県警は「寄せられた意見は、『高校生が言うことを聞かないから殴った』という誤解に基づいている」と困惑している。
意見のほとんどは「殴ったのは悪いが逮捕する必要はない」「マナーの悪い若者を注意できなくなる」「厳しい処分をしないで」などと巡査長を擁護する内容。数件だけ「暴力は絶対にいけない」と非難する意見があった。
再会見は、巡査長が逮捕された翌日の5日に続くもので、西村昇監察官室長が行った。西村室長は「高校生は駅員らに注意を受けて素直に従っていた。巡査長はいきなり高校生の髪の毛をつかんで殴った」と説明。高校生の母親からも「事実関係が間違って伝えられている」と苦情が寄せられているとした。
県警によると、高校生は4日夜、横浜市旭区の相鉄線二俣川駅で、普通電車の中からホームに向けて拳銃型のライターを撃つまねをした。車掌らが注意し、高校生は「分かりました」と従い、ライターをカバンにしまった。隣の車両からその様子を見ていた巡査長は、高校生が友人と談笑しているのを「反省していない」と思い込み、次の駅で降りた高校生を呼び止め、髪の毛とカバンをいきなりつかみ、「カバンの中のものを出せ」と顔を殴った。この間、高校生は反論しないで黙っていた。
県警は「巡査長の行為は警察官として許されない行為。注意したというより、因縁をつけて殴った状況で、巡査長の行動を正当化する見方に戸惑いを感じる」としている。(2007年9月6日23時33分 読売新聞)
この事件が最初、どのように報道されたか知らないが、巡査長を擁護する人の気持ちは私にもわかる。
近ごろの若い者は口で言って聞かせただけじゃわからん、言ってもわからない奴には身体でわからせるしかないという思いがあるからこそ、巡査長が暴力を振るう気持ちに共感したのだと思う。
暴力による教育だから、戸塚ヨットスクールと同じ心性である。
我々の心にはこうした独善的正義感を振りかざした暴力衝動がある。
テレビで殺人事件のニュースを見ながら、あんな奴はさっさと死刑にしてしまえと思ってしまう私がいる。
心の底では暴力を正当化しているのである。
真城義麿先生がこういう話をされている。
すると出口をなくしたその嫌なことが渦巻いて濃縮し、やがて毒となっていく。するとなんかの拍子で、口が開いたとたんに、非常に攻撃的で凶暴なものとして出てくるわけです。
毒を吐き出す人は特別な人間ではない。
誰もが、いつ毒を出すかわからない。
ハドン・クリングバーグ・ジュニア『人生があなたを待っている』にこんなことが書いてある。
その通りだなと思う。
正しい人はこうしたバイアスに陥りやすい。
バイアスや固執を防ぐことはできないと思う。
だから、自分の考え、ものの見方にはバイアスと固執は必ずあるということを、頭のすみっこに置いておかないといけない。
『人生があなたを待っている』はV・E・フランクル(『夜と霧』の著者)の伝記。
フランクルは「ときとして厳しく、気短で、討論ではせっかちで辛辣な態度をとる。公開講演や私的な会話の場でも威圧感を感じさせることがあったし、自慢好きで自己満足にひたっているような印象を与えた」そうだ。
フランクルは人格円満な人だとばかり思っていたが、フランクルでさえこういうとこがあると知り、ホッとしたというか、がっかりというか。
(追記)
プロレスラーの木村花さんがSNSの誹謗中傷で亡くなり、新型コロナウイルスによる休業要請にもかかわらず開いている店に自粛警察が抗議する。
この人たちは正しいことに酔っていると思う。
正義による暴力の肯定は怖い。