この世の終わりが来るという終末思想は昔からある。
そもそも予言とは日時をはっきりと断言しない。
ノストラダムスもその一人。
ノストラダムスについて『トンデモ超常現象99の真相』にこう書かれている。
第三のテクニックは、「期限を明確にしないこと」である。彼の予言には、その事件が起きる年をちゃんと記載したものはほとんどないのだ。「○○年に起きる」とはっきり書いてしまうと、その年が過ぎてしまったら、はずれたことが誰の目にも明らかになってしまう。逆にいえば、期限を指定しない予言はいつまでたってもはずれないわけで、はずれないかぎりは予言者としての名声に傷がつくこともない。
「○年○月○日にこの世の終わりが来る」と、終末の日時を明言することもある。
予言者の言葉を信じる信者の中には、終末に備えて財産を処分したり、仕事を辞める、畑を耕さない人がいる。
言うまでもなく、終末の予言はすべてはずれた。
だったら信者は去っていくかというと、L・フェスティンガー他『予言がはずれるとき』(1956年出版)によれば、予言がはずれても信者はかえって熱狂し、活発に布教活動するようになる。
イエスをメシアだと信じた人たちが、イエスの処刑後に布教活動に出かけたことも同じかもしれない。
『予言がはずれるとき』は「明確になされた予言が実際にはずれた後、このグループの布教活動が全体的に以前より活発化するという、理論的に予測された逆説的な現象を実証しようという研究の報告」である。
キーチ夫人という女性が12月21日に大洪水が起きてアメリカの大部分が水没するという予言をする。
この予言を取り上げた新聞記事を読んだL・フェスティンガーたちは、先の理論が実際に当てはまるかどうか、予言がはずれた時の信者たちの心理状況はどうかといったことを観察するために、キーチ夫人のグループに接触する。
キーチ夫人(というか宇宙人)の教えはニューエイジそのもので、目新しくはない。
キーチ夫人はある日、自動書記をするようになる。
最初は死んだ父の霊だったのだが、次第に高次の霊(宇宙人)が現れてくる。
そして、大洪水が起き、少数の人が空飛ぶ円盤によって他の惑星(高次の世界)に連れて行かれると予言するのである。
自動書記は珍しいことではなく、天理教の中山みき、大本の出口なお、幸福の科学の大川隆法といった人も自動書記をしている。
洪水の前に空飛ぶ円盤がやってくると信じ、寒さにふるえながら空飛ぶ円盤を待っていたが、キーチ夫人の予言ははずれ、洪水は起きないし、宇宙人はやって来ない。
それにもくじけず、その後、彼らは活発に活動し始めるのである。
そして、キーチ夫人の教団は『予言がはずれるとき』が出版されてから30年以上たっても活動を続けており、数千名の会員がいるという。
ということで、L・フェスティンガーたちの理論が証明されたわけである。
エホバの証人は1843年、1874年、1878年、1881年、1910年、1914年、1918年、1920年、1925年、そして1975年と、何度も終末の予言をしては、見事にはずれている。
にもかかわらず、いまだに活発な活動をしているのだから大したものだ。
セブンズデー・アドヴェンティストは1840年代に創設され、ウィリアム・ミラーが1843年3月21日に世界の終末がやってくると予言したことが、この宗派の結成のきっかけ。
終末が来ないので、ミラーは計算をやりなおし、1844年10月22日に修正した。
年代の計算ミス、信仰を試した、祈りが届いて危機が回避された、などという言いわけを信者は信じるわけだから不思議な話である。
L・フェスティンガーは「認知的不協和の理論」を提唱した著名な社会心理学者。
「認知的不協和の理論」とは、訳者の解説によると、二つの認知要素AとBが不協和な関係にある時、調和のとれた状態に近づけようとする動機づけが生み出される。
たとえば、「タバコを吸っている」(認知要素A)と「タバコが有害であることを知っている」(認知要素B)とは不協和を生じている。
タバコをやめれば不協和は解消される。
しかし、タバコをやめられない場合、Bを変える、つまり「タバコは有害ではない」というふうに認知を変えなければならない。
そこで、タバコ有害説を論じる情報を避けるなどする。
しかし、タバコ有害説は広く認められているから、Bを変えるのは難しい。
そうなると、不協和を低減する別の戦略を考え出さなければならない。
たとえば、タバコを吸おうと吸うまいと、人間は必ず死ぬものだと考える。
たとえば、喫煙はリラックスさせる効果があるといった、タバコの効用を付け加える。
キーチ夫人のグループの場合。
A 予言を含む教えを確信している
B 予言は完全にはずれ、否定しようがない
不協和な状態だが、信念に深くコミットしている人(仕事を辞める、家財を売り払うなど)ほど信念を捨てることが難しいから、どちらも変えるわけにはいかない。
では、どうするか。
予言がはずれても信念を信奉する人がいることが、信念にとって協和的要素になる。
だから、同じ信念を抱く人を増やし、協和的要素をより多く得るために布教活動が活発化することになる。
その結果として信者が増えれば、予言失敗の正当化を含めて、自分のまわりには現実を同じように見る人ばかりになり、信念が客観的現実に転じる。
こうして、予言がはずれたことによってでは、信念が揺らぐことがなくなる。
多くの人々によって非合理的信念が信じられ、客観的には誤った現実が受け入れられるのは、こういう心理が働くからである。