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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

渡瀬信之『マヌ法典』

2009年07月16日 | 問題のある考え

カルマやケガレのことなどを考えていて、ほんとたまたまなのだが、渡瀬信之『マヌ法典』(原典訳ではなく解説書)を読み、マヌ法典は日本のケガレ観にも大きな影響を与えているのか、なるほどそうだったのかでした。

マヌ法典は法律書ではない。
紀元前後に編纂された書物で、ダルマという原語から法と訳されたのであり、この場合のダルマとは、ヴァルナ体制(カースト制)という社会秩序原理の理念化、と同時に人間の正しい行動様式の確立ということである。
「人々の社会機能と日常的な行動の準則ないし規範を一体としてダルマと呼び」「それの究極の権威、根源」がヴェーダということになる。

マヌ法典、すなわち古代インド社会においては、浄・不浄観が社会、個人の価値観の中心である。
人は常に清浄であることを求められる。
古代インドの浄・不浄観で特徴的なことは
「罪が汚れと同一視されたこと」
「汚れ・罪が実体視されていたこと」

だそうで、やっぱりそうかとムフフでした。

罪を犯す、あるいは汚れに汚染されると不浄となり、社会から排除されるし、死後にも悪影響がある。
主な不浄は誕生と死である。
古代インドでは、誕生と死は強い汚れを引き起こす出来事とされた。
汚れ=罪は実体だから、接触した他者に移動し、親族も汚される。
誕生と死の汚れは本人だけではなく、近親者をも巻き込む。
誕生に伴う汚れは生まれてくる子供に強く作用する。
「この時期(幼児期)の子供は誕生に際して父母から受け継ぐ罪のために不浄な存在であり、シュードラと同等視される」
誕生の汚れは実質上母のみが巻き込まれる。

それに対して死の汚れは、乳児の死であれ成人であれ、全親族を汚れによって汚染する。
「死が生じるとき、その汚れはかれらから葬送儀礼以外のいっさいの儀礼を行なう資格を奪い、かつかれらを不可触にしてしまう」
家族が死ぬと不浄期間が規定されていて、それを守らないといけないのだが、中国や日本の服喪期間ほど長くはない。
中国の場合、父親が死ぬと三年間(実質は一年ちょっと)喪に服さなくてはならない。
もっとも中国の服喪の意味は死のケガレを忌むということではなく、親が死んで悲しみのあまり外に出ることができないということらしいが。

で思うのが、死がケガレだから、生前にいくら浄化していても、死ぬと同時に霊魂にケガレがついてしまう。
となると、生まれ変わってから清めるかしないといけないということになる。
で、また死ぬとケガレがついてしまう。
これではいつまでたっても浄化されることはないことになる。
そこらをどのように考えたのだろうか。

それはともかく、不浄は他から移ることがあるので用心しないといけない。
たとえば、飲食物を介して汚れ、罪が移る。
「飲食物に関するタブーは、古代インド人に特徴的な浄・不浄観および罪観念と不可分であった」
バラモンは不浄な飲食物を食べてはいけないし、飲食物を供してくれる相手の人間についても慎重でなければならなかった。
「たとえ食べ物それ自体は不浄でなくてもそれを供する人間を通じて汚れや罪が移行することを恐れたのである」

不浄物と接触した飲食物の中には、月経中の女が触れたもの、鳥がついばんだもの、犬が触れたもの、頭髪や虫が混入しているもの、意図的に足が触れられたもの、産後の女に用意されたもの、死による十日の汚れが過ぎていない家の食べ物などがある。
死、生理、出産は犬や虫と同じ扱いなわけである。

飲食物の受け取りを回避すべき人間のリスト。
大工、金貸し、医者、鍛冶屋、造り酒屋、洗濯屋、役者、遊女、泥棒、屠畜者、病人、男子を持たない女、妻の言いなりになっている男、前世の罪による疾病あるいは身体的な欠陥を有している者、シュードラ、都市の長官、王etc。
贈物も汚れが移る可能性があるから、バラモンは贈り物を受け取ることに慎重でなければならない。
バラモンもなかなか大変なのである。

行為の因果作用は行為者だけではなく、祖先と子孫にまで及ぶとされる。
マヌ法典ではこのように説かれる。
「この世においてなされた不正は雌牛[が乳をだす]ように即座には結果を生まない。しかし徐々に巡り来て行為者の根を断ち切る。
[罪は]自分に[降り掛から]ないときは息子たちに[降り掛かり]、息子たちに[降り掛から]ないときは孫に[降り掛かる]。不正は一度なされれば行為者に結果を生まないことはない。
[結局は]その者は根底から破滅する」

人は先祖の罪を背負って生まれてくることになる。
だから、「子供(息子)の「家」にたいする最大の責務は、祖先と子孫を罪から解放することであった」

では、不浄だとどうなるのだろうか。
清浄であることは死後の果報を得るための不可欠の要件である。
「死後の最も好ましい在り方は、神界、太陽界、月界、天界あるいはブラフマンの世界へ到達されることであるとみなされた。(略)そこは少なくとも不滅ないし不死の、そこに到達したならば二度とこの世には戻らない世界であった。ひとは死後これらの世界に到達し、そこで栄え、幸福を手にし、そして征服することを究極の願いとした」

逆に不浄は、この世における人々の非難と社会からの排除をもたらし、あの世の果報を失わせる。
「永遠と不死を約束する天界等の世界に対置されたのは「滅亡」、「地獄」そして「再生・転生」であった」
汚れの中でも罪による汚れは最も悲惨な結果を引き起こすと考えられた。
「この世で悪行をなした者は死後地獄に落ち、罪の大小にしたがって百年、千年あるいは流れた血を吸い取る砂の数の年数を地獄で苦しみ彷徨った後、再びこの世に戻り、様ざまの獣、鳥、家畜、虫あるいは蔑視されている人間の母体に入って転生する」
「さまざまな疾病や身体の欠陥は前世において罪を犯した報いに他ならなかった」
天界に生まれるか、それとも滅亡したり地獄に落ちて転生するかは、この世においてどのような行為をするかによって決定されるとみなされた。

汚れ=罪は実体だから、除去することが可能である。
不幸にして汚れに汚染されたなら、速やかに清めを実行して汚れを消滅させ、心身の清浄を回復することが不可欠となる。
罪は汚れと同一だから、罪の清め、すなわち贖罪も他の汚れの清めと同じに取り扱われる。

では、どのようにして清めるのか。
「生まれる者自身は受胎式に始まる一連の儀礼によって清められ、一方、死者は葬送儀礼によって清められる」
幼児は受胎式、誕生式、命名式、入門式などいった、定められた一連の儀礼を受けることによって身体を徐々に清めていき、ブラフマニズム世界に加入するための準備を整える。
「これらの儀式によって幼児は徐々に父母から受け継いだ罪と汚れから清められていく」
家長になると、重大な祭式は祖霊祭である。
罪を犯した場合、この罪にはどういう苦行や清め(水をすする、沐浴、聖句を呟くなど)をするかはマヌ法典に決められている。
もっともこうした規範はバラモン、そしてせいぜいクシャトリア、ヴァイシャが守らなければいけないとされていた。

面白いのが、バラモンの正規の生計手段はヴェーダの教授、司祭職および贈物を受け取ることだったが、実際にはいろんな職業に就いていたという。
博打打ち、医者、寺僧、肉売り、高利貸し、油売り、賭場監督人、占星術師、建築士、庭師、農夫、羊飼い、歌舞芸人など。
なぜ農業がだめかというと、農業は生き物を殺すことになるから、できれば避けるべきだとされた。
自分たちは生産的なことは何一つせず、自分に代わってしてくれる人たちを差別し、汚れ=罪を作っているのだから来世にはいいとこには行けないと脅しているわけで、勝手なもんだと思う。

日本でも同じようなもので、河田光夫氏によれば、平安時代に悪人とは差別され、虐げられている下層民、のことである。
具体的には、農民・漁夫・狩人・手工業者・商人、そして屠者や癩者、さらには女性たちが悪人であり、悪人であるがゆえに死後に苦しみが待っているとされた。
日本ではもともとケガレという観念がなく、仏教伝来と一緒に日本に入ったという説があり、神道はケガレを嫌うんだからそんなことはないだろうと思っていたのだが、案外とインド渡来説は正しいかもしれない、というのが『マヌ法典』の感想でした。

コメント (4)
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