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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

広瀬健一「学生の皆さまへ」6 カルマの浄化

2009年07月06日 | 問題のある考え

オウム真理教においてはカルマの浄化ということがポイントだと思う。
悪いこと(悪業を作る)をしたら地獄に落ちる。
では、地獄に落ちないためにはどうすればいいか。
・悪いことをしない。
・すでに作った悪いこと(前世のものも含む)は浄化する。
では、何か悪いことなのか。
・麻原彰晃が決める。
では、どうしたらカルマを浄化できるか。
・麻原彰晃の教えのとおり修行する。
・麻原彰晃はカルマを浄化する力を持っているから、麻原彰晃に浄化してもらう。

オウム真理教における麻原彰晃の位置を広瀬健一氏はこう書いている。
教えということでは、「信徒は煩悩を有しているために正しい判断ができず、それが可能なのは最終解脱者である麻原だけとされていました」
救いということでは、
「また、オウムの教義において、麻原は「神」といえる存在でした。それは、最終解脱者であり、様ざまな「神通力」を有するとされていたからです。特に麻原は人を解脱させたり、高い世界(幸福な世界)に転生させたりする力があると主張していました。私たちに「エネルギー」を移入して最終解脱の状態の情報を与え、代わりに、苦界に転生する原因となる悪業を引き受ける―「カルマを背負う」といっていました―と説いていたのです。カルマを浄化しないと苦界に転生するのですから、カルマを背負ってくれる麻原は、まさに「救済者=神」でした。
麻原の指示が絶対だったのも、そのような「救済」の能力を有するためでした。オウムの世界観においては、苦界への転生の防止が最優先であるところ、麻原の指示の目的は、苦界へ転生する人類の救済とされていたのです」

というように、麻原彰晃は教えと救いの両方において絶対的な位置を占めているのである。

おまけに麻原彰晃はカルマを浄化する力を持っているとされた。
広瀬氏はこういう体験をしている。
「入信の一週間後に、麻原の「エネルギー」を感じる体験が現われました。麻原の「エネルギー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきました。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカを吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。
その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマを背負う」能力を有することは現実でした」

「当時、私は街中を歩いたり、会話をするなどして非信徒の方と接したりすると、苦界に転生するカルマが移ってくるのを感じました。(略)この経験は、カルマが移り、自身が苦界に転生する状態になったことを示すとされていました。さらに、体調も悪くなるので、麻原がエネルギーを込めた石を握りながら、カルマを浄化するための修行をしなければなりませんでした」

教祖が教え主であり、同時に救い主でもあるという宗教は珍しくないし、教祖が救い主ではなくても、救い主たる神と信者とを結ぶ唯一の存在という例は多い。
そうして、カルマの浄化ということもオウム真理教の専売特許ではない。

東本願寺でもこういう記録がある。
「(文政6年)この十一月十五日、京本願寺自火にて焼亡す。近頃かの地より来し人の話を聞に、本堂に火移りしとき、宗旨のども二百余馳集りて消防せしが、火勢盛んにして防留がたく、其辺往来も協がたく成ると、半の人数は門外へ逃出たりしに、残る百人計は本堂とともに灰燼と成て失ける。その後に生残りし、又その間に合ざりし者等打こぞりて後悔し、本堂とともに焼死せし者は真に成仏して来世にを離れて平人に生れ出べしと、皆羨しとなり」
(山本尚友「近世寺院の成立について」)
生き延びた「」が焼死者をうらやましがったのは、焼死者が往生できるからではなく、「平人」に生まれると思ったからということに憐れさを感じる。
本願寺のために一生懸命尽くしたら、来世では「平人」に生まれるぞと、そういうふうに坊さんは説いていたんだろう。
「」が本願寺とともに焼死したら「平人」に生まれ代わると考えたのはどうしてかというと、本願寺のために死ぬことは善業だから、あるいは「」に生まれたカルマ(悪業)が焼死することで浄化されるからだと思う。

死刑囚だった免田栄さんはこう言っている。
「浄土真宗の教誨師が来て、前世において死刑囚になる因を持っていたから現世において死刑囚になっている、故にそのままの姿で処刑されねば救われない」
(免田栄『免田栄 獄中ノート』)
こういうお説教をした教誨師は、カルマの法則を信じており、処刑されることでカルマが浄化されると思っていたのだろう。

苦しみによって今まで作ってきた悪業が浄化されるということはオウム真理教でも説いている。
「たとえばなにか悪いことが起こっても「あ、カルマが落ちた。よかったね」って言って、みんなで喜んだりします。失敗しても叱られても、なんでも「これで私の汚れが落ちたんだ」になってしまう」
(カナリアの会編『オウムをやめた私たち』)

このカルマ落としという珍説は、京セラ創業者の稲盛和夫氏も説いている。
自分の私塾である盛和会(塾生の多くは企業の経営者)で行なった講話。
「大病になるとか挫折するとか、そういう災難に遭うのは、自分が過去に―先祖をも含めて―魂が積んできたカルマ、業というものが消えるときなのです。私は皆さんに、災難に遭ったら喜びなさい、とよく言います。それは、自分が今まで犯した罪が消えるのだから、その程度のことで済んでよかったではないかと言いたいわけです。実際、今度の震災では不運にも亡くなられた方がたくさんいらっしゃいますが、皆さんはこうして元気に生きておられます。つまり、あなたの魂が今まで積み重ねてきた因果が災難に遭って消え、カルマが消えたのです。
大地にもカルマがあります。神戸周辺は昔の源平合戦やいろんなことがあって、そこには定着したカルマがあったのでしょう。私には、そういう積み重ねられたカルマを清算するために、今度のような大震災が起きたとしか思えません。しかし逆に考えれば、神戸周辺のカルマはいま消えたのです。ですから今後、神戸地区は大きく発展するはずです」
(斉藤貴男『カルト資本主義』)
何度も引用するが、江原啓之氏の発言。
「例えば、自分は殺されたとします。自分が殺されることができるというのは、人がいるからだと。
殺してくれる人がいるから自分が殺されることができるんだと。だから、その人に対しては感謝しなきゃいけないと。それで、自分を殺すということのために、その人はその分カルマを背負ってくれる。
自分は殺されたことにより、殺された心の痛みを理解できて、二度と人を殺さない魂になれる。だから、その人のおかげで自分はそれだけ向上できるんだから、そして自分のことでカルマを背負ってくださるから、その人を愛さなきゃいけない。
ですから、世界人類みな愛さなきゃいけないにつながってくる」
(佐藤愛子・江原啓之『あの世の話』)
不幸な体験はすべて前世で悪いことをした報いだ、しかし苦しい体験をすることでカルマは浄化された、というわけである。

『歎異抄』に「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」という異義が取り上げられている。
日ごろ念仏を称えない十悪五逆の罪人が、命終のときに初めて念仏を称えたら八十億劫の罪が滅せられる、という教えである。
この称名による滅罪もカルマの浄化と考えていいと思う。
麻原彰晃のエネルギーをこめた石と南無阿弥陀仏は同じ力を持つわけだ。
この異義に対して、唯円はこのように批判している。
「業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしておわらん。念仏もうすことかたし。そのあいだのつみは、いかがして滅すべきや。つみきえざれば、往生はかなうべからざるか」(業縁によってはどんなことが起こるかわからないし、病苦によって心の平静を保てずに命が終わることもある。その間の罪をどのようにして滅するのか。罪が消えなければ往生できないだろうか)

何らかの方法によってカルマを浄化しても、それで終わりにはならない。
生きている限り悪業を作る可能性はあるし、他人のカルマが移ってくるかもしれない。
だから、死ぬまでカルマを浄化し続けなければならないわけで、「現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる体験をしている」から、麻原彰晃から離れることができないことになる。
死ぬ間際までカルマ(悪業)を作る可能性があるのだから、死ぬまで救われるかどうかわからないということでは救いにはならない。

熊谷直実が法然に入門する際にこういうことがあったという。
法然のもとを訪ねた熊谷直実が後生菩提のことを尋ねたら、法然は「ただ念仏だに申せば往生するなり、別の様なし」と答えた。
法然の言葉を聞いた熊谷直実は涙を流し、「手足をも切り、命をも捨ててこそ後生が助かる」と言われるかと思っていたらのに、念仏だけ申したら往生すると簡単におっしゃったので、あまりにうれしくて泣いてしまった、と話した。
手足を切り、命を捨てることが、今まで作ってきた悪業を消すこと(カルマの浄化)になり、それによって往生できる(オウムの場合だと解脱)できると、熊谷直実は考えたのである。
それに対して法然は「ただ念仏」と答えた。
悪業を浄化することが救いなのではなく、宿業を背負って生きる道が開けた、ということだと思う。

オウム真理教はカルマの浄化を説いていたが、本部やサティアンは乱雑で汚かったというし、信者も身なりをかまわなかったそうだ。
広瀬氏も
「(ボツリヌス菌の大量培養してた時)私は約三か月間教団の敷地に缶詰めにされ、風呂にも二度しか入れませんでした。それも、関連部品の購入のために業者を訪問するときなどに、指示されての入浴でした」
と書いている。
住まいや肉体は浄化しなくてもいいらしい

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