夜の街へ裸足で飛びだしていった。驚いた妹が追いかけ自宅に連れもどしたが、それからも「私は○○(祖母)です」と言ってみたり、架空の誰かに向かって会話するなどの興奮がおさまらなくなった。親戚の女性が駆けつけたり、教団の指導者が訪れて「わざ」をかけたが効果なく、一層激しく暴れるので父親に精神科へ連れてこられた。(略)診断は祈祷性精神病。もっとも教団のその後の弁明によればこれは「神鍛え」の状態であって、もっと熟練した導士に治療をうければなにも精神科に行く必要などなかったということになるらしい」

高橋紳吾氏によれば、このような事例に遭遇する精神科医は少なくないという。
神秘体験の危険性については麻原の言うとおりなのである。
広瀬健一氏の失敗は指導者の選択を間違ったということである。

広瀬健一氏は神秘体験を絶対化することをこのように批判している。
「幻覚的な宗教的経験によっては、決して〝客観的〟な真実は検証できません。できるのは、〝主観的〟に教義を追体験することだけです。それ以上のものではありません。
ですから、宗教的経験はあくまでも〝個人的〟な真実として内界にとどめ、決して外界に適用すべきではありません。オウムはそれを外界に適用して過ちを犯したのです」

こういう認識がない諸富氏たちニューエイジャーは、神秘体験を経験させようと瞑想などを勧めているんですからね、オウム真理教やS教団と変わらない。

コメント (2)
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